科学者
響は真っ白なパソコン画面を眺めていた。フリーズしたわけではない。彼女は明日の学会で発表するための論文を書いているのだ。しかし数十枚ほどを書き終えたところで、彼女はその全てを消した。一文字も残さずに。どうしてそうしたのかはわからない。別に破壊衝動に似た何かが彼女に働きかけたわけでもない。一つだけ確かなのは、彼女が自分の手でそれを消したという事実だけだ。
響は女性研究員だ。ジャンルは科学。色々な装置を発明しようと日々研究に励む熱心な科学者だ。小さい頃から科学に魅了され続け、あらゆるものを解体しては再構築を繰り返した。もう何をバラバラにしてどう元通りに戻したのかなんて覚えていない。エジソンの伝記を読んで、時計を一番最初に解体したことだけは覚えている。それほどに、幼少の彼女は科学の力に魅せられていた。
中学校に上がってからは、益々理科に夢中になった。中学の理科は電気や物体の運動といった、物理に判別される勉強ができるようになったからだ。実験もたくさんした。彼女が教わった先生は「実験は楽しいからこそ意味があるのだ」と言っては、教科書に無い実験ばかりをさせてくれた。理科の授業は彼女にとって至福の時だった。この時間のためだけに学校に通っていたと言っても過言ではない。そして彼女はより高みを目指すために、やがて県下トップの高校へと進学した。
高校では勿論物理を選択した。彼女の学校では一年の頃は物理と化学が必修だが、二年からは文系と理系で分かれ、そして理科の内容も選択式を採用していた。二つ選べるうちのもう一方は化学を選んだ。生物にも興味はあったが、カエルの解剖をしないと聞いて興ざめした。
高校の彼女はずば抜けて成績がよかった。他の追随を許さない……。そう言わんばかりの勢いで、好成績を取り続けた。これは言うまでもなく、理科に関しての話だ。しかし決して他の科目ができないわけではない。むしろ他の科目も十分すぎるくらいに高い成績を残していった。こと物理に関しては100点以外をとることは彼女の中ではあり得ないことであり、同時に許されないことでもあった。
家の近くにある大きな図書館へ毎日通った。偉大なる科学者の伝記や学術書を読み漁り、家に帰ればネットで名高い学者の論文に読みふけった。新たな発見がある度に自分で理論を構築させ、果たして本当に正しいのかということを検証することは、当時の彼女にとっての生きがいですらあった。歳を重ねれば重ねるほどに、彼女の科学に対する情熱は熱を上げていく。時には身の内にある炎によって、自分自身が跡形もなく燃え尽きてしまうのではないか、などと考えたことがあるくらいだ。科学は彼女にとっての全てであり、世界そのものだった。
やがて大学生になった。全国一位の大学へ、彼女は入学した。学科は言うまでもない。1年と2年で基礎からきっちり学んだ。周囲の人間も彼女のように情熱を持っていて、そのことが彼女を更に興奮させた。自分より少しでも知識があれば悔しがったし、逆のことがあれば優越感に浸った。そして3年になった時点で既に自分の入りたい研究室を決め、誰よりも早く教授と仲良くなった。そういうところも抜け目ない。好きなもののためなら時間も労力も惜しまない彼女の姿勢に、同級生はいつの間にか距離を置き始めた。しかし彼女にとってそれは何の痛手でもなかった。自分は好きなことに没頭できればそれでいい。もっと科学の奥深くまで触れられればそれで本望だ。そんなことばかりを考えていた。
研究室に配属されまた暫くが過ぎると、彼女は周囲よりも1年早く大学院へ配属された。その才能と成績を買われ、正式な制度の下での飛び級だ。大学での勉強だけでは限界を感じていた彼女は、その話に声を上げて喜んだ。これでもっともっと自分の知らない世界へと潜っていける。考えただけで鳥肌がたった。
院生になると、研究の質が違った。これまでとは比べ物にならない。装置も機械も高価で良質。それにそもそも研究テーマの質からして、大学生とは大幅に差がつけられている。ここが天国なのか、と思わず呟いてしまったほどだ。先輩からはひどく笑われた。
