第1話 - 「故郷の危機」
「やはり、ここに居たか」
低い呟きが、静謐な空間に溶け消える。
ウェスタニア大陸エレミア領中心都市ウトス。その西地区にある大陸最大の図書館。
男はその閲覧室の角へと音もなく歩を進めていく。
二十代半ばほどであろう、浅黒い肌をした長身の男だ。
鍛え抜かれた細身の身体と、その身に纏う独特の雰囲気は、見る者に孤狼を連想させる。
尤も、それは見ることができればの話である。
完全に気配を絶った者を認識するというのは容易なことではない。
事実、入り口からここまで幾人かとすれ違っていたが、誰一人としてこの男の存在を意識に上らせる者はいなかった。
知識の宝庫たるこの静寂な空間に、これほど似つかわしくない男は他にないだろう。
そんな男の向かう先では、艶やかな黒髪の女が一人、手元の本に目を落としていた。
昼時であるためか、広いスペースであるにも関わらず、他に人影は見られない。
すぐ近くまで歩み寄るも、女に反応は見られなかった。
(相変わらずだな)
男は心中でそう呟いた。
気配を絶っているとはいえ、普段の彼女であれば男の存在に気づいたはずだ。
男は女の向かい側の席へと近づき、声を掛けた。
「何を読んでいるんだ? ウルシア」
ウルシアと呼ばれた女の視線が、男へと向けられる。
「おお、ワルアか。久しぶりだの」
女は二十二歳という年齢にそぐわぬ年寄り臭い話し方で応じた。
時が経つのも忘れ熱中していたのだろう。傍らには既に読み終えたであろう本が山と積まれている。
集中が途切れたのか、女は欠伸をかみ殺すと、側に置かれた証明の眩しさに目を細めた。
寝食を忘れて研究や読書に勤しむなど、この大陸最大の図書館に足を運ぶような人種にとっては、ことさら珍しいことでもない。
ウトスの西地区とは、研究に人生を捧げているような者ばかりが集まった場所なのだ。
そのためか、この図書館には生活雑貨から食料品、医薬品、服飾品までを扱う売店や公共浴場までが入った生活区画と呼ばれる場所がある。
机で寝ることを苦にしないのならば、宿を取らずとも図書館で生活していける事だろう。
ワルアは苦笑しつつ席に着いた。
「どうもあまり良い話ではなさそうだの。尤も、そなたから良い話を聞いたことはほとんどないが……」
「とはいえ、これが仕事だ」
周囲に気を配っていたワルアは、改めてウルシアと向き合った。辺りを見回していた時と比べて幾分表情が和らぐ。よほどこの男の事を知る人物でなければ、気付けぬ程度の変化ではあったが……。
「うむ。確かにの。で、何があった?」
ウルシアは、その微細な変化を読み取ると同時に、この男が周囲に対する警戒を緩めていないことも認識した。恐らくは、睡眠時ですら気配に対して敏感に反応するのであろうなどと考えつつ、ワルアの返答を待つ。
「……確か、サーディアス領のことを気にかけていただろう」
ウルシアの問いに対し、男は一拍の間をおいて応えた。
「何かあったのか?」
故郷ともいえる地名にウルシアが反応を示した。凶事の匂いを感じ取り、表情が険しいものに変わる。
「恐らく、近々、イトアニア領と戦になる」
「なッ!? 馬鹿な! サーディアスのような何もない辺境の地を、イトアニアが攻める理由がなかろう!?」
ウルシアは、図書館という音の響く場所であることを気にしつつ、低くも強い声音で反論した。
二人の近くに人影は見られない。最も近い者でも十メートルは離れており、ウルシアが声を抑えた事もあって、どうやらこちらを気にする者はいないようだ。
辺りの確認を終え、ワルアは続く情報を提示するため、わずかに身を乗り出した。
「確かに今まではなかった。が、一月半ほど前にサーディアス領内の鉱山でウーツ鋼が発見された。それで状況が変わった」
ウーツ鋼とは、鉄よりも軽く硬度の高い鉱石のことで、錆び難いという特性を併せ持つ。これまでウェスタニア大陸において産出した例はなく、専ら東の大陸からの輸入に頼っていた。主に武器や防具に使用され、ウーツ鋼によって作られたこれらの品は、鉄製のものと比べて五倍から七倍という高値で取引される。性能が良いだけでなく、輸入に頼っているという状況がこれらの品々を高価な物にしていた。
