壹話
私の今目の前にいる男。
彼は恐らく大学生のはずだったのだけれど、その顔はひどく老けこんでいた。
老けこんでいたというよりも、むしろ病んでいた。病みきっていた。疲れきっていた。
目にはど黒く大きなクマが浮かび上がり、髪はボサボサと造作もなく跳ねていて、その印象は直感的にいうなら「不潔」そのものであった。
彼はまるで一週間ずっと眠らずに連続稼働している不眠不休のブラック企業社員のような顔だったのだ。今にも疲れ果てた体をビルから投げ落としてしまいかねないほどに、彼は疲れきった顔をしていた。
「おい……何をぼけっとつっ立っているんだ。何か要件があるから、何か頼みごとがあるから此処へやってきたんだろ。何も要件が無いならこんな辺鄙な場所にやってきやしない。そんなのはよっぽどの物好きというか、もはや悪趣味なやつだけだろう」
疲れきった顔の彼は、いかにも疲れ果てて、今にもぶっ倒れてしまいそうなほどに気怠い声でそう言うのだった。
「要件を言え。俺はここ一週間ずっと眠ってないんだ。そろそろ俺を休ませてくれよ。とにかく時間が惜しい。早く要件を言え」
「そうね……では早速だけれど本題に入るわ。……ある男を殺してほしいの」
「ほう……ある男?」
私の目の前にいる、ぐったりと死にそうな顔でボロボロの肘掛け椅子にもたれかかっているこの男は、興味があるのかないのか分からないような口調でそう問いかけるのだった。
「そう……男」
「うーん……具体的な名前っつうか情報を教えてもらわない限りにはどうしようもねえなあ。それに俺は殺し屋じゃないぜ?人殺しなんて物騒な頼みごとをされる覚えはねえんだけどなあ」
「最後の部分だけは聞き流してあげるわ。雨露小次郎……それが私の殺してほしい男の名前。年は16か17で私と同じ東星学園大学附属東星高校に通う2年生。顔は面長で目は鋭く細い。ひょろひょろと細長い体格をしていて、蹴ったら折れてしまいそうなほどに頼りない男よ」
男はそれを聞くと、ギシギシと音を鳴らしながら肘掛け椅子をぐるぐると回転させる。彼がまわるたびにスポンジかほつれた革の粉塵が零れ落ちる。
「ほーう、名前は分かった。年も分かった。どこの学校に通う何年生の生徒なのかも分かった。そいつがまるでモテそうにない憐れむべき残念なやつだということも分かった。だがひとつ分からない」
男はその先を勿体振るように話さない。
「何が分からないの」
「そうだなあ、さっき分からないことはひとつだ、と言ったが訂正しよう。分からないことは3つほどある」
男は肘掛けにだらりとぶら下げていた手をこれまた気怠そうに持ち上げて、親指、人差し指、中指と3つの指をひらいてそう言った。彼は私の質問になかなか答えようとしない。それは答えるのを勿体ぶっているというよりか、私を弄んでいるように思えた。
「1つでも3つでも9つでも何個でもいいわよ、そんなこと。いいから早くその分からないことを答えなさい」
「まあ、そう焦るなよお嬢ちゃん。焦ってばかりだと幸運が逃げていくぜ?それに、老けるのも早くなる。君はまだまだピチピチで何とも可愛らしいじゃないか?自らせいておばさんになろうとすることもないだろう?」
「そういうのはいいから。早くして」
彼はやっぱり気怠そうにぶふーっとため息をついて、苦笑いなのか嘲笑いなのか、かかかっと不気味な笑い声をあげた。
「若い時間は貴重だもんなあ……まあいい、一つ目からいこうか」
そう言って男はぴしっと広げられた中指を折りたたむ。
「一つ目、その男を殺したいとまで思った理由だ。人間あらゆる場面で殺意を抱くことはままあるが、それを実際に行動に移すことは少ない。極めて稀だ。そんな希少で奇遇でレアな確率をくぐり抜けてまで、お前はその男……えーと名前なんだっけか?」
「雨露小次郎よ」
「あーそうだった失敬失敬。その雨露少年をいざ殺さんと行動に移ったわけだ。現にこうして俺に殺しの依頼をしている」
男はニヤリと意味の含んだ笑みを浮かべる。私が彼に抱く印象は、やはり"不気味"というものだろうか。どこまでも奇妙で奇怪で狂気で、この世のものではないような不気味さを持っている。
彼は何かこう、普通の人間にはもっていない、底知れない深淵のような闇を抱えている人物なのではないかと、初対面ながらにそう思ったのだった。
