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第5話 渓水の間 ⑤

誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。

そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。

優しくて、そして哀しい。

温泉宿のお話。


 翌日から私は毎日、起き抜けに温泉に浸かり、軽い朝食を食べ、川に降りて釣りをした。初めて釣りをしたときの仕掛けは延べ竿を使った脈釣りという釣り方だったが、宿には他にルアーを使う道具や、日本の毛針を使うテンカラ、ヨーロッパで生まれたというフライという釣り方もあり、とにかく飽きなかった。


 昼食も軽く済ませることが多くなり、昼からは川辺の木々と渓流の岩と水が創り出す幻想的な景色を夢中になってカメラに納めた。


 その時々にいざよいが付き添ってくれることもあり、私のカメラには彼女と自然の風景が数え切れないほど納まった。


 そして夕方に宿に戻れば、ゆっくりと温泉に浸かって疲れを癒やす。


 夕食は相変わらず美味かったが、そのうち私の中にちょっとした変化が起こった。


「やまみこさん、今日の食事なんですが」


 私はもう、朝のうちに三食分をお願いするようになっていた。そもそも出てくる料理はいつも美味く、文句の付けようがないからだ。


 しかし・・


「はい、いかがいたしましょうか」

「えっと、いつも食事は美味しいし、飽きたわけでもないんですが」

「はい?」

「えっとですね、ラーメンとか、食べたいんです」

「左様ですか、お客様もいよいよですね」


 何が ”いよいよ” なのか、やまみこの真意は分からなかったが、きっと美味い料理に慣れすぎるとB級グルメが食べたくなる客も多い、ということだろう。


「う~ん、ラーメンって言うのも、インスタントラーメンが食べたいんですよ、みそラーメン、それと」

「カレー、ですか?それもレトルトの」

「そうですそうです!何で分かるんです?」

「ははは、いや、失礼しました。ついでに申し上げますと、お客様が食べたいと思われているのは、あと、ハンバーガー、それもビッグマっ」

「ぐ、うん」

「それからピザ、チーズがどっさりのっていて、ピースを取り分けると、チーズがビヨ~ンと伸びる」

「は、はぁ」

「はふはふ食べるタコ焼きに、お好み焼き、焼きそば、それも大盛り!!」

「え~、なんで?」

「はっはっは!」


 やまみこはホントに失礼なほど大きな声で笑った。


「いやいや、本当に失礼いたしました。お客様があまりにも分かりやすく反応されるので、つい」

「やまみこさん、勘弁してくださいよ」

「はい、お客様、とりあえず本日の朝食は? いかがなさいます?」


 私は朝っぱらからデカいハンバーガーを頼んだ。


 やまみこがあんなことを言うからだ・・


 この日以来、私は恥ずかしいほどの量を食べた。ハンバーガー2個にポテトにコーラ、全てLサイズとか、インスタントラーメンを3食分と山盛りの白飯とか、カレーなんて、3杯食べて腹一杯!と思ったら、もう少しといって4杯目を平らげる始末だ。

 もちろんB級グルメと言いながら、この宿の飯は美味い。インスタントラーメンなのに別格に美味く感じるのは不思議だが。


 それと、いつの間にか酒を飲まなくなった。


 B級の晩飯ではないこともあったのだが、酒を飲む気が起きない。例えば肉料理なら分厚いステーキや山盛りの唐揚げだけ、それと山盛りの白飯が食いたいのだ。


 そんな日々は夢のように過ぎた。正確には毎日が初めての発見で、一日一日がとてつもなく長く、しかし振り返るとあっという間に過ぎている。という感覚だ。


 これではまるで・・子供じゃないか。



「お客様」


 ある日、いつものように川で釣りをしていると、ふいに後ろから声を掛けられた。振り返ると、女将のきさらぎがにこやかに立っていた。

「あぁ、きさらぎさん、なんか、お久しぶりですね」


 宿に泊まっているのに女将さんに会うのが久しぶり、というのはおかしな感覚だ。私はキャストしたルアーを手早く回収して、きさらぎの方に向き直った。


「お客様、最近はたくさん召し上がっておられるようで」

「あ、いや~、こんな歳なのに、ってことでしょう?ホント、高校生か!ってくらいですよね。それにあんな炭水化物ばっかり、最近は太って太って」

「本当ですか?お客様、ずいぶんとお痩せになってますよ?それに、こんな不安定な渓流の岩をポンポンと飛んで回っておられます」


 私はハッとして自分の体を見直した。確かに痩せている。

 ここに来たときはたぷたぷだった腹がしっかりと締まっている。それにきさらぎの言うとおり、この渓流の岩場は大きな岩がゴロゴロ転がっているが、岩に登るのも飛び移るのも、まったく苦にならなかった。


