第8話 - 「口は災いの元」
「どうだ? トッド。順調に進んでいるか?」
「ああ、姉上。もちろん、順調に進んでますよ」
それから数日後、トッドは背後から近づく声に身を翻した。
臨時の練兵場として使われている広場には、伝令の声と兵士たちの足音が響き渡り、砂埃に塗れた鎧が、朝の陽射しを受けて鈍い輝きを放っている。
トッドは百人長の一人に場を任せると、ウルシアの元へ駆け寄った。
「そうか。ところでウォレスはいるか?」
「いや、ここには居ませんよ……ウォレス兄に何の用事です?」
「ん? まあ、大したことではない。居らぬのならばそれでよい」
「……そうですか?」
「何だ? 何か言いたそうだな」
「何なら何人か探しに出しますよ?」
「そこまでする必要はない。余計な気を遣わず訓練に集中しろ」
「…………分かりました。ま、姉上がそれで良いというならいいんですよ」
トッドは思わせぶりな口調で告げた。
「言いたい事があるなら、はっきり言え」
「ウォレス兄。あれでいて結構もてるから……」
ウルシアの眉間がピクリと反応を示した。
五年前と比べ、色々な意味で磨きの掛かったウルシアではあったが、未だ変わらぬものも無論ある。それは彼女のことを良く知る者であれば、誰もが気づくことであったろう。
少女とのやり取りからして、あの態なのだ。ウルシアの弱点を知り尽くしたトッドにとって、彼女をからかうなど雑作もないことであった。
(知識の探求とか剣の修行ばかりやってないで、ちょっとはこっち方面も鍛えなきゃねぇ。ただでさえ競争の激しい相手なんだからさ)
トッドは『この際だから、訓練をかねて弄り倒してやろう』という本音を、建前で包み隠した。悪戯心に火が付いてしまった以上、何もせずに消し止めるなど出来ようはずもない。
「ホント、羨ましいですよ。何もしなくたって、綺麗な女性が寄ってくるんですから。まあ、朴念仁ですからねぇ。ウォレス兄自身は、相手の好意とかに気づいていない見たいですけど……何だか見ていて相手の女性が可哀想になってきちゃいますよ」
「ほ、ほぉう。そうなのか」
「この間も街で綺麗な女性と話てたんですよ? あの様子じゃ相手の好意には気づいてないんでしょうけどね……今も今とてどこで何をしている事やら……」
いつ如何なる時であっても遊び心を忘れないのは、果たして良いことであるのか悪いことであるのか。姉の動揺を感じ取り、トッドの口元が歪んだ。
トッドにとって不運だったのは、それを姉に見られたことであろう。
ウルシアはトッドの魂胆に気づくと、努めて表情を改めた。咳払いを一つ入れ、一瞬だけ思考する。
「…………言っておくが、私はウォレスの私生活にまで口を出すつもりはない。将軍としての仕事を果たしさえすれば文句は言わぬ」
「そうですか? まあ、姉上がそう言うのなら」
ウルシアは弟の返答に一つ頷くと、トッドの肩越しに訓練の様子を眺めやった。
百人長の指示の元、隊旗と指示旗が翻る。
ローテーションを組んでの見回りと違い、今後の戦は総力戦になるだろう。伝令役を設けたとはいえ、声による指示だけでは限界がある。旗や楽器による合図を取り入れ、軍としての機能を向上させる必要があった。練兵場に集められた兵士たちは、そのための訓練を行っていたのである。
「初めてにしては、皆、中々の動きだな。この調子ならば間に合うか」
「今後、勝ち残るためには外せない訓練ですからね。手は抜きませんよ」
「そうしてくれ。唯でさえ数が少ないのだ。何をするにしても、統率の取れんことには話にならん。百人程度の小集団であれば、さほど心配する必要はないのだろうが、今後はそうも行かぬ。戦場の喧騒や混乱も考慮せねばならぬしな」
「分かってますよ姉上。それと、今日は午後から戦闘訓練をする予定です。ま、この辺はウォレス兄と二人でやりますんで大丈夫ですよ。姉上は姉上の仕事を……」
ウルシアは、『二人で』の部分を若干強調した弟の顔に、指を突きつけた。