「……ウーツ鋼か」
ウルシアも当然この金属のことは知っている。その価値を考えれば、十分に戦の火種となり得るものであることも分かる。自軍の装備が充実するだけでなく、他領へ売ることによって莫大な利益をもたらすものだからだ。
「それは確かに、イトアニアとしても手に入れたかろうが、それを理由に攻め入っては大義が立つまい。その無法を口実として、周辺領より狙われることになりかねんぞ。第一、産出量の程もまだ分かっていないのではないか? 場合によっては、すぐに枯渇してしまう可能性だってあろうに。いくらイトアニアが馬鹿揃いでも、そこまで考えなしとは思えぬ」
ワルアの言に反論してはみたものの、この男のもたらす情報の正確さを知る身としては、それが事実であろう事は疑いようがなかった。
(どうやら、イトアニアの馬鹿共は、自分たちにとって都合の良い部分だけを見ることにしたらしいの……)
サーディアス領は、自他共に認める貧しい土地だ。地理的条件からしても財源を手に入れたところで、できることには自ずと限界があろう。
一方、ウーツ鋼という大きな財源をイトアニアが手に入れたとなれば、大義云々は別として周辺領も黙ってはいられまい。サーディアスとは違い、豊穣のイトアニアと呼ばれるほど肥沃で広大な土地を有しているのだ。そこへ更に巨額の財源を手に入れたとなれば、その資金を元に戦を仕掛けられる可能性が出てくる。
何よりも領主が野心家で知られていた。
「馬鹿揃いか」
相変わらずの毒舌家ぶりに、ワルアは内心で苦笑した。
「当たり前だ。圧政で領民を苦しめるような輩に、まともな頭をした奴などいてたまるかっ」
嫌悪感を多分に含んだその言葉は、先ほどの『考えなしとは思えない』という台詞と矛盾したものだった。
しかし、確かにそういった輩とは己の保身には存外頭を使うものである。
「その馬鹿が一部都合の悪い可能性を無視しつつも、多少なりとも頭を使ったらしくてな。サーディアス方面で、警備が薄くなっているらしい」
ウルシアは、その言葉の意味するところを則座に理解した。
唇を噛んでワルアの視線から目をそらす。
イトアニアでは、現在の領主に替わって以降、領民はその圧政に苦しめられてきた。
肥沃な土地柄、本来であれば飢えを知らずに住むはずの領民たちは、重い税を課され、今ではその日の食事にすら事欠くことがあるという。
さらには、周辺領への警戒を強くする領主の意向により、領を取り囲むように砦や防御壁を作らされているとも聞く。現場が強制労働区の様相を呈していようことは想像に難くない。
残された家族にしても、女子供と老人だけで生活を営むには限界がある。なにせ税率は上がる一方なのだ。生命をも脅かす事態に、安寧の地を求めて旅立つ者が現れるのは、当然の帰結であろう。
一方、領主側もただ傍観している訳ではなかった。領境の警備を強め、逃げ出す領民を次々と捕らえていったのである。追及は苛烈を極めた。捕らえた領民を拷問に掛けては処刑し、さらには、その遺体を晒し密告を奨励した。
領主に対する絶対服従――。
恐怖という名の鎖が領民たちを縛りつけた。
当初は抵抗の意を示し地下に潜る者もいたが、領主側の徹底した追及と密告者の目から逃れ続けることはできず、抵抗組織は程なく壊滅した。
一旦、抵抗の芽が潰されてしまうと、再生には長い年月を必要とする。
領民は皆、苦境から逃れる術を求めたが、決定的な解決策を見出せぬままに月日は過ぎ去っていった。
彼らにしてみれば警備の薄いサーディアスへの脱出路は、長きに渡る苦難の末に、ようやく見出した希望の光であったに違いない。
これまでの失敗例もあって、領民たちも初めのうちこそ強い警戒を示すだろうが、いずれ確実に脱走者は出る。
恐らく、イトアニアはサーディアスに対し、領内で重大な犯罪行為に及んだ者が逃げ込んだとして、脱走者の返還を求めるだろう。
十四年前までサーディアスを支配していた領主であれば、あっさりとこの求めに応じて、庇護を求めてきた領民を苦もなくイトアニアへ送還したに違いない。