「まあ……ただ因縁や怨恨とか、人を殺したくなる動機なんていくらでもそこら中に星の数ほど転がっているわけであってな、別に何らおかしいことでもない。お前がその数奇な確率をたまたま、これもまた運命的に潜り抜けただけのことであって、別にありえないわけじゃない」
「まあ、そうね」
「ただその理由を聞くのは少し後でということにしておこう。というかもはや聞く必要もないかもしれないな。クライアントが明かしたくない秘密を無理に探るのはあまりよろしいことじゃない。それに俺には何の興味もないからな」
そう言って男はまた不気味にかかかっと笑うのだった。
現実の世界において、「かかかっ」などと不気味な笑い声をあげる人物をみたのは、私の歴史上彼が初めてであった。
「そうね、じゃあ二つ目にいきましょう」
男はコクリと頷く。そうして神妙な面持ちをして、ピンと伸ばされた人差し指を畳む。
「二つ目だ、それは話に聞く限りとてつもなく弱っちいんだろ、……彼は」
この男、恐らくまた名前を忘れている。
「そうね、間違いなく弱っちいと思うわ。雨露君は」
「ふん……だったら何故自分で殺さないんだ。君はあくまで女の子なのだとしても、他の女の子よりは強そうにみえるし、蹴ったら折れてしまうほどのひょろひょろな彼のことなど容易く殺せるんじゃないのか?蹴ったら折れてしまう程度の男なら、蹴ってその腰ごと、脊髄ごとへし折ってやれば良いんじゃないのか?」
「それが出来ていたならとっくにそうしているし、こんな辺鄙なところにわざわざきていないわよ」
「そりゃそうだ」
男はそれだけ言って、パタリと黙り込んだ。その先の言葉は紡がない。恐らく彼の返事というか、私の答えた解答に対する返答はそれだけということなのだろう。
つまりそれの意味するところは。
「その理由は言わなければならないということなのかしらね?」
「是非ともお願いしたいね。何とも興味深い」
男はさも興味深くない様子でそう言うのだった。一週間まるまる眠っていない人間なのだから、仕方ないといえば仕方ないのだろうが。
「そりゃあ決まっているわ、ひとつよ。殺したら私、警察に捕まっちゃうじゃない」
「ばれなきゃいいじゃないか。警察にバレないようにやればいい」
「私にそんなスキルは無いわよ。人間は何度も練習を積み重ねない限りには大抵のことは失敗する。殺しの練習なんて、私にはそうやれる機会がないの」
「……まあ、いいだろう。じゃあ何で警察に捕まりたくないんだ?どうしても殺したい相手なのだとしたら、たとえ自分が捕まっても殺したいものなんじゃないのか」
男は退屈そうに再びぐるぐると肘掛け椅子を回し出した。ギシギシと椅子は辛そうな音を漏らす。だいぶ年季が入った椅子だ。男がこのまま調子に乗って回し続けたら、すぐにでも壊れてしまいそうなほどに。
「というか、むしろ捕まる程度じゃ済まないかもしれないな。死刑とか。人殺ってのは一番重たい犯罪だからな。無理もあるまい」
男は壊れてしまった椅子を悲しそうに眺めながらそう言うのだった。
「捕まりたくはないし、死にたくもないの。私は自分が生きるためにあいつを、雨露を殺すのだから、私が死んでしまっては本末転倒というものでしょう」
「ほう……その雨露とかいう人間に、脅されでもしているのかい。なんだ……高校生のくせに血の気の多い関わりをしてる奴らだな。なんだなんだ恋のもつれか?いいなあ若いってのは、恋とか愛とか青春とか、どうにもきらきらきらきらと……」
男はその後もだらだらと腐れ文句や屁理屈を並べようと口を開かんとしたが、それは私の彼の胸ぐらへと伸びた腕が静止した。
私は怒りのあまりに我を忘れ、彼の胸ぐらを掴んでいた。それは彼の私に対する冒涜するような侮辱するような態度にひどく苛立ちを覚えたからだ。私は彼の文言及びその態度にひどく腹が立っていた。
私が死の危機に晒されていることを打ち明けた相手が、それを全く気にも止めないことに腹が立ったのかもしれない。私はとにかく、どうしようもないほどに追い詰められていた。
私がこんな状況になってしまったのは、彼、すなわち雨露小次郎という男のせいであって、事の発端である彼との出会いはおよそ三ヶ月ほど前に遡る。