第4話 渓水の間 ④
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
フロントにはやまみこがいた。
「やまみこさん、すみませんが、いざよいさんを呼んでいただけませんか?厨房に取り次いでいただくお願いをしてまして」
「あぁ、いざよいですね、少々お待ちください」
やまみこは微笑みながら受話器を持ち上げ、誰かと話している。と、やまみこは受話器を降ろし、私に向き直った。
「お客様、大変申し訳ありませんが、いざよいはただいま所用で手が離せません。お客様のお話は承っているということですので、女将のきさらぎに取り次がせていただいて、よろしいでしょうか?」
「あぁ、きさらぎさん、女将さんですね。もちろん結構です。よろしくお願いします」
「承知いたしました。それでは少々お待ちください」
やまみこはまた受話器を持ち直し、ひとことふたこと話して受話器を置いた。
「すぐに女将が参ります。どうぞそちらでお待ちください」
やまみこに促され、私はロビーのソファに座って待つことにした。
きさらぎはほどなくしてやってきた。
「お待たせいたしました、お客様。厨房の準備をいたしましたので、さぁ、参りましょう」
「あぁ、女将さん、ありがとうございます。急にこんなことお願いして」
「いえいえ、いざよいはとても良い提案をしたものだと感心しています。それにお客様もとても喜ばれたご様子で」
「えぇ、本当に楽しかったんです。それに、私が魚料理が苦手だって承知していただいてるのに、今日は魚が食べたいなんて、それも自分で料理したいなんてわがまま言って、すみません」
「そんなお気になさらず、それに今日ご自分で料理してみて、もし調理自体にご興味がおありでしたら、これからも調理場にいらしてくださいませ。料理長にはそう申しつけておきますので」
「いやいやそんな迷惑は掛けられませんよ、本当は自分で釣った魚を食べられるだけで良かったんですから」
「左様ですか、でもやってみたら釣るよりもっと面白い、とお感じになるかもしれませんよ?」
きさらぎはいたずらっぽく笑っている。
「さぁ、着きました。では中へどうぞ」
厨房の中はやはり広く、料理長と思われる人と、幾人かの料理人が忙しく働いている。こんなところで自分の釣った魚を料理するのは、やはり気が引けた。
「お、女将さん、さすがにちょっとご迷惑では」
私が辞退を申し出ようとすると、料理長と思わしき男性が近づいてきて、私に話しかけてきた。
「渓水の間のお客様ですね。料理長のうみかぜと申します。今日は良いヤマメをありがとうございます。それに、本日は魚料理をと承っておりますので、昨日同様、数種類の魚で整えて参りますから、よろしければその様子もご覧ください」
昨日の夕食はうみかぜと名乗った料理長の手によるものなのか。私は絶品肉料理の数々を思い出した。
「料理長さん、昨晩いただいた肉料理は本当に美味しかったですよ。あんな美味しい料理、私は食べたことがありません。全部が私の一番でしたよ」
私はなんの誇張もなく、うみかぜの料理を絶賛した。
「今日も楽しみでしょうがありませんが、その前に、自分が釣った魚の料理など受けてくださって、本当にありがとうございます」
「そう言っていただくと料理人冥利につきますね。さぁ、ヤマメを調理してみましょうか」
そう言いながら、うみかぜは調理台の方へ歩いて行く。背が高い。年齢は四十過ぎというところか、それにしても男前だ。外見も立ち振舞いも格好良い。この宿の従業員は皆そうだが。
私と女将がうみかぜの後ろをついて行くと、まな板の上に、私が釣り上げたヤマメが置かれていた。
「これはお客様が釣り上げたヤマメです。では、私が言うように下ごしらえしていきましょう」
私はうみかぜの言うとおりにヤマメのぬめりを取り、初めて握る包丁でヤマメの腹を割き、内臓を取り出した。
