第6話 - 「布告」
その夜、領主館の前庭は酔いどれた領民で埋め尽くされていた。
ウルシアの無事の帰郷に街の人々が宴を開いたのである。
主賓のウルシアはひっきりなしの質問責めにあい、杯は空ける度に果実酒で満たされることとなった。
ワルアは領民に姿を晒すことなく、何処かへと去っている。
ウォレスは新米兵たちとの約束通り、酒を振る舞うために街の酒場へと戦場を移しており、トッドは一夜の共を得てその姿を消していた。
ラースはこの宴には参加しておらず、ドッツは今頃ハーンの部屋で酒瓶片手にくだを巻いていることだろう。二人は元領主と行商人という間柄ながら、共に戦場を駆けた戦友のような関係にあるのだ。
「流石に少し飲み過ぎたな」
呟いて、館のある丘をゆっくりと下る。
サーディアス一の才女は、酒を勧めてくる者全てを酔い潰すことで、ようやく解放されたのだった。
風は冷たいが、火照った身体には心地よい。
ウルシアは長い黒髪を風に靡かせながら、ドッツ邸へと帰宅した。
二階建ての木造家屋に変わりはなく、ウルシアの部屋も彼女が飛び出した頃のままであった。室内の配置はそのままだが、掃除の行き届いているところを見るに、孫娘がいつ帰ってきても良いよう手入れをしていたのだろう。ドッツ老の想いに胸の奥が温かくなる。
「お説教は神妙に受けねばなるまいな」
口元に笑みが浮かぶ。
窓へと歩み寄りカーテンを開ける。
青白い月明かりに照らされた町並み。見慣れた景色が広がっていた。
どれほどそうしていたか。
いつしか佇むウルシアの口元から笑みは消え、不安の色が取って代わる。
「感傷に浸るなどらしくないな」
「……私とてそんな気分の時くらいある」
気配に気づいていたのか、突然の声にも驚いた様子は見られない。
ウルシアは月を見やると、背後に立つ人物に応えた。
「ついに時が来た。お主らとの約束を果たすためにも、まずはこの一戦勝たねばならん」
「お前たちならば問題なかろう。ウォレスといったか……あの男、恐らくお前が思っている以上に強いぞ」
ワルアの言葉にウルシアが振り返る。
「そうかもしれん。が、やはり不安は残るのだ。軍師にと名乗りを上げ、勝つための策だと自信満々に言うたものだが、賭けの要素がないとは言えぬ。ことは戦だ。この先、私の指揮で大勢の人間が死ぬことになろう。敵味方の別なくな。何より敵と言ってもその殆どは領民だ。多くは圧政に苦しむ者たちだろう。妻子を持つ者もおれば、恋人のいる者もおろう。年老いた両親が帰りを待っているやもしれん。如何なるお題目を掲げようとも、私の行いは許されることではないのだ。まあ、今回の戦に敗れればそれまでのことなのだがな」
俯くウルシアをワルアの鋭い眼光が射貫く。
「迷いがあるならば、戦場には立たぬことだ。戦場はそれほど甘くない。一兵卒に過ぎぬ者ならば己自身が死ぬだけだが、軍師となったお前が迷えば、全軍揃って壊滅の憂き目を見ることになりかねん。上に立つ者が戦場で迷うことは許されんぞ」
若くしてイェルン一族の長となったワルアは、ウルシア以上に人の上に立つことの厳しさを知っていた。
「……もし、このままサーディアスを出るのであれば、人知れず連れ出してやるぞ」
ウルシアは思いがけない言葉に面を上げた。身を乗り出し声を荒げる。
「何を馬鹿なことを! 爺様やトッドを、ウォレスや仲間たちを! 見捨てて逃げることなど出来るわけがあるまい! 私が何のためにここへ戻ってきたと思っている!?」
激昂するウルシアに対し、ワルアはあくまでも冷静だ。表情を変えるでもなく続ける。
「昼間、あの男は山賊と戦っていたらしい。数は百を下らなかったそうだ。お前の弟と新兵、総勢十人に満たぬ数で蹴散らしてきたらしい。先陣切ってその大半を一人で斬り伏せたそうだ。槍筋から察するに山賊の頭は騎士だったらしい。尤も、“元騎士”だろうがな」
