第8話 早春の間 ②
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
あたしは部屋に戻るとすぐ鏡に向かった。
-髪をクルクルにカールして、まつげ上向きパッチリメイク、唇もテカテカさせて、よし!ロビーに行こう!
「あの、女将さん?」
「はい、あ、早春の間の・・いかがなさいました?」
-女将さんはやっぱ綺麗、化粧してないっぽいのにな。そう言えばアイツもおじさんだけど、カッコはいいんだよな。
-それに女将さん、いつも丁寧で優しいの。名前はことのはさん。この宿の従業員は、みんな名前が珍しいんだよね。そしてみんな、綺麗でカッコいい。
-あたしなんて、髪も化粧もモリモリに盛らないと誰も見てくれない、ホント、カッコわる。
「あ、あの、今日の朝、部屋に来た従業員さん、いっつもあたしの部屋に来る男の人が、川を案内するって言ってたんだけど・・えっと」
「ああ!うみかぜのことでございますね?ええ、ええ、うみかぜはいつもお客様を気に掛けているようで、食事も全部うみかぜが作ってるんですよ?そうですか、川をご案内、ですか」
「はい・・え?3食全部ですか?これまでのご飯全部?」
「ええ、お客様がお見えになった初日から、全部です」
「そ、そうなんですか」
「じゃあ、すぐに呼んで参りますから、そちらでお待ちくださいね」
女将さんにうながされ、あたしはロビーのソファーに座って待つことにした。
-川を案内って、なにを見るんだろ。川なんて水と石しかないじゃんね。
あたしがそんなことを考えていると、ほどなく、ドタドタと足音が近づいてきた。
「お!いたいた!!早春のお客さん、なになに?渓流を見たいんだって?」
「なに言ってんの?あんたが案内するって言ったんでしょ?あたしが見たいわけじゃないの!」
「あっはっは!そうでしたっけ?でもまぁ、どっちでもいいでしょ!ではでは!」
うみかぜはニコニコと笑いながら「さ、行きましょう!早春さん」と言った。
-なんなのよ、早春さんっだって。ばっかじゃないの?
あたしはさも面倒くさそうに立ち上がった。
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「うわぁあ、すっずしぃ~!」
「そうでしょ?ほら、渓流の流れは結構強くて、岩に当たって飛沫が上がるんですよ。それが風に乗って、だからね、河原はこんなに爽やかで涼しい。それに」
「それに?なに?」
「ほら、きれいでしょ?」
うみかぜはそう言うと木々の枝を見上げた。そこには、枝に茂る葉の間から陽光が降り注ぎ、その木漏れ日がキラキラと水面に反射している。
「う、うん、きれいなのはそうね。うん、きれいよ?でもさ、それだけじゃん。こんなの1回来ればいいんじゃない?」
「そうですか?じゃ、ホントにそうか、勝負しましょうか。私が負けたら、ここはもうこれっきり」
「勝負って、何の勝負よ」
「はは、これこれ」
河原に転がっている小石を無造作に拾ったうみかぜは、川の流れが緩いところに向かって、”ぴゅん”と投げた。
”ぴっ・・びっ・・びっぴっぴぴぴぴ・・”
小石は水面を切って跳ねる。それは6回か7回か。
「水切り?それで勝負するの?」
「そうですよ?どうですか?やりますよね」
「ふん!そんな小学生みたいなこと、やるわけないじゃない」
「へぇ・・・下手くそ、なのかな?」
「そ、そんなわけないじゃない!こんなの昔さんざんやったし!」
「ほぉ、誰と?」
「なんであんたに言わなきゃなんないの!負けないから!」
あたしは角が取れてなるだけ平たい小石を選んで、川面に向かって思い切り投げた。
”ぴっ・・ぼしゃ”
「はぁ?なんで一回?そんなはずないよ。だって前は上手だよって褒められたのに」
「ははは!もう一回投げてみるか?」
「もちろんよ!見てなさい!」
”ぴっぴっ・・ぼしゃ” ”ぴっ・・ぴっぴぴぼしゃ”
何回投げても駄目だった。跳ねる回数はちょっと増えたけど、うみかぜの一投目を超えられない。それどころか、合間に投げたうみかぜの石は、20回以上も水面を跳ねた。
もう、絶対届かない。
でも・・・たのし。
「はぁ~、もうダメだ!負けました!降参です」
「え?早春ちゃん、もう終わり?もう一回投げてごらん?ほら、水際のあの小石、大きさもちょうど早春ちゃんの手の平にピッタリだ」
「もう一回?しょうがないなぁ、どの小石?」
あたしはうみかぜが指差す、水の中の小石を手に取った。
「きゃっ!!むしっ!!」
手の平の小石には、数匹の虫が付いていた。
びっくりしたあたしは小石を放り投げて、うみかぜにしがみついた。
「虫!石の裏側にいたよ?水の中なのに?」
うみかぜは腕にしがみつくあたしの頭をポンポンッと撫でている。
「大丈夫だよ。あれは川虫、カゲロウやカワゲラの幼虫だ。噛んだりしないから、ほら、大丈夫」
あたしの耳に、優しい声が響いた。
あたしの心は、なぜか少し、和らいだ。
宿に帰る道すがら、あたしはうみかぜの背中を見つめている。
-なんだろ、さっきの感じ、この背中・・・優しくて・・懐かしい。
ふいにうみかぜが振り返った。
「早春ちゃん、お昼はなにを食べたい?」
「え?うん・・おむらい・・」
「え?なんだって?」
「オムライス!オムライスがいいな!!」
「おお、オムライスか。はい、承りました。あ、それとね?」
「え?」
「明日、朝早くにもう一度、ここに来ようか」
「朝早くって、なんでよ」
「ああ、見せたいものがあるんだ。早春ちゃんにさ」
あたしは、黙って頷いた。
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つづく




