第3話 渓水の間 ③
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
ロビーに着くと、いざよいはフロントのそばに立っていた。
「お客様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
私はロビーでしばらく待つつもりだったが、いざよいはもう準備を終えているようだ。
私は軽く会釈していざよいに駆け寄った。
「すみません、逆にお待たせしたようですね」
「いえ、お気になさらず。準備もそれほどではありませんので」
いざよいの笑顔にホッとしながら、傍らに置いてある数種類の釣り具に目をやる。
「いざよいさん、私は釣りって初めてなんですけど、竿が何本かありますね、リールが付いてたり、付いてなかったり」
「はい、渓流で釣れる魚は何種類かいるのですが、どれも同じような釣り方で釣れるんです。その釣り方自体も何種類かございます。お客様がどのような釣り方がお好みか、まずはお試しいただこうかと」
「そうなんですね。じゃ、お願いします」
「かしこまりました、では、参りましょう」
私といざよいは遊びに行く子供のように、いそいそと玄関を出た。
川のそばに来ると、渓流の流れは意外と強く、風はその飛沫を含み、水音は更に大きく、いざよいの声も私の声も自然と大きくなる。
「いざよいさん、これでいいですか?」
私はいざよいに言われるまま草鞋に履き替え、一番簡単そうな、リールの付いていない釣り竿を選んだ。
「はい、渓流の石はとても滑りやすいのでお気をつけください。その竿にはもう仕掛けを付けてありますので、まずは餌を探しましょう」
「エサ?ここで探すんですか?」
「はい、この流れの中の小石をひっくり返すと、ほら」
「わっ!」
いざよいにも持てるような小石だが、その裏側には小さな虫のようなものが何匹かくっついていた。なにやら蓑虫の巣のような砂の塊もある。
「なんですか?これ」
「これは、カゲロウの幼虫なんです。他にカワゲラなど何種類かいますが、釣り人はこれを川虫と呼んでいます。渓流の魚はこれが大好物なんですよ?」
「はぁ、カゲロウは知っています。あのカゲロウの幼虫ですか。初めて見ました」
「カゲロウはこうやって水の中に住んでいて、羽化して成虫になると水から飛び立ちます。そして子をなし、死んでいきます。カゲロウの成虫には子孫を残す機能しかありません。水も飲まず、何も食べないから、口も、消化器官もないんです」
いざよいの話を聞いていると、なにやら悲しくなってくる。カゲロウはいったい、なんのために生きているのか。
「なにか、悲しいですねぇ」
ぽつりと正直な感想が漏れた。
「いえ、お客様。それがカゲロウなんですよ?カゲロウは自分が不幸だなんて思っておりません。ただ、釣りの餌になるのは嫌かもしれませんね」
いざよいは少し微笑みながら言った。
「そうか、そうですね!じゃ、カゲロウの幼虫に感謝して!」
一投目はいざよいに餌を付けてもらった。小さな釣り針に小さな川虫を2~3匹刺し、流れを読みながら振り込む。思ったより簡単だ。
二投目からは自分で餌を付け、岩の影の渦や落ち込みなど、魚がいそうなところを教えてもらいながら振り込んだ。
激しい水音も気にならず、振り込んだ糸に付いている目印を凝視する。
「ほら!」
ふいにいざよいが声を上げた。私はその声につられて竿を立てた。
「あっ!」
竿が大きくしなり、糸は下流に引っ張られていく。魚は流れに乗って竿先を絞り込み、本流に乗ろうと暴れ回る。私はそれに必死で耐えた。
「お客様、竿を少し岸寄りに、そうですそうです!あとはもう少し竿を立てて、流れに乗せては駄目です。流れから斜めに魚を誘導して」
いざよいのアドバイスに従うと、魚は岸に寄ってきた。もう流れに乗る力はないらしい。
「さぁ、この玉網で掬ってください」
私はいざよいに手渡された玉網を魚に近づける。魚も身をくねらせながら避けようとするが、竿を立てて魚を寄せ、そして玉網に収めた。
「はぁ、や、やった!!釣った!!」
「やりましたね!お客様!!」