ワルアは、サーディアス領内のイェルンからもたらされた報告を伝えると、一拍おいて言葉を継いだ。
「あの男が単騎駆けとも言える特攻を仕掛けた理由。お前ならば分かるだろう。それはお前が軍師になったのと同じ理由ではないのか?」
その問いかけにウルシアはため息を吐いた。今が太平の世であればどれほど良かったか。そう思わずにはいられない。
しかし、現実は違う。幼き日に父を失ったウルシアはその事実を身に染みて分かっていた。目の前の男に甘い言葉を期待したわけではなかったが、思った以上に厳しい答えを返されてしまった。
「もう、お主に泣き言は言わん」
「そうか。お前の想い……叶うと良いな」
苦笑するウルシアに、男は淡々とした口調で返した。その瞳にはうっすらと優しい光りが宿っているように思われた。
眠りの縁を彷徨う人々に朝の訪れを告げるのは、古今東西を問わず鳥たちではなかろうか。
その雅やかな歌声を目覚ましに、ウルシアは帰郷して二度目の朝を迎えていた。
在るべき場所に帰ってきた、その安心感からか、身体が羽のように軽く感じられる。旅の疲労はもうすっかり抜けたようだった。
階下では朝食の準備が進んでいるらしく、食欲を刺激する匂いが漂ってくる。
ウルシアは家族と共に穏やかな朝を満喫すると、身支度を調えて、再び領主館へ赴いた。
「おはよう、ウルシア。朝はゆっくりできたかい?」
「おはよう、ウォレス。如何に忙しくとも、朝夕の食事は皆でゆっくりと取る。が、爺様の信条なのでな。待たせてしまったか?」
出迎えたウォレスも身支度はすっかり終えているようで、漆黒の鎧に身を包んだその姿は、一軍の将に相応しいものであった。
「悪いが、もう少し待って貰うことになりそうなんだ」
ウォレスはそう言って、頷くウルシアと共に応接室へ向かったが、程なくして二人は謁見室へと通された。
現サーディアス領主であるラース・シュレッテンは、涼やかな表情で二人を待っていた。
病弱で身体の線こそ細いが、ラースの領主としての品格は大陸でも屈指のものであろう。
二人は領主の御前に、恭しく跪いた。
ラースは抜き放った剣を叙勲者の肩に置くと、低く厳かな声を室内に響かせ、続いて各々に槍と指揮杖を手渡した。
独特の紋様を浮かび上がらせたウーツ鋼の品だ。ラース自身、今回の戦を事前に予測していたのだろう。どちらも件の鉱石が産出してすぐに、彼が命じて急ぎ造らせた物であった。
これにより、ウォレスはサーディアス軍の将軍に、ウルシアは同軍師として、正式に任じられることとなった。
こうしてイトアニアとの開戦を決定したサーディアス首脳陣であったが、差し当たりやらねばならぬ事があった。
『イトアニアとの開戦』
民衆に対する、その布告である。
同日昼過ぎ。前日の告知により、領主館の前には多くの領民たちが集まっていた。
広場はいつになくざわめき、そこかしこから恐怖と不安の声が聞こえてくる。
イトアニアからの難民を受け入れてからというもの、彼らの間では近々戦になるのではないかとの噂が飛び交っていたから、それも当然のことであったろう。
やがて、領主館の二階バルコニーにラースが姿を見せると、潮が引くように辺りは静まり返った。
「急な呼び出しをして済まない。今日は皆に大事な話があって集まってもらった」
ラースは精一杯声を張り上げ、眼下の領民たちに向けて話し始めた。
「皆も知っての通り、現在、サーディアスは苦境に立たされている。先日、我々はイトアニアからの客人を迎え入れた。時折訪れる商人から話を聞いたこともあるだろうが、今、かの領地は過去のサーディアスと同様、生きることすらままならぬ惨状を呈している。我らに庇護を求めた彼らの気持ちは、皆にも分かってもらえると思う。故に、我らは庇護を求めてきた客人たちを受け入れることにした」
