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第7話 - 「休息 - 少女とウルシア」

 連日の訓練は、早朝に始まり夕日が沈むまで行われた。


 兵士たちにとって、夜は自由と休息の時間であったが、サーディアス首脳陣についてはそうも行かなかった。


 ラースの執務机は、山と積まれた裁可待ちの報告書類に占拠され、彼は一向に減る気配を見せぬ紙束を、趣味の読書の代わりとせねばならなかった。ハーンとドッツは補給や経理に関する処理のため粉骨砕身しており、ウォレスとウルシアはイェルンからもたらされる情報の分析や兵士の訓練、軍備の確認に作戦詳細の検討など、処理すべき案件を多数抱え込んでいたのである。怠け癖の強いトッドですら、皆から頼まれる雑用に朝から晩まで駆けずり回る羽目に陥っていたのだから、その多忙さたるや猫の手も借りたいほどであった。


 睡眠時間を削っての労働に、最初に音を上げたのは最年少者のトッドであった。


 彼はウォレスとウルシアの作戦会議に割り込むと、あれやこれやと理屈をこね回し、ついに二人を街へ引っ張り出すことに成功した。


 当初、ウルシアは老齢の二人に成り代わり、不甲斐ない年少者に小言と説教を浴びせていたのだが、小言と言い訳の応酬を見かねたウォレスの仲立ちによって、今は矛を収めている。


 彼女にしても休養の重要性は理解していたから、街に出てからは仕事を忘れて羽を伸ばすことに決めたようであった。


 こうしてトッドの強引な誘いに袖を引かれ、彼らは多忙を極める日々に、一時の休息を得ることになったのである。


 街の散策は疲れ切った心身の土壌に、良き活性剤となるはずであった。



 昼過ぎ、三人で街を散策していると、一人の少女が声を掛けてきた。


 ウォレスは面倒見が良いこともあって、年長者には信頼され、年少者には慕われる傾向にある。道すがら街の住人に呼び止められることも少なくない。


 ウォレスは足を止めて瑞々しい声の主を探し出すと、駆け寄ってくる少女の名をウルシアに告げた。

「トゥレだよ」

「……おお、トゥレか。大きくなったな」

 ウルシアは感慨深く頷いた。サーディアスを出た当時、少女はまだ五歳になっていなかったはずだ。少女の記憶的には、まだ曖昧な時期であったろう。


「……忘れられているかもしれぬな」

 呟くうちにも、少女の姿が大きくなる。


 逞しい青年の前で立ち止まり、トゥレは元気な声を上げた。

「ウォレスお兄ちゃん! ……と、トッドちゃん!」

「ついで扱いは酷くない?」

 情けない声音で呟くトッドに、「いいの。いいの」と少女が笑う。と、ここでようやくウルシアの存在に気づいたか、少女が首を傾げた。


 トゥレは記憶の中から街の人物目録を引き出し検索をかけてみたが、ついにウルシアの名前を見つけ出すことはできなかった。


 単に見知らぬ女性が街を歩いているというだけであれば、少女も特に気に掛けなかったことだろう。しかし、ウォレスと親しげに歩いているとなれば、話は別であった。


 幼い頃というのは、誰しも心優しい年長者に憧憬の念を抱くもので、この少女にとってはウォレスこそが正にその存在であったのだ。


 年端も行かぬ少女はウルシアにちらりと視線を向けると、思い切って質問をぶつけてみた。


「ウォレスお兄ちゃん。その人、お兄ちゃんのお嫁さん?」

「お……おお、およ……嫁!? そそ、そんなわけなかろう!?」

 恋人という前段階をすっ飛ばした少女の質問に、ウルシアは見ていて気の毒になるほどの狼狽ぶりを示した。


 一方ウォレスにしても、この質問は予想外のものであった。


 これまでにも、女性と話している際に、トゥレが話しかけてきたことはあったが、今回のような質問は初めてのことだった。


 ウルシアの強い否定の言葉は、青年の胸にわずかな靄を生んだが、実際、少女の言うような関係でない以上は当然のことであろう。

 何はともあれ、今は無邪気な暴風を鎮める必要がありそうだった。


 ウォレスは努めて笑顔を作ると、少女と目線を合わせ、ゆっくりとした口調で言い含めていく。


 そんな青年の姿に、トッドは彼に対する評価を多少なりと改めた。曰く。ウォレス兄もそのくらいのことは出来たんだねぇ。と。


 色恋沙汰に疎すぎるという事実は、ウォレスにとって唯一の欠点と言ってよいだろう。

 それは本人にとっても、また周囲の人間にとっても不幸なことであったが、トッドにとって何よりも面倒だったのは、最も身近に同様の欠点を持つ人物がもう一人存在したことであった。


 避け得ない面倒ならば、いっそ楽しんだ方が特というものだ。トッドの悪戯心は、前向き思考を温床に人一倍の成長を見せるのだった。


 実姉に『場の空気を読めぬやつ』などと酷評されはしたものの、それも悪戯心を優先したためで、元々この手の機微には聡いのだ。トッドは一行に気取られぬよう速やかに距離を取ると、期待に口元を歪ませた。