しかし、現在サーディアスを治めているのは仁政をもって鳴るシュレッテン家である。送還すれば脱走者たちの命が危ういとなれば、ウルシアにとって知己の人でもあるシュレッテン家の領主が要求に応じないことは明白であり、イトアニア側もそれが分かっていて要求するのである。そして、犯罪者を匿ったとしてサーディアス領へと攻め入る口実にするわけだ。
サーディアス領を治めているシュレッテン家の人々は、イトアニアの思惑を看破するはずだ。が、それと同時に仁政を敷く彼らだからこそ、戦は避け得ないものとなるだろう。
「近々と言ったな。どの程度猶予がある?」
ウルシアはワルアを睨み付けるように問い質した。
「形式だけとはいえ、まずは使者を出してのやりとりをせねばならんからな。恐らくまだ一月はかかるだろう」
「南方方面の状況はどうだ? 何か変わりはないか?」
「報告に寄れば、そちらは相変わらずのようだ」
質問に対し、ワルアは淡々と答えを返した。
(イトアニアの人口と国力からすれば、戦力は最大で三万といったところであろう。周辺領への警戒、首都や国境の警備にも兵を割かねばならぬことを考慮するに、サーディアス領へあてる戦力は最大で一万から一万五千といったところか。対して、サーディアス側は精々千から千五百の兵を出すのがやっとであろう……)
ウルシアはこれまでに得た知識と情報を基に、双方の戦力を分析する。
これらの内、知識については、様々な書物と諸国を巡った経験から得たものだ。
そして、多種多様な情報、とくに諸国の現状に関する情報はワルアがもたらしたものであった。
「……やはり厳しかろうな」
戦力分析を終え、ウルシアはそう呟いた。
サーディアスは険しい山々に囲まれた土地である。
このため、防御に易く攻め難いという特徴を持つが、土壌が悪く農作物の育ちにくい場所であるために、人口の少ない土地でもあった。
土地開発を行うにも人手が足らず、一度に人手を増やそうとすれば食料が不足してしまう。
治水工事に土壌開発、舗装路の整備に、長年放置されてきた砦や関所の修復など、解決すべき問題は山積している。
なにより、人口が少ないということは、失った兵の補充が利かないということでもある。
(シュレッテン家と爺様たちなら、一度や二度なら撃退できるやもしれぬが……)
イトアニアがどれほどの執着を見せるかにもよるが、今後、再三にわたって攻められるような事になれば、守りきれなくなるは必定であろう。
彼女の知る限り、サーディアスの中核となっている人々の能力は、かなり高いレベルにある。とはいえ、戦とは個人でやるものではない。
一人で千、万の兵を倒すことのできる人間などいようはずもない。
歴史上、寡兵をもって大軍を打ち破った例は確かにある。
しかし、それは全体の中のほんのひと握りに過ぎない。やはり数は力なのである。
ウルシアは左手側に積み上げられた書物の背表紙へと視線を向けた。
『季節毎の草花全集』
『エレミアの伝統料理の作り方』
『病気、怪我に効く薬草大全』
『安く買い物をするための交渉術』
『大陸の歴史 ~太平のはじまりから現在まで~』
『簡単に覚えられる護身術』
『ミスター・ケリミスの野鳥観察日記』
ジャンルに統一性のない書物のタイトルが他にも十冊ほど並んでいる。
興味を引いたものを片端から持ってきたという感じだ。
そして最後に手元の書物へと視線を落とし、今まで読んでいたその本を閉じる。
『戦略と戦術 ~英雄たちの軌跡~』
若い女性が読むには相応しくないタイトルが目に映る。
(……ついに約束の時が来たということか)
再び顔を上げると、黙して見守っていた男と視線が交わった。
共に強い意志を宿した瞳である。
「いくつか頼みたいことがあるのだが、良いかの?」
ウルシアはこれからの方針を固めた。
「イェルンはお前と共に行くと決めたのだ。我らに遠慮は無用だ」
裏の世界を生きてきた男は、力強く頷いた。
『士書』によれば、ウルシアという女性は黒髪黒瞳の見目麗しい女性であったようだ。
後に『千里眼の魔女』と名を馳せることになる彼女だが、太平三〇一年の初秋の時点ではまだ無名の娘に過ぎなかった。
北の弱小領サーディアスと豊穣のイトアニア領。
歴史の分岐点となる戦が始まろうとしていた――。