第6話 渓水の間 最終話
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
ある夜、ふいにノックの音が響いた。
「もう寝る時間だけど、誰かな?」
私は、はーい、と返事をして扉を開けた。
そこには包みを抱えたいざよいが立っていた。
「あれ、いざよいさん、こんな時間にどうしました?」
「お客様、少々お時間いただいてもよろしいでしょうか?」
いざよいは私の言葉を遮るように聞いてきた。
「は、はい、どうぞどうぞ」
「お邪魔いたします」
いざよいは窓際のテーブルに向かい、椅子に手を掛けて私に向き直った。
「お客様、こちらへ」
「はい」
いざよいの言葉には抗えない力がこもっていた。私は素直にテーブルに向かい、椅子に腰掛けた。
「では、私も座らせていただきます」
いざよいはテーブルを挟んだ向かいに座り、手に持った包みを目の前に置いた。
「お客様、これはお客様がこの宿にお越しいただいて、これまでにお撮りになった写真です。渓流の魚たち、岩肌に当たる水しぶき、輝く水の流れ、山の木々と太陽が織りなす景色、そして、美しく盛られた料理の数々」
「わぁ、そう言えば、あんなに写真を撮ったけど、見てなかったですね!」
「はい、これはフィルムなので、現像が必要だったんです。すべて私が現像させていただきました」
私は包みを開け、その一枚一枚に目を通した。
「これを全部、いざよいさんが」
「はい、覚えていらっしゃいますか?最初に撮った写真。あの後私はこの写真を現像していたんです。最初からお上手でしたよ?」
「あぁ、これ!懐かしい。私が初めて釣ったヤマメ。綺麗だなぁ。あ、これはあの岩の上から撮った渓流、水が流れてるだけなのになんて美しい、一瞬として同じじゃないのに、写真にするとそれを留めておける」
「えぇ、お客様は特に釣りと景色の写真がお気に召したようですね」
「いや、いざよいさん、私は料理の写真も好きですよ?いざよいさんが言ったように、料理人が丹精込めて盛り付けた料理っていうのは、それだけで芸術作品のようです。それは食べればおしまいだけど、写真に残せばずっと楽しめる。カメラを借りっぱなしになることもありましたけど」
「あぁ、お客様はとても分かってらっしゃる。きっと、もう忘れませんね」
「え?忘れる?」
私は写真に夢中になっていて、いざよいの言うことをよく聞いていなかった。
「あぁ、私も、もう一度、あんな風に・・」
微笑みながら私を見つめるいざよいの呟きも、そんな私の耳には届かなかった。
「あれ?」
私はひととおり写真を見終わって、不思議なことに気がついた。
「いざよいさん」
「はい」
「この写真とか、これとか、これも、いざよいさんが写ってませんでしたか?私は魚や風景と同じくらい、いざよいさんも撮ってるはずなんですけど」
渓流の水辺に立ついざよい、木々の陽だまりに佇むいざよい、魚を見せてくれるいざよいの手、美しい料理を説明してくれるいざよい。
私が撮ったはずのいざよいの写真は、ここに一枚としてなかった。
「あぁ」
いざよいは返事ともなんとも付かない声を、ひと言だけ上げた。
「え?」
私はいざよいに顔を向けた。
私の目の前には、ただ幾枚もの写真が残されているだけ。
いざよいは、いなかった。
「いざよいさん?」
呼んでみても、部屋にいざよいはいない。
「そ、そんなはずないよ、今、いまいたのに!!」
私は立ち上がり、泣きそうな顔で廊下に飛び出した。
「いざよいさん!!」
誰もいない。誰も応えない。私は思わず走り出した。
「誰も、誰もいない・・そうだ、フロント!やまみこ君や、きさらぎさんがいるはず!」
私は走った。長い長い廊下だった。初めて来たときと同じ感覚。普段はこんなに長いとは感じていなかった。
ロビーに着いたが、フロントにもロビーにも、誰もいなかった。そう言えば、他の宿泊客もいない。
「ち、厨房は?」
厨房ならうみかぜや他に何人もの料理人がいる。夜食も作ってくれるのだから、誰かいるはずだ。
私はフロントの電話を掴み、受話器を上げて厨房のボタンを押した。しかし、受話器からは何も聞こえない。呼び出し音すら鳴らない。
「どういうこと?どういう・・そうだ!温泉!!温泉に行けば絶対に誰かいる!温泉は一晩中開いてるんだから」
私は向き直り、大浴場に向かって走り出した。もうなにも考えられない。いつもいつも私のそばにいてくれる人たちが、誰ひとりとしていないから。