朗々たる声に、領民たちは一様に聞き入っている。
ラースは大きく息を吸い込んだ。
「それに対しイトアニアは、何の罪もない彼らを犯罪者扱いし、送還するよう求めてきた。要求を断れば、これを口実としてイトアニアは戦を仕掛けてくるだろう。なぜなら、イトアニアは最近発見されたウーツ鋼の採掘権を欲しているからだ。欲の皮の厚い連中は、是が非でもウーツ鋼を手に入れるつもりでいる。客人たちは戦を仕掛けるための口実として利用されたのだ。彼らには何の非もありはしない。連中の要求通りに客人たちを引き渡したところで、別の口実を作って攻め寄せてくるだろう」
集まった領民たちに声はない。代わりに、皆一様に翳りある表情を浮かべていた。
ラースは広場の一角に集うイトアニアからの客人たちに笑みを向けると、広場を見渡し、先を続けた。
「戦を避ける方法は一つ。イトアニアの属領となり、その支配を受け入れることだ。まず確実に、イトアニアの支配体制がここサーディアスにも持ち込まれることになるだろう。過酷な労働と重い税を課されることになる。皆の生活は十五年前と同様、或いはもっと苦しいものになるかもしれない」
ラースは拳を握り締めた。
「――だが、私はそれを許容することは出来ない。故に、開戦することを決めた。此度の戦端を開くに当たって我が弟ウォレスを将軍に、そして才気溢れる女性を軍師に任命した」
ラースの左右にウォレスとウルシアが進み出る。
領民たちの間から「まあ、ウルシアちゃんじゃない」「ウォレスか。あいつなら……」といった囁きが洩れる。
ラースに促され、ウルシアは更に一歩前に出た。
度々、山賊退治などの治安維持によって武勲を立てているウォレスと違い、ウルシアにはサーディアスにおける実績がない。軍師として采配を振るうには、まず皆に認めさせる必要があった。
広場が静まるのを待って、ウルシアは凛とした声を響かせた。
「此度の戦いに当たり、軍師の任を仰せつかったウルシアだ。たった今、ラース殿がいわれた通り、イトアニアが攻め寄せてくる事は確実となった。我々は選ばねばならない。戦わずして降服し、苦痛を享受して家畜のように生きるか。或いは人としての尊厳を守るために一致団結してイトアニア軍に立ち向かうか」
突きつけられた現実が領民たちの肩に重くのし掛かる。
平穏な日々が脳裏をよぎった。
「従属すれば、まずは生きながらえる事ができよう。しかし、長くは保つまい。イトアニアの領主は領民を家畜同然、あるいは使い捨ての道具ほどにしか思うておらぬ。いずれは飢えに苦しみ死んでいく者が出るだろう」
ウルシアの発した“死”という言葉に、一瞬、広場がざわついた。
「敵は強大だ。その選択も致し方ないのやもしれぬ。だが、私は皆が苦しみ死んでいく姿を見るのは耐えられん。同じ死ぬならば、尊厳を守るため、子や孫たちの生活を守るために、私と共に戦ってはくれまいか」
ウルシアの演説。それは説得であり、懇願であった。
如何に策を用いたところで、ウルシア一人で敵を撃退することはできないのだ。
必死に訴えるウルシアの声に、ざわめきはすぐに収まった。
「ことは戦だ。戦場に赴く者たちには命を掛けてもらわねばならん。恋人を、夫を、息子を失うことになるやもしれぬ。私自身、かつて戦で父を亡くしている。大切な人を戦場へ送り出したくない気持ちは分かる。残された者は失うことへの恐怖と不安に怯える日々を送ることになろう」
ウルシアは唇を噛み締めた。
蹂躙され搾取に苦しんだ日々を思いだしたのだろう。領民たちの激しい不安と動揺が伝わってくる。
だが、今は前に進まなければならない。伏せた目を開き、先を続ける。