 ウルシアは、未だ動揺から立ち直れずにいるらしく、頬を紅潮させ何やら呟いている。


 日頃の威厳はどこへやら、思考と感情の濁流に呑みこまれた彼女の姿は、端から見ている分には良い見世物であった。


 一方、暴風の中心たる少女は、ウォレスの説明に納得したのか、無邪気な笑みで逞しい腕にしがみついた。


「……じゃあ、大きくなったら、私がお兄ちゃんのお嫁さんになったげるね」

 積極的な言葉が、ウルシアの耳朶を強打した。


「それは嬉しいな。トゥレのことだから、大きくなったらきっと綺麗になるぞ」

「うん。私、そのお姉ちゃんよりももっと美人さんになるからね」

 朱の混じった幼い笑顔に、ウルシアが絶句する。


「お姉ちゃんよりも美人になるのか。凄いなトゥレは」

 お褒めにあずかり、少女は誇らしげに胸を反らした。


 すっかりその気になった少女の挑戦的な瞳が、ウルシアを捉える。

「むうぅぅぅ」

 ウルシアは自身の唸り声が、鼓膜を振るわせるのを聞いた。


 かつてサーディアス一と謳われただけに、ウルシアは自身の容姿が優れていることを自覚していたが、一方で恋愛事が容姿の優劣のみをもって決まるものでない事も理解していた。


 美的感覚は人によって異なるものだ。体型だけで見ても、やせ形の女性を好む男性もいれば、ふくよかな女性を好む者、身長にこだわる者と様々であり、さらには性格や話し方、身分、培ってきた信頼関係なども大きく影響してこよう。


 いかに容姿に恵まれていようと、心を寄せてもらえるとは限らない。むしろ男性から見た場合、素直でない自分の性格は可愛げなく映るのではなかろうか。


 そんな苦い自覚に、恋愛に関する経験の少なさも加わってか、この手の事柄は殊更にウルシアを弱気にさせた。


 本来であれば、ウォレスが幼女趣味でも持っていない限り、少女の背伸びなど気にするまでもないのだ。恋愛には年齢差もまた大きな要素であり、同年代の娘ならともかくトゥレがライバル候補に名を連ねるとも思えない。


 しかし、未来においてはどうであろう。ウルシアとて人の身である以上、老いから逃れることはできない。どれほど美しい草花であっても、いずれは枯れ散って行くものである。


 一般的に世の男性は若い女性を好む傾向にあるというから、将来、少女が美しく成長した暁には、或いは子供の戯れ言ではすまなくなるかもしれない。


 傍観者を決め込むトッドには、ウルシアの思考の軌跡を知る術は存在しなかったが、少なくとも大人げない対抗意識を燃やしていることだけは理解できた。

(子供の言うことなんだから、さらっと受け流しましょうよ)


 この時、ウルシアにしても実弟に呆れられていようなどとは、知る由もないことであったが、ここにきてようやく、自分らしからぬ思考の飛躍に気がついた。


 今から心配しても仕方のないことであり、それどころか、そもそもウォレスとの関係は親友であって、それ以上でもなければ、それ以外でもないのだ。


 現状の再認識は、ウルシアの胸に切ない影を落とした。

 少女と話す青年の姿がどことなく遠く感じられ、それが一層不安を掻き立てる。


(ウトスにいた頃と違い、今はずっと近くにいるというのにな)

 互いの距離と不安の大きさは、ときに反比例するものらしい。


 そんな感傷の時間も少女の無邪気な声によって、間もなく終わりを告げた。


「それじゃ、またね。お兄ちゃん! お姉ちゃん! あと、トッドちゃんも」

 響き渡る声も消えやらぬうちに、少女は元来た方角へ走り出した。


「ああ。またな。トゥレ」

「やっぱり、ついで扱いなのね……俺」

「…………」

 何度も振り返る少女に、三人は手を振って応えた。


 ウルシアはしばし無言で見送っていたが、少女の姿が視界から消えると同時に、これまでとは異なる感情が急速に膨れ上がるのを感じた。


「あの子の笑顔を守るためにも、今回の戦に勝たないとな」

「ああ、そうだな」

 ウルシアは振り向くウォレスに不機嫌な声で応じると、踵を返した。


「あっ、おい。ウルシア!?」


(うるさい馬鹿者! お前が誰にでも優しくするのが悪いのだ! まったく昔からお前というやつは……そんな事だから私は……)

 ウルシアとしても、理性の面ではこれが完全な八つ当たりであることは分かっていたのだが、この感情だけはどうしようもなかった。


 トッドは困惑する男の肩に手を置くと、「まだまだですね。ウォレス兄」と呟いた。


「……はっ?」


 トッドは姉の後を追って歩き出すと、やれやれとばかりに首を振った。


「……訳が分からん」

 一人取り残された青年は、首を傾げて呟いた。


 結局、ウルシアが元の自分を取り戻したのは、夕日も沈もうかという時刻になってからであった。


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