ヤマメを流水で洗っていると、うみかぜが感心したように話しかけてきた。
「お客様、初めてとは思えない包丁さばきです。この後は水気をよく拭き取り、塩焼きにいたしましょう。渓流魚ですからルイベにしても美味しいでしょうが、まずは素材の味がしっかりと分かる料理がいいでしょうし」
私はうみかぜの言葉に少々照れくささを覚えながらも、初めて触る生の魚や内臓の感触を思い出して、不思議な感覚に囚われていた。
「うみかぜさん、私が魚が苦手なのはご承知ですよね。でも今日、生の魚や内臓を触っても、特段嫌な気持ちにはなりませんでした。それよりも、ただの魚がこうやって料理に姿を変えるのか、という、新鮮な気持ちでいっぱいです」
「そうですか、それは何よりです。ところでお客様、どうして魚が苦手なのですか?」
「いや、お恥ずかしい話ですが、私は魚の骨が苦手で、子供の頃から上手く食べられなくて、骨が喉に刺さることもあって、あと、刺身に小骨が入ってることも、そんなこんなで魚自体を敬遠するようになってしまったんです」
「ははぁ、それはよくある話ですね。でもお客様、そういう方も、魚の仕組みを知れば、結構上手に食べられるようになるんですよ?」
「さかなの・・しくみ、ですか?」
「そうです、魚の仕組みです。魚の骨や内臓の位置は種類によって違うんですよ。ですから調理するときも食べるときも、魚の仕組みを知っていれば上手くいくんです」
「なるほど、骨の位置とか分かってれば避けられる、ということですね」
私が感心していると、きさらぎが話しかけてきた。
「そうですね、お客様、今夜は魚料理です。当然骨の入った料理もあります。ですがうちの料理長は、魚の骨を抜いてお出しするようなことは絶対にいたしません。ホントにこの人は頑固で・・コホン・・料理の一つ一つに工夫を凝らしてお出ししますが、ヤマメの塩焼きのように、骨を避けて食べるしかない料理もあります。いかがでしょう?差し出がましいようですが、今夜の夕食に私がご一緒して、魚の仕組みを教えて差し上げる、というのは」
「えっ!?そんなご迷惑をお掛けするわけには!それに、私も子供ではありませんので」
さすがにこれは辞退しなければ、私はそう思ったが、うみかぜがその提案に賛同した。
「お客様、これはチャンスですよ?一度覚えてしまえばもう忘れることはありません。それに私もきさらぎがいてくれるとなれば、制限なく魚を料理できるというものです」
「そ、そうですか。制限なく・・いや、それではその、私のヤマメの塩焼きだけで結構です。ヤマメを美味しく食べられるように、教えていただけますか?」
「そうですね!お客様が初めて釣り上げたヤマメです。美味しく食べていただけるよう、私も全力で!!」
「いやいや女将さん、そんなに力を入れなくて大丈夫ですよ」
「あら、私としたことが、お恥ずかしい」
うみかぜは笑っている。いや、調理場の料理人皆が、私たちのやり取りを聞いて笑っているようだ。決して嘲笑ではない。暖かく見守ってくれているような、そんな笑顔の中に、私はいた。
その後、串打ちされたヤマメが炭火で炙られ、それ以外の魚料理ができあがっていく様を見せてもらった。
-あぁ、もう美味そうだ。
もう十分だ。私はきさらぎに今夜の酒に日本酒をお願いし、部屋に戻ることにした。
”配膳にはもちろん私と、やまみこがお伺いします”
きさらぎはそう言っていた。私は窓際の椅子に腰掛け、川のせせらぎを聴きながら今日一日のことを思い出し、自然と笑顔になっていた。
「そうだ、まだたったの一日が終わってないんだ。もうすぐ女将さん、きさらぎさんとやまみこ君が料理を持ってきてくれる。こんなに一日を長く感じるのは、なぜだろう」
そんな独り言をつぶやいたとき、ノックの音がした。
「失礼いたします。夕食のご準備に参りました」
「はい、どうぞお願いします」