なぜだろう?この宿の人たちは温泉の従業員だ。でも、ただの従業員じゃない、私の中でみんなは何者にも替え難い大事な人たちになっていた。
私は泣きながら走る。
「きさらぎさん! なでしこさん! やまみこさん! うみかぜさん!」
「いざよいさん!」
私は大浴場に走り込み、浴場に続く扉を勢いよく開けて飛び込んだ。
湯船には、人がいた。
私は立ちすくんだ。
「お客様は、私を選ばれたのですね」
いざよいだった。
「あ、ご、ごめんなさい! 女湯に入っちゃった!」
いざよいの顔を見て心底安心したが、いくらなんでも女湯に飛び込むとは。
「ふふふ、いいんですよ、どうぞ、一緒に入りましょ」
「え?」
「どうぞ、お嬢ちゃん」
いざよいは湯船から手を伸ばし、私の手を取って導いてくれる。私は抗う間もなく、いざよいの懐に抱かれていた。
もう、なにも分からなかった。なにも考えられなかった。そんな私の耳に、いざよいの言葉が届いた。
「さぁ、もう温泉から上がりましょう」
私の意識は徐々に薄らいでいった。
気がつくと、私の目の前にいざよいの顔があった。
「お客様、最後のお食事ですよ?」
いざよいが私の口に含ませてくれたのは、甘い液体だった。砂糖を入れた牛乳だろうか。それは温かく、私の脳髄に直接届くような心地よい香りと味を持っていた。
・
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「お客様が選ばれたのは、いざよいでしたね」
「えぇ、いざよいとお客様には、何か強いご縁があったようです」
聞こえる声は、きさらぎのようでもあり、なでしこのようでもある。
「あぁ、ぜんぶ召し上がりましたね」
やまみこの声にも聞こえたが、うみかぜのようでもあった。
「でも、もうすぐまた、お召し上がりになりますよ?」
これは、いざよいの声だろうか。
「それと、もうすぐまた、会えますね。私も、もう一度、お客様と共に、参りましょう・・」
もう一度?
私と共に?
いざよいの声と共に、私の意識は深い闇に溶けた。
・
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私は泣いていた。なにも分からず、とにかく泣いていた。
寒い寒い寒い
その感覚しかなかった。
すぐに私は、誰かの胸に抱かれた。
温かい。懐かしい温かさだ。
私も泣いているが、私を抱く誰かも泣いているようだ。
他の誰かが言った。
「おめでとうございます」
「さぁ、初めてのお食事ですよ?」
大きく口を開けて泣いている私。
その口に、柔らかな甘みの液体が流れ込む。
私は、その味を知っていた。
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わたしは川が大好き。
いつもじいちゃんと遊びに来るんだよね。
今日はじいちゃんが釣りを教えてくれるって、とっても楽しみ!
”みゃくづり”って、昨日の夜教えてくれたけど、できるかな。
ううん、できる。
きっと出来る気がするね。
わたしはじいちゃんの竿を借りるの。
もう仕掛けは付いてるんだって。
じいちゃんは自分の竿に仕掛けを付けてる。
もう、釣っちゃおうか?
なんかね、石をどけるとね、虫がいるのよ。カゲロウの小さいヤツなの。
それをね、針にちょっと付けて、あそこに入れてみたら良いんじゃないかな?
だよね、だよね。
ほら来た!
ぐいぐい引っ張られる。
すごい力、でも大丈夫。
「じいちゃん!!」
「はらら?なんだで、もう釣ってるんか?」
「あはは、釣れた」
おっきいサカナ。力がすっごく強いの。
でも大丈夫だったね。
「じいちゃん!これなに?きれいなサカナ!」
「それはな、ヤマメだで。うまいぞ~、しかしお前、よくひとりで釣ったもんだ」
「じいちゃん!これ、写真に撮りたい!!」
「あ~ん?写真?なに珍しいこと言うとるだ」
「じいちゃん!これ塩焼きにして、骨酒にしてあげる!!」
「はぁ?塩焼き?骨酒?なんだでそんなもん知っとるんだ?」
わたしはちょっとだけ考えたけど、答えはひとつだわ。
「さよ、わかんない!!」
わたしの名前は小夜。
じいちゃんと川で遊ぶのが好き。
とうちゃんの膝で眠るのが好き。
かあちゃんの作るご飯は、すっごく好き。
そしてね、初めてのことが大好きな。
わたしは、5歳の女の子だ。
渓水の間 了