「そうは行かぬ。私も軍師として指揮を執らねばならんのだぞ。日頃の訓練にも参加せぬような軍師の言葉に誰が快く従うというのだ? 私は机上の軍師などになるつもりはない。毎日とは行かぬが、訓練には私も参加するからウォレスにもそう伝えておいてくれ」
「は……はぁ」
下手に参加されて自分に矛先が向いては甚だ迷惑と、思わず言葉に力が入ってしまったのが悪かったか。ともすれば『稽古を付けてやる』などということにもなりかねない。その不安がトッドの歯切れを悪くさせた。
「何だ? 不服そうだな」
「い、いやぁ。そんなことは……」
過去の悪夢が脳裏に蘇り、トッドの背を冷たい汗が伝い落ちる。
「……ふっ。そうか。では、お前には後で私が特別稽古を付けてやる。楽しみにしておれよ」
「えっ!? ……いや、それはあの……できれば遠慮したい気が……」
「何を言うか。実の姉に遠慮など無用だ。それではまた後でな」
頬を引きつらせる弟に、ウルシアは満面の笑みで答えると、領主館へ向けて歩き出した。
「…………あれ、分かって言ってるよねぇ?」
一連の会話を思い返すに、どうも話の流れを誘導された気がしてならなかった。
いつにも増して姉が簡単に引き下がったことを警戒するべきだったと後悔するも、既に遅い。
皆はウルシアを天使だの女神だのと形容するが、その本性は黒い翼と先の尖った尻尾を有しているに違いない。
「皆……騙されてるよ」
そう呟き、トッドはがっくりと肩を落とした。
その夜、ウォレスが自室で翌日以降の訓練メニューを練っていると、古い木製の扉が小さく来客を告げた。
返事を待つことなく開かれた扉から、トッドが虚ろな表情を覗かせる。
「ウォレス兄ぃ~」
情けない声を吐き出し、トッドがふらふらと入室してくる。
「な!? どうしたトッド! 何があった!?」
右腕とも言える男の有り様に、ウォレスは驚きの声を上げた。
服は汚れてくたくたになり、肌の露出した部分には、擦り傷や切り傷、青痣が見て取れる。
もう何年もトッドのこんな姿は見た記憶がない。
筋肉痛が酷いのか、一歩進む度に膝が落ちそうになっている。
トッドはやっとの事でウォレスの正面まで歩み寄ると、両手を机につき、助けを求めるように告げた。
「あれは鬼です! 悪魔です!! あるいはそれすら従える恐ろしい魔女ですッ!!!」
余程、恐ろしい目にあったのか、トッドの声は震えている。
「お、おいおい。一体何の話だ? 少し落ち着け。トッド」
「落ち着いてる場合ですか! 未曾有の危機なんですよ!? いいですか? 外見に騙されちゃいけません。人当たり良く見えるのは、猫の皮を何十枚も被った結果に過ぎないんです!」
「猫の……皮?」
「あれは稽古なんて生易しいもんじゃないですよ!?」
「……稽古」
ウォレスは怪訝な表情でトッドの言葉を繰り返した。
トッドに稽古を付けられる人物など、そうはいない。『魔女』や『猫の皮』という単語から察するに、相手は女性なのだろう。ウォレスは一人の女性を思い浮かべた。恐らくはウルシアに「久しぶりに稽古をつけてやろう」などと言われたに違いない。思い返すに、彼女が旅立つ前はよくトッドのこんな姿を見た記憶がある。
日頃行われている厳しい訓練にも音を上げたことのない青年が、これ程までに怯えるとは一体どんな稽古だったのか。ウルシアの特別稽古。ウォレスはその内容に興味が湧いた。才能もあってのことだろうが、或いは、トッドの弓や剣の腕前は、その特別稽古の賜物であるのかもしれない。そう思えば、益々気になるところである。とはいえ、トッドのこの動揺ぶりは尋常ではない。まずは話を聞いてやろうと、ウォレスは好奇心を抑えることにした。と、同時に扉の入り口に佇む人影を発見する。
「ま、まあ、その辺にしておけ。な? トッド」
内心の焦りを押し隠し、トッドをなだめにかかる。
入り口に立つ人物に見つからぬよう、目で合図を送るも、興奮したトッドはそれに気づかない。なおも捲し立てるトッドに、人影が接近する。