私が応えると、きさらぎとやまみこの二人が挨拶をしながら扉を開け、やはり昨晩のように手際よく料理や皿を並べながら、それぞれの料理の説明をしてくれた。私が魚料理が苦手なことを知っての心遣いなのだろう。
今夜の料理は先ほど厨房で見たものだが、やはり器に盛り付けられると違う料理のように見える。和食の始まりを告げる八寸、美しく盛り込まれた三種盛り。魚は鯛とマグロ、それにイカ。鯛は松かさ造りと平造り、マグロは本マグロの中トロの湯霜だそうだ。イカはアオリイカ。細かな細工包丁が施され、軽く炙ってあるようだ。
煮物は意外にも鯖の味噌煮だ。昨晩もそうだったが、こんな大衆的なものが恐ろしく美味かった。これもきっとそうだろう。
そのほかに揚げ物や椀物があり、締めは鯛飯だそうだ。上品でありながら十分な品数と量がある。
「お客様」
やまみこが私に話しかけてきた。
「こちら、焼き物となります、ヤマメの塩焼きでございます。これは特別に、こちらに運ぶ直前に焼き上がるよう料理長が差配しておりました。食事の順としてはおかしいのですが、ぜひ最初にお召し上がりください」
「本日の料理の中で、この塩焼きがもっとも難しいと思いますよ?せっかくお客様が釣って、料理もされた初めての魚です。私がお手伝いしますので、温かいうちに召し上がってください」
きさらぎがいたずらっぽい笑顔を浮かべながら私の横につき、まずは、と日本酒を勧めながらそう言った。
私は日本酒をひとくち含み、意を決して箸を手にした。
「そうですね、では!いただきます!!」
その後、きさらぎはヤマメの頭の付け根、胸びれのあたりを少し押さえ、魚全体を軽くほぐし、それから箸を入れるように教えてくれた。
「魚の骨は背骨の他に、背びれ、腹びれの根元にある骨、それと側線の下に血合い骨が並んでいます。ですから、魚の体は背側と腹側に綺麗に割れるんです。背びれと腹びれは魚体を押さえながら抜くと骨も一緒に抜けることが多いですね」
なるほど、きさらぎの説明通りに箸を入れると、ヤマメの体は綺麗に割れた。ひれに付いた骨もこうしてみるとよく見える。
私はまず、背側の身をむしり、口に運んだ。
「熱い、う、旨い」
思わず声が出た。炭火で焼いたヤマメの身はまだ熱々で香ばしく、何ともいえない旨味と、上品な香りを放っていた。
「これが魚の匂い、いや、香りか」
「ヤマメは元来、鱒です。香りは鮎のような独特なものではありませんが、とても上品ですね」
「それに、日本酒とこの上なく合う」
ヤマメの程よい塩加減は、日本酒の甘さとよく合い、ひれに施された化粧塩の強い塩味とも相まって、更に酒を進ませる。
「きさらぎさん、ここは」
「はい、ここが一番の難関、腹骨です。ですがよくご覧ください。腹骨は長く、湾曲しながら内臓を守っています。ですからその太い方をちょいとつまめば」
「あぁ、分かりました、スルッと抜けますね!この要領で骨を抜いていくと」
-うん、よく分かる。骨があるところの身をむしろうとするからだめだったんだ。骨があるなら抜けばいい。
「うん!美味しい!背中の身より脂が乗っていて、柔らかくて」
私はあっという間にヤマメを骨だけにしてしまった。こんなに綺麗に食べることが出来たのは、生まれて初めてだ。
「お客様、お上手でした。これで他の魚も、本日の料理ではこの鯖の味噌煮も、椀ものの鯛のあらも、上手く食べることが出来るはずですよ?」
きさらぎはそう言うと、更にいたずらっぽく笑いながら続けた。
「ではお客様、渓流魚の塩焼きの最後に、あまり上品ではありませんが、最上の味をご用意します。やまみこさん、お願い」
促されたやまみこは黙ってうなずき、私の前の皿に残ったヤマメの骨を、大振りの杯に移した。傍らには小さな火鉢が置かれ、その上でなにやら器が温められている。
「では、ヤマメの骨酒と参りましょう」
やまみこはおもむろに液体の入った器を持ち、ヤマメの入った杯に一気に流し込んだ。
湯気が立つ、この香りは日本酒だ。それも相当な熱燗。そしてその香りはすぐにヤマメの香りと交わり、更に炭火で焦げた香ばしい香りも加わった。