「今、世は戦乱の時代にある。力ある者は己の欲望を満たすために侵略と略奪を繰り返し、弱き者を顧みぬ。傲慢で意地汚い貴族連中ばかりが肥え太り、領民は痩せ衰えるばかりだ。私は父を失ってからというもの、各地を回りその惨状を目の当たりにしてきた。最終的に辿り着いたのがここサーディアスだった。ここはいわば奇跡の地だ。領民に笑顔が溢れるこの様な土地を、私は他に知らない。私は皆が安心して暮らせるこの場所を守りたい。皆はどうだ? 守りたいものはないか?」
ウルシアはここで一度言葉を切った。
各々が守りたいものを思い描く。それを守るためには戦わなくてはならない。皆の表情に変化の兆しが現れる。恐怖と不安に決意の色が混ざり始めていた。
「私は此度、軍師に就任するに当たって、皆が無事に帰れるよう策を立てた。この策が為れば、当面サーディアスが戦禍に晒されることはなくなる。だが、それだけでは足りん。世界を覆う暴虐の風を振り払わぬ限り、安心して暮らせる日々を迎えることはできぬ。長い戦になるだろう。しかし、降り止まぬ雨はなく、明けぬ夜がないように、我々は必ずその日を迎える時が来る!」
ウルシアは人々と視線を交わした。見知った顔も多い。恐怖と不安を完全に払拭することは出来ないに違いない。が、彼らは皆、信頼の眼差しを向けてくれていた。
他の領民たちにも戦う意思が見て取れる。
「此度の戦、必ず勝つと約束しよう! 己が大切なものを守り抜き、より良き未来を手にするために! 皆、私と共に戦ってくれッ!」
ウルシアは腰に佩いた剣を抜き放つと、天高く突き上げた。
刀身が陽光を反射する。集まった者たちには、それが導きの光りであるように思われた。
理不尽な暴力に抵抗する意思は膨れ上がり、立ち昇る戦意が広場を満たした。
そこかしこで決意の声が上がる。
「流石ですね」
響き渡る歓声に包まれ、ラースは思わずそう呟いた。
他の者ではこうも気勢は上がるまい。
思わず妬心が疼いた。同時に、それが無益なものであることも分かっていた。
人にはそれぞれ与えられた役割があるはずだ。
「必ず勝ちましょう!」
珍しく強い口調で呟くラースの目には、頼もしい女軍師の姿が映っていた。
こうしてイトアニアとの開戦が決まると、サーディアスの領民たちは戦支度に追われ、領内は一気に慌ただしくなった。
ウォレス率いる軍は、この時まで軍隊というより自警団としての意味合いが強かった。サーディアスでは十五を超えた男子に対し、乗馬、弓、槍の訓練を行い、交代制で領内を巡回させている。ウルシアが旅立つ以前から、ウォレスの提案によって行われるようになった制度である。
サーディアスではハーンが領主となって以降、自主独立を領民に説いていたようだ。その甲斐あってか、身を守る術を学ぶことを領民も素直に受け入れたらしい。また、馬は農耕に弓は狩りにも役立つため、彼らは進んでこれらの習い事を受けるようになった。
当時、兵とは徴兵された領民のことであった。傭兵という職業も存在していたが、戦うことに特化した彼らを雇うには相応の金銭が必要となったのは言うまでもない。このため、どの領でも主力となるのは領民兵であった。
無論、サーディアスには傭兵を雇う金などない。いざという時のために、武器や防具を揃えた程度で、他はすべて内政の充実に当てられていた。
軍事面を強化するには、領民の兵士としての質を向上させる以外に手がなかったのだろう。
兵数は以前ウルシアが予想した通りで、約千五百である。
十人一組の班に分け、その内の一人を十人長とし、十班を束ねる者として百人長を置いた。さらに乗馬の得意な者、足の速い者を選び伝令とした。
これらを指揮するのがウォレスでありウルシアである。
また、トッドは二人の補佐役として傍らに控えている。
兵たちにはかねてから用意されていた装備が渡され、武器は一部の者を除いて槍と弓である。その最大の特徴は、ほぼ全員が騎兵として行動できる点であった。