「いいですか? 決してあの外見に惑わされちゃ行けません。姉上は……」
そこで、トッドは凍り付いた。
その肩に置かれた繊細な指が、こりをほぐすように揉み動かされる。
「姉上は……何だ? 弟よ」
「ひぃぃっ」
いつになく優しい声音に、トッドの顔から血の気が引いていく。
「あ……姉上……」
ぎこちない動作でゆっくりと振り向いた先では、実姉が満面の笑みで佇んでいた。
「うむ。何だトッド。続きを聞こうではないか。ん?」
その表情に反した姉の瞳に、トッドの脳裏で危険を示す明かりが明滅する。
「あ……あー、えーと……あ、姉上。一つ質問が……」
「うむ。言ってみよ」
「いつからそこに?」
「いつから……か。ふむ。この部屋に来たのはほんの少し前だ。生易しいもんじゃないの辺りだな……尤も、お前の声は大分前から聞いていたぞ。何せ扉が開けっ放しになっていたからな。具体的に言うなら、“あれは鬼です”の件からだ」
(……それは始めから聞いていたと言いませんか? 姉上)
下手なことを言っては事態を悪化させることにもなりかねないと、まずは質問してみたのだが、どうやら事は既に最悪と呼べる域にまで達しているようであった。
トッドの背を冷や汗が伝う。
「で? 私がどうしたのか。そろそろ続きを聞かせて貰おうではないか」
いよいよ進退窮まり、トッドは唸り声を上げた。
「おやおや、どうしたんだトッド? もしや、私には聞かせられないような内容だったのか? これは明日も特別稽古を……」
「ごめんなさい! もうしません!! もう言いませんッ!!」
トッドはそう言い終えるや、脱兎の如く部屋を飛び出した。入室時とはえらい違いである。
「まったく、困った奴だ」
ため息一つ。呆れた様子で呟くウルシアに、ウォレスは苦笑いで応えた。
これも散々繰り返してきたやり取りである。数日もすれば復調したトッドにからかわれる彼女の姿が見られるに違いない。スキンシップの取り方も人それぞれということだろう。
「ウルシアも何か話があって来たのかい?」
「いや、私はたまたま通り掛かっただけだ。阿呆の声が聞こえたんで立ち寄ってみただけさ」
(そりゃ、トッドも災難だったな)
ウォレスは心中でそう呟いた。
「…………ところでウォレス……お前、昼間はどこで何をしていたんだ? 練兵場にはいなかったようだが……」
ウルシアは僅かばかり逡巡した末、口を開いた。その口調はどこか辿々しい。
「今回の戦に当たって、兵士に志願してきた人たちがいてな。話を聞いてたんだよ。戦力が多いに越したことはないが、だからといって訓練も受けていない人たちを連れて行くわけにもいかないだろう?」
「そう……か……その口ぶりからすると年配者だったのか?」
ウルシアはどこか安堵した様子で問い返した。
「ああ。長年苦労してきた人たちだからな。俺たちよりもずっと、サーディアスを思う気持ちは強いんだろう」
「そうかもしれんな。だが、今回は我らだけで十分だ。どうしてもと言うのであれば、いざという時のために街の防備を固めて貰うとしようか。何も前線に出ることだけが戦うということではない」
「そう言うと思ってな。その案で説得してきたよ」
「そうか。流石はウォレスだな」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
ウォレスは恭しく礼を取った。
「大げさな奴め。だが、これで益々負けるわけには行かなくなったようだのう」
「ああ。大見得を切ってきたからな」
「悪たれウォレスも、今や一軍を率いる大将というわけだ」
「それはウルシアだって同じだろう」
「ふっ……違いない」
二人は同時に吹き出した。室内に笑い声がこだまする。
イトアニアの脅威が迫る中にあって尚、二人の間から笑みが消えることはなかった。それは先頭に立つ者としての気構えであったろうか。
夜の闇がすべてを覆い隠す中、イトアニアの脅威はもう目前まで迫っていた――。