私もいざよいも満面の笑みだ。こんなに気持ち良く笑うのは、いつぶりだろうか。
「いざよいさん、この魚は、なんていう・・?」
「これはヤマメです。大昔、サクラマスが渓流に閉じ込められた魚なんですよ?」
「ヤマメか、テレビで見たことあります。でも、しかし、なんて美しい」
玉網に収まったヤマメは渓流の清らかな流れに横たわり、木洩れ日を浴びて美しい魚体を更に美しく輝かせていた。
「これは、食べられますか?いや、食べていい大きさですか?」
「はい、25cmはありそうです。お持ち帰りいただけますよ?それとお客様、さきほどこの魚を美しいとおっしゃいました。写真に残したくありませんか?」
「はい!ぜひ!!」
その後、私はいざよいが持ってきていたカメラを借りて、ヤマメの写真を撮った。
古い一眼レフで扱いは難しかったが、やはりいざよいが教えてくれて、何枚撮ったか分からないほどの写真を撮った。たった1匹のヤマメの写真を。そして私は、レンズを美しい渓流と、そしていざよいに向けた。
「いかがですか?釣りと魚、そして風景、写真、ご満足いただけましたでしょうか?」
いざよいは目を細めながら私に聞いてきた。
「はい、なんて面白い、それよりなんて美しい、生きた魚が、川の流れが、木々と太陽と、光と影が作り出す光景が、そしてそこにいる人が、なんて美しいのか。そしてそれを写真に残す行為が、なんと面白くて尊い事なのか」
「ふふ、お客様」
「いや、なんでこれまで気が付かなかったんだろう。なんてもったいない時間を過ごしてきたんだろう。こんな簡単なことなのに」
「お客様」
私はハッとした。夢中になりすぎて、いざよいの声が耳に入らなかった。
「は、はい、ごめんなさい」
「ふふふ、お客様、謝る必要なんて。それよりお客様、もう夕刻ですよ?」
「えっ?!ホントだ!もう夕方になってる!」
「はい、お客様はもうかれこれ6時間か7時間か、お遊びになりました」
「信じられない。時間を忘れて遊ぶなんて、子供の頃以来です」
「ところでお客様、おなかは?」
「あ!お昼食べてない!!おなか、すきました!」
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん、帰ろう!」
私といざよいは、夕方まで遊んだ友達のように、宿へと歩を向けた。
途中、辺りは西の空に傾く太陽に紅く染まり、この世とは思えない景色を作り出した。私はまた、その景色とそこに佇むいざよいの姿をカメラに収めた。
美しい、その言葉しか思い浮かばなかった。
宿に着き、ロビーで釣り具とカメラをいざよいに渡し、今日一日の感謝を伝えた。そして、恐縮するいざよいに夕食の準備をお願いして、私は部屋に戻った。
「あぁ、楽しかった。しかし昼飯も忘れて遊ぶなんて、それにしても、楽しかった」
風呂と食事がいくら良くても退屈、そんな思いはもう微塵もなかった。
-夕食は風呂に入ってからとお願いしてある、それに一品は自分が釣ったヤマメだ。まだ時間はあるが、さっさと大浴場に行って、いざよいさんに取り次いでもらわなきゃ
私は部屋に付くなり着替えを持って、大浴場に急いだ。
昨日は清掃されていたのであろう、今日の大浴場も手入れが行き届き、また違った造形の湯船は違う温泉宿に来たかのように錯覚させる。
-昨日の大浴場は石造りだったが、ここは檜か。それにしても、こんな大きな檜風呂なんて、可能なのか?
私はそんなことを思ったが、目の前にそれがあるのだから信じるしかない。私はゆっくりと湯船に身を沈め、檜の芳香を胸いっぱいに吸い込んで、今日の疲れを癒やした。
-いや、これほど気持ちのいい風呂はないな、疲れも魚釣りの疲れなんだから、もう吹っ飛んでるよ。それより、明日も釣りをしよう。ワクワクするな。
私はこの温泉宿を、心から楽しんでいることに気がついた。
-おっと、明日の前に、まだイベントは残ってるぞ。
私は少し早めに温泉を切り上げ、きれいに身支度してそのままロビーに向かった。
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つづく