それからの彼女は、科学に大して自分のすべてを捧げた。お金も労力も時間も、体力と精神力までも総動員して自分の研究、そして発明に没頭した。朝から晩まで研究室に入り浸り、気になることや不可解なことは何でも試した。ワープ装置や空が飛べるブーツ型ジェットなどの仮説を目にする度に、実験にとりかかった。そうして時間は流れていき、いつの間にか名のある女性科学者として、世間に知られるようになった。テレビや雑誌の取材はたくさん来た。だがそういうことに全く興味がなかった彼女は片っ端から断っていった。そんなもののために研究に捧げる貴重な時間を削れるわけがない。彼女は益々科学へのめり込んでいった。この頃になると、もう手の付けようのない廃人ぶりで、周りからは科学の魔女だの変人だのと好き勝手呼ばれていた。しかし彼女は周囲の言葉には興味なかった。ただただ、目の前にある物体の法則や諸説ある学説にだけ意識を集中させた。
そこから更に数十年が経過した。今や彼女は偉大なる発明家としてその名を轟かせようとしていた。
彼女が長い何月をかけて作り上げた発明品……それは、タイムマシーンだった。
この発明を完成させた瞬間から、ついに人類は時間をも超える存在となってしまった。マスコミ各社からは時の魔術師としての異名を与えられ、各学会からは一目置かれる存在にまで上りつめ、全世界からタイムマシーンの提供を要請する契約書が多数送られてきた。公には公表していなかったが、こういうニュースというのは自然と広まっていくらしい。かくして、彼女「一ノ瀬響」の名前はあっという間に世界中へ広まっていった。
ここで冒頭の論文作成へと戻る。このタイムマシーンの発目に関する学会発表が明日なのだ。ちゃんとした論文とプレゼンが必要である。
彼女は頭を抱えた。
小一時間ほど経ち、彼女はようやくキーボードへと手を伸ばし、指を動かし始めた。
この度私、一ノ瀬響は長年の度重なる研究と実験により、人類に新たな希望を持たせるだろう装置を発明した。これは言わば人類の長きに渡る夢であり、そして超えてはならない一線であろう。その装置の名は、タイムマシーン。現在から過去へ、そして未来へと自由に行き来することができる品物だ。
私はこの発明品を生み出したとき、激しい後悔へと襲われた。人間が時を超えるなどということはあってはならないことだからだ。人間は汚く醜い生き物である。きっとこの私の功績を悪用し、世界を恐怖へ突き落とす輩が現れるに違いない。
そこで私は、この装置を人々に使わせないことにする。これは私の決意だ。精神をかけた決断だ。これを覆すようなことは私が許さない。もう一度くり返す。この装置は人々には何があっても使用させない。
各所様々な批判や不満が出るだろう。私をひどく罵倒し、今の地位から引きずり落とそうとする者も現れるかもしれない。しかしそんなことは私にとっては至極どうでもいいことだ。私は私の名声に興味などない。金もいらない。名誉や富は私にとっては重荷でしかなかったのだ。
このマシーンを生み出そうとしたきっかけは、私のこれまでの人生にある。科学を愛し、追求し続けた私の人生にある。科学は私そのものであり、私は科学そのものであった。その私だからこそ、このマシーンを発明することができたのだ。どういう意味か君たちにはわからないだろう。またあの変人がわけの分からない詭弁を並び立てているだけだ。君たちは必ずそう言うに違いない。無理もない。君たちと私の生きる世界は全く別のところにあるのだ。
私は幼少の頃からこれまでの間、その全てを科学に与えた。人生の全てを科学に惜しみなく与え続けた。しかし、どんなに与え続けても、科学はそれに応じようとはしなかった。穴の空いたバケツに水を入れ続けてみるといい。決してそこには何も残らないだろう。それにも気づかずに、君たちは自分が飲むための水も全て入れ続け、しまいには自分の身体から出る液体と呼べるものもそこへ投入する。しかしそこには何も溜まらない。当たり前だ。穴が空いているのだから。