「ヤマメの骨酒でございます。どうぞ」
やまみこは杯を私の前に置いた。私はそれを両手に捧げ、恐る恐る口をつけ、ひと口含んだ。
「はぁ、これは、すごい」
日本酒の芳醇な香り、味、それにヤマメ本来の味と塩味、炭火の香ばしさ、焦げた皮の香りまで渾然一体となって、私を圧倒した。
「う・・美味い、こんなの初めてです」
「ふふ、本来は身を食べずに作るんですけど、今日は特別です。でも骨酒、というくらいですから、味はあまり変わらないんですよ?」
夢中になって飲み干す勢いの私を、きさらぎは満足げに見ていた。
「しかしきさらぎさん、ヤマメ1匹でこれほど楽しませてもらったのに、まだこんなに料理があります。私、酔ってしまいそうですよ」
昨晩のこともあって、私は少し不安になった。
「酔ってしまったら酔ってしまったで、お休みいただいて大丈夫ですよ?昨晩もそのようでしたし」
「あ、やっぱりそうでしたか。いや、お恥ずかしい」
「お気になさることは何もありません。ここはそのように、ご自分のことを見直し、そして気づくための場所でもあるのですから」
「そうですか、ではお言葉に甘えて」
私はきさらぎの言葉の意味も考えず、並べられた料理を堪能し、数種類用意された日本酒を楽しんだ。
結局きさらぎとやまみこの二人は夕食の間ずっと私の側で、使われている魚の種類や調理法、食べ方などを教えてくれた。
「そうなんですね、鯖はマサバとゴマサバがあって、え?厳密にはマグロもサバ?・・・」
「カツオは生で美味しくても火を通すとあんまりって、そうなんだ・・・え?カツオもサバ?」
「へぇ、で、マグロは5種類か、鯛も5種類?って、鯛はたくさんあるんじゃ、え?あれは鯛じゃない?」
苦手だったはずの魚料理、それはこれまでの人生を後悔させるほど美味くて、面白かった。
「きさらぎさん、やまみこさん、今夜は本当にありがとうございます。ふたりとも忙しいのに、こんな私のために」
「いえいえ、私もやまみこも、なかなか良い経験をさせていただきました。魚料理が苦手な方はこれまでもいらっしゃいましたし、肉料理が苦手という方も多いんですよ?今夜のことはこれからこの宿のマニュアルにしようかしら、って考えてるところです」
きさらぎはにこやかに応えてくれた。その横で片付けをしているやまみこも笑顔でうなずいている。
「そう言っていただけると、私もうれしいです。あ、それと、明日以降の食事なんですが、肉も魚も関係なくお任せしたいと思うんですが」
「左様ですか、それはとても良いことだと思いますよ?では、うみかぜにそのように伝えておきますので、でももし、うみかぜが凝りすぎな魚料理を出そうとしたら、あらかじめお伺いしますね」
きさらぎはまたいたずらっぽく笑って言った。この人はよく、こんな笑顔を見せる。
「え?凝りすぎって、それはどんな料理でしょう?」
「そうですねぇ、フグの卵巣ですとか、コノワタですとか、くさやですとか」
「はぁ、それはどんなふうに?」
「あぁ、フグの卵巣は本来猛毒、コノワタはナマコの内臓、くさやは」
「うわ、猛毒に内臓、あ、でもくさやは知ってます。匂いが、あれなやつですね」
「そうです。でも私は大好きですよ?」
「そうですか、じゃ、挑戦してみようかな」
「ふふ、では、うみかぜに申し付けておきますね。では、そろそろ片付けも終わりましたので」
そう言って、きさらぎは片付けを終えたやまみこと部屋を出て行った。
「あぁ、楽しい一日だった」
私はひとりになって、心底そう思えた。そして先ほども感じた感覚に浸っていた。
「たった一日、たった一日だぞ?楽しくて、長かったなぁ」
その想いは、布団に入って寝入るまで、消えることはなかった。
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・
つづく