「あ、本当ですね。毎日あんなに食べてるから、つい。しかし、毎日温泉に浸かってるんだから気がつきそうなもんですけど、気づかなかったなぁ」

「そうですね、お客様はもうずいぶんとこの温泉宿でお過ごしになりました。それで、心も体も生まれ変わっているようです」

「ホントにそうです。だからなんだなぁ、この宿が人気ナンバーワンで、人生一度は来るべき宿、って言われてるのは」

「ふふふ、それは本当に光栄なことですわ」


 きさらぎはいたずらっぽい笑顔を作った。こんなとき必ず、彼女は私になにか提案してくる。


「ではお客様、明日からしばらくの間、私どもでも中々手に入らない、貴重な食材をお試しいただきたいと思うのですが、よろしいですか?」


 この宿の料理が不味かったことなんて一度もない。そんな宿の女将が貴重な、と言うんだ。断る理由などなかった。


「それはうれしいご提案です。じゃあ、明日の朝からですね」

「はい、明日の朝から。では本日の夕食は、お客様が特に食べたいものをお申し付けください」


 きさらぎの言葉の意味は、ときどき分からないことがある。しかし、特に食べたいもの、と聞かれると逆に思いつかないものだ。


「いや、なんでもいいですよ。美味しくなかったことないですし、まぁ特に、と言われると、焼き肉とかかなぁ」

「分かりました。では、お肉を何種類か揃えてお持ちしますね。あとお酒は」

「いえ、アルコールは結構です。その代わり、白飯はたくさん欲しいですね」

「ふふふ、本当にたくさん召し上がりますものね。ではそのようにいたします」

 そう言うときさらぎは宿に戻っていった。


「きさらぎさんが特別って言う食材って、なんだろうなぁ」


 夕食の焼き肉はもちろん最高のものだったが、それ以上のものとは一体なんなのか、私は布団の中でもそのことばかり考えていた。



 翌朝、いつものように温泉に浸かり、食事を頼むことにした。電話に出たのはいざよいだった。


「おはようございます。えっと、今日の食事なんですが」

「承っております。お客様、本日から特別な献立となりますので、和食か洋食かをお選びいただければ、私どもで厳選した食事をお持ちいたします。いかがなさいますか?」

「そうなんですね、では、朝は洋食で、昼と夜は和食でお願いします」

「かしこまりました。では朝食はこれからお持ちいたしますので」

「はい、じゃあ、お願いします」


 ほどなくして扉がノックされ、朝食が運ばれてきた。いつものようなメニューではないだろうと思ってはいたが、いざよいが私の前に置いた食事を見て、私は少々ガッカリした。


「え、これだけですか?」

「はい、これだけです。ですが、おかわりはできますので」

「おかわりと言ったって」


 そのメニューは、食パンと牛乳だけだった。バターやジャムなども置かれていない。サンドイッチに出来そうなサラダも付いていない。ただ、傍らに小さな火鉢が置かれ、食パンと牛乳を焼いたり温めたりするようだ。


「こちらで私がお好みの加減に焼きますので、牛乳も冷たいもの、温かいものとお申し付けいただければ」


 そう言われても私のガッカリ感は消えなかったが、いざよいがわざわざ側で焼いてくれるんだから、と自分を納得させた。


「分かりました。じゃあ、食パンはカリッとしっかり焼いてください。牛乳は冷たいままで」

「かしこまりました」


 いざよいは慣れた手つきで食パンを焼いている。炭火で焼くので均一に焼くのは相当難しいはずだが、まるで煎餅でも焼くように、むらなく焦げ目が付き、何ともいえない香ばしい香りが立ちこめた。


