第9話 早春の間 ③
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
翌朝、うみかぜと一緒に、あたしは川面を見つめていた。
「ねぇ、なに?あれ、水面にたくさん何か浮かんで、どんどん飛び上がってる」
「昨日見たよね?小石の裏の幼虫。あれが羽化してるんだ。今飛んでるのはカゲロウの仲間だね」
「あれがカゲロウなんだ・・あっ!!」
水面を飛び立とうとするカゲロウが、一瞬の後に消えた。そして聞こえる、ぴしゃん、という水音。
「今、カゲロウが消えたよ?」
”ぴしゃん”
「ほらまた!」
「うん、消えたね、早春ちゃん、でもほら、よく見てごらん?」
「ああ」
気が付けば、一面に浮かぶカゲロウは、水中から飛び出す魚に次々と食われていた。
「あれ、サカナだ」
「そう、サカナだ。あれはヤマメだね」
「なんで?カゲロウはみんな、ヤマメのエサになっちゃうの?あんな石の下で育ったのに?せっかく飛ぼうとしたら、今度はヤマメに全部食べられちゃうの?」
「・・・」
「かわいそう、カゲロウ」
「・・・ほら、始まるよ。見てごらん」
うみかぜの言葉でスイッチが入ったように、水面をびっしりと埋め尽くす勢いでカゲロウの羽化が始まった。これまでの数とは違う、川の流れに揺蕩う霧のように、カゲロウはその密度を増す。
次の一瞬、カゲロウたちは一斉に飛び立つ。
水中からカゲロウを狙うヤマメを圧倒して、揺蕩う霧は雲のように、川面から立ち昇った。
その光景を見つめながら、あたしは、もう何も言えなかった。
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1時間、2時間が過ぎたか。
わたしたちは渓流の岩場に腰掛けて、静かになった水面を見つめていた。
「カゲロウたちは朝、飛び立つんだね。だから朝早く来たんだ」
「そう」
「でもさ、うみかぜはなんでカゲロウをわたしに見せたかったの?」
「ん?ああ、そうだなぁ、カゲロウ、一生懸命生きてたろ?それをさ、昔、娘に見せたかったんだけど、見せられなかったから」
「娘さんに?じゃ、今見せればいいじゃん、わたしなんかじゃなくって」
「いや、それがそうもいかなくてなぁ」
うみかぜはそう言うと、寂しげに俯いた。
「そっか、なんか・・ごめん」
わたしたちは、また静かに流れる水面に目を移した。
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「女将さん!おはようございます!」
「あら、早春さん、おはようございます。また来たの?」
「はい!朝ごはん食べたし、お風呂もいただいたし、部屋にいてもつまんないから、お手伝いします!」
「うふふ、たすかるわぁ~、じゃ、調理場に行ってうみかぜのお手伝いしてちょうだい」
「はい!」
「それにしても早春さん、髪がきれいね、真っ直ぐに伸びた黒髪、それにお肌も、ピカピカね」
「え?そうですか?えへへ・・最近はカールもしてないし、肌は、温泉効果、かなぁ」
わたしはペコリと頭を下げて、調理場に向かって走った。
「うみかぜ!なんかお手伝いすること、ある?」
「おお、早春か、あるぞ?ほら、そこにキノコの山があるだろ?あれ、種類毎に分けてくれ」
「うん、まかせて!」
あれから、カゲロウたちが飛び立った朝から、わたしは変わった。
一生懸命生きてるカゲロウの姿に触れたから?
それとも、うみかぜの優しい心に触れたから?
今、わたしは女将のことのはさんに付いて、宿の仕事を教えてもらっている。
ことのはさんには”お客さんじゃなくて、バイトみたいに扱って”って頼んだ。名前は”早春”って呼んで、とも。
ことのはさんは温泉や料理の知識、接客、それにお酒のこと、全部教えてくれた。でも一番為になったのは、一般常識や普通の勉強だった。前はこんな勉強なんて役に立たないって思ってたけど、ホントは一番必要だったんだ。
それと、ことのはさんは美しい所作やお化粧、和服の着付けも教えてくれた。これはナイショだけど、オトナのゴニョゴニョ・・も教えてくれたのよ。
毎日忙しく働いて、美味しいごはんを食べて、温泉に浸かって、うみかぜと冗談を言い合って、笑う。
楽しかった。
そうして、いつの間にか時は過ぎた。
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つづく