私にとっての科学は当に穴の空いたバケツだった。科学は私の努力に応えることもなく、むしろ全てを奪っていった。私の時間、労力、金、体力……そして、私の青春を。あるはずだった恋心も、女性特有の自分を着飾るような乙女心も、科学は全て奪っていった。
そうして残ったものが何か分かるだろうか。分かるわけないだろう。何も残らなかったのだから。
私はタイムマシーンを研究している間、ずっと考えていたことがある。それは自分の青春時代のことだ。つまり、戻れるものなら戻りたい……そう考えていたのだ。本来ならキラキラした宝石のような青い時代を、私は取り戻したい一心だったのだ。そしてついに発明した時には、私は59歳の醜い老人となっていた。
笑うがいい。私は最早戻ることすらできないのだ。だってそうだろう? こんな身体で過去へ戻って何ができると言うんだ。せいぜい自分の愚かな姿を影から見守るくらいだろう。そんなことをするために戻りたいわけじゃない。私は自分の青春を、恋心を、乙女心を取り戻したいのだ。
何のための発明だったのか……私にはもう、それすら分からなくなってしまった。もしかするとその意義すらも科学に奪われてしまったのかもしれない。
これから科学者を目指す君たちに言う。悪いことは言わない。今すぐに考え直しなさい。
科学はお前たちに何も与えてはくれない。科学は全てを奪っていく。何も残さない。残させてくれない。とても虚しいものだ。科学者なんて、虚しいものだ。
私はこれからこのマシーンに乗って暫くの時間旅行を楽しむことにする。そして自分に必要なくなった時、その時代のその場所でこのマシーンを破壊することに決めている。この意志は決して揺らぐことはない。
研究資料や発明に関わるデータは全て灰になっている。復元も不可能だ。なにせコンピュータごと破壊したからだ。私ですら元には戻せないほど、繊細に丁寧に破壊した。何をしても無駄だろう。
こういう文章には、最後に何か伝えるべきことを書くのが習わしなのかもしれないが、生憎そんな洒落たものは私には存在しない。だからこの一文で最後を締めくくりたいと思う。
科学よ、さらばだ
子どものころは物理が好きでした。高校では生物を選択しました。今では立派な文系です。理系なんてくそくらえ!
こんにちは原なつめです。
昔っから研究者に何かしらの憧れを抱いていました。頭良さそうだし、なんか楽しそうだし。何より、ものづくりをしているところが、とても魅力的だなぁと。
でも研究って長年の努力の積み重ねじゃないですか。タイムマシーンなんてまさにそうでしょう。バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクだって爺ちゃんになってようやく作り出せたものです。偉大な発明にはその人の人生がかかるのです。……多分。
文章は誰にだって生み出せます。紙と鉛筆とある程度の言葉の知識があれば、どんなに拙くても表現力が乏しくても、書くことはできるわけです。今日はプールに行って楽しかった。これだけでも十分立派な文章です。
でも科学は違います。科学は時間を要します。根気が必要です。努力もなくてはなりません。とても大変なんだろうなぁと想像できます。
ものを生み出すってきっとそういうことなんでしょう。文章は書けても小説は書けない。書くためには多くの時間と努力を必要とします。今デビューしている作家さんは本当にすごい人達なんでしょう。羨ましい。
最後に、ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しずつですが私も小説と自分で言っても恥ずかしく無いようなものを書けるように邁進していきたいと思います。
一度でも読んでいただければこれ幸い。感謝感謝です。
これからも末永くお付き合いよろしくお願い致します。
2012/07/18/Wed/16:38/Natsume Hara