 いざよいは皿にトーストした食パンをのせ、透明のグラスに牛乳を注いで私の前に差し出した。


「どうぞ、お召し上がりください」


 目の前でトーストを割ってみると、香ばしさの中から更に強い、甘い香りが放たれ、私の嗅覚を直撃した。サックリとした表面に反して中はふわりと柔らかく、餅を割るような粘りさえ感じる。


「はふ」


 口に含むと小麦の香りと味が炸裂し、次に強い甘みが舌に乗る。サックリふわりとした食感も楽しい。耳はカリカリとして、まるでトンカツの衣のようだ。


「お、おいしい」


 素直な感想が口をついた。続けて牛乳を口に含む。


「これ、牛乳?」


 これまで飲んだことのある牛乳とは別物と思えた。すんなりと喉を通るが、強いコクと甘みがある。クリームならそういう味だろうが、こんなにスムーズには飲めないはずだ。それが口中でトーストと合わさり、まるで上質なクリームスープを飲んでいるかのようだ。


 私はあっという間に1枚を食べ終え、冷たい牛乳をぐいっと飲み干して、いざよいに向き直った。


「いざよいさん、次は逆で、牛乳を温めて、パンは焼かずに」

「かしこまりました」


 いざよいの笑顔は満足げだった。


 私は食パンの焼き加減を変え、牛乳も温めたり、冷たいまま、といろいろに変えて、10枚の食パンを平らげた。牛乳も2リットルは飲んだようだ。


「ふぅ、美味しかったです。いざよいさん」

「左様ですか?そう言っていただけるとうれしいです。なにしろこれからはパンやご飯といったものだけを召し上がっていただきますので」

「え?じゃ、洋風ならパン、和風ならご飯だけ、ってことですか?」

「左様でございます。それぞれに今回の牛乳のような、シンプルな副菜を添えて召し上がっていただきます」


-牛乳って、副菜だったんだ。


 少々言いたいことはあったが、その牛乳をぐいぐい飲みながら夢中で食パンに食らいつくんだから文句は言えない。それよりも、これほどに美味い食パン、そして牛乳は初めてに思えた。


「いざよいさん、この食パン、それに牛乳はすごく特別なものなんですか?きさらぎさんは特別な食材、って言ってましたけど」

「そうですねぇ、もちろん最高級のもの、と申し上げたいのですが、実は結構普通の食パンと牛乳です。ただ、その入手は困難で、だから特別、という意味になるでしょうか」

「普通、ですか、なんだかホントに初めての味だったんですけど」

「ふふふ、これからお召し上がりいただくものも、みなそのような、お客様が人生で初めて出会ったときのものだと、だから入手が困難な特別なものだと、ご理解いただいた方が良いかもしれません」

 いざよいの言う意味はよく分からなかったが、その笑顔は少しいたずらっぽかった。まるできさらぎのようだ。


 それから出される食事は、いざよいが言うとおり実に質素なものだった。しかし、これもいざよいが言うように、ごく普通の食材のはずが、どれもこれも生まれて初めて食べたような感動を与えてくれるものだった。


 艶々と光る白飯は、部屋に持ち込まれた七輪の上で炊かれたものだ。必ず女将や従業員の誰かが付いて炊き上げてくれる。土鍋から吹き上がる泡と蒸気、そのあとにわずかなお焦げの香りが立ち、食欲を掻きたてる。

 十分に蒸らされた白飯は茶碗に盛られるとその輝きを増して、口に含めば香りが更に増し、粘りのある米粒を噛み締めると一粒一粒の甘みが味覚を支配する。


 何ともいえない幸福感。


 そしてその白飯を引き立てるのは、ある日は玉子、ある日は香の物、調理法も種類も毎度違う。

 必ず添えられる味噌汁も、やはり毎度違う1種類のだしと味噌で調味され、飲むたびにその旨味を実感する。


 最初のうち何度かは洋食も食べた。パンも副菜ももちろん美味しく、毎回驚きの連続だったが、私はどうやら白飯が好きらしい。3日目からは和食のみになった。


 白飯と合う一品というのは、もしかしたら無限にあるのかも?それに味噌汁のだしと味噌の組み合わせも同様だ。


 私はそんな食事を腹一杯食べ、そして朝から夕まで渓流で遊び、温泉に体を浸す日々を過ごした。



つづく


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