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第2話 渓水の間 ②

誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。

そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。

優しくて、そして哀しい。

温泉宿のお話。


 翌朝、私は気持ち良く目覚めた。昨夜は記憶が曖昧になるほど飲んだはずだが、二日酔いはまったくない。それどころか少し腹が減っている。


「昨夜の飯は美味かった。しかしあんだけ食ったのに、やっぱり腹は減るもんだな」


 温泉に浸かると体全体が暖まってカロリーを消費する、要するにちょっと疲れるので腹が減るのだ。私はそう納得し、朝食を頼むことにした。


 受話器を持ち上げると、なでしこが出た。


「おはようございます。お客様」

「あ、なでしこさんですか、えっと、朝食をお願いしたいんですが」

「かしこまりました。朝食には和食と洋食をお選びいただけますが、いかがなさいますか?」


 私は夕食で魚料理を頼むことを考えて、洋食を選ぶことにした。和食ならやはり塩鮭とかの焼き魚が出てくると思ったからだ。


「じゃ、洋食でお願いします」

「承りました。あ、ところでお客様、わたくし、なでしこではなくて、いざよいと申します」


 いざよいと名乗った女性従業員は「よく同じ声と言われますので、お気になさらず」と笑いながら付け加えた。


「あ、すみません、いざよいさん、ですね」

「はい、では少々お待ちくださいませ」


 私は少し慌てて謝り電話を切ったが、とてもすがすがしい気持ちになっていた。


「気持ちの良い対応、というのはこういうものなんだな」


 私は長らく営業職で、たくさんの顧客と相対していた。月のノルマは厳しいし、常にお得意様のご機嫌を取る毎日。酒も弱い方だったが、接待で飲まざるを得なくて飲めるようになったクチだ。もちろん飛び込み営業も多く、冷たい対応もよく経験した。突然、なんの営業なんだか分からない男がずかずかと入ってくるんだからもっともな話なのだが、それでもすぐに打ち解ける、天性の才能を持った人もいる。


 営業の天才?

 口から先に生まれてきたような?

 好感度の塊?


 私はそれほどのものは持っていなかったから長年すり減ってしまって、少し疲れていたと思う。営業職なんて本当は向いてなかったのかもしれない。ただ、プロの営業マンとしてのプライドだけは持っていた。そのプライドだけが、私を支えていたんだ。


 そんな私にも、先ほどのいざよいの対応はとても気持ち良く感じるものだった。わざとらしくない自然体の心地よさ。きっと、そういうものを持った人、なんだろう。


-俺って結局、何がしたかったのかな。


 目を瞑ると、ふっと東京の景色が浮かんだ。

 見渡す限り広がるビルの群れ。遙か遠くに山を見渡せる。

 顔に当たる風が・・・気持ちいい・・


 急に風が強くなって、景色が流れて・・


 ”コンコン”


 扉がノックされ、私はハッとして目を開けた。


「はい!どうぞ入ってください!」


 朝食を持ってきてくれたのはいざよいだろう。やはりきさらぎ、なでしことよく似た女性だ。


「では、少々お邪魔いたします」


 いざよいはそう言うと、昨夜の二人のようにてきぱきと食事を準備してくれた。朝食なので品数は少なかったが、美しい盛り付けのサラダとエッグベネディクト、保温容器に入っているのはクラムチャウダーだそうだ。エッグベネディクトにもバゲットが使われているが、数種類のパンもバスケットに盛られている。コーヒーは作り置きではない香りを放っていた。


「それではお客様、ごゆっくりお楽しみください。片付けは時間をみて参りますから、そのまま置かれて結構ですので」


 いざよいはそのまま立ち上がろうとしたが、私は少し話しかけてみた。


「あ、いざよいさん、でしたよね。ちょっといいですか?」

「はい、いかがなさいました?」

「あの、昼までの間とか夜までの間とか、このあたりで何かできることってありますか?」


 この宿の周りにはなにもない。土産物屋一軒としてない。だからどうやって暇をつぶせばいいか、聞いておこうと思ったのだ。


「そうですねぇ、お客様にもよるんですが、川に降りて釣りをなさる方や、写真を撮る方もおられますね。でも、部屋でずっと本を読んでおられる方も、温泉にずっと入っている方もおられますよ?のぼせたらと思うと心配なのですが」


 いざよいは微笑みながらそう教えてくれた。


「つまり、何かの施設とかで楽しむんじゃなくて、とにかく自分のやりたいことをしてるんですね」

「そうですね」

「ネットもないんですよね。予約の時はどうしたかなぁ」

「この宿にはありませんが、宿の予約などは別のところで承っておりますので、ネットでされたかもしれませんね」

「なるほど、そういうことですか」

「もちろん電話や、手紙で予約ということも承っておりますが」


 いざよいの話は分かったが、自分がこれから何をして楽しむのか、ちょっと考えつかなかった。


「困ったな、私にはこれといった趣味がなくて、川に降りてみようとは思ってますけど、景色を見るだけになりそうですね」


 いざよいは少し首をかしげながら私を見つめていたが、ふいに何か思いついたように話し出した。


「お客様、宿には釣り具が常備されています。先ほど申しました、カメラも宿に数台置かれているんです。このような田舎の宿ですから、お楽しみいただけるような場所もありませんので、なにか経験してみたいことがあればお手伝いいたしますよ?」

「そうですか、じゃあ朝食をいただきながら考えてみますよ」

「承知しました。では、後ほど」


 なるほど、いくら温泉が良くて食事が美味くても、退屈するのは私だけではないようだ。そう思うと少し安心して朝飯が食える。スープが冷めないうちに食べよう。


 エッグベネディクトのような洒落たものは食べたことがないが、やはりこの宿の食事は美味い。本物の味を知らないのに本物だと思えてしまう味だ。バスケットに盛られたパンも良い香りがする。きっと焼きたてなんだろう。

 ちぎったロールパンを熱々のクラムチャウダーに浸せば幸せの味だ。エッグベネディクトのソース、いざよいはオランデーズソースと言っていたか、に絡めてもいい。半熟の黄身は元々入っていたバゲットにも染みているが、カリカリのクロワッサンにもよく合う。新鮮なサラダをライ麦パンに挟んで好みのサンドイッチにするのも面白い。私はあっという間に数個のパンを平らげて、いい香りのコーヒーを楽しんだ。


「あぁ、パンってこんなにも美味いものだったのか」


 朝食を食べている間にやることを考える?そんなことを考える暇がないほど、私は食べることに夢中だった。


-豪華な料理は接待でいくらでも食ったが、味なんて覚えてない。でも、ここで食べた料理は違う。昨日の夜も、今も、きっとこの味はずっと覚えてる。そう思える味だ。そうか、こんなに美味いものを作るっていうのは、面白いんじゃないか?それに、もし自分が釣り上げた魚を美味く料理できるなら、もっともっと面白いんじゃ・・


「決めた!」


 私は受話器を取って、いざよいに繋いでもらった。


「お決まりになりましたか?」

「はい、いざよいさん。釣りを教えて欲しいんです。それと、出来ればなんですけど、自分が釣った魚を料理できれば面白いんじゃないかって」

「それはいいですね!では、カメラもいかがですか?」

 それは唐突な提案だった。

「カメラ、ですか?」


 私にカメラの趣味はない。スマホのカメラではよく写真を撮るけど、それだけだ。スマホの中には二度と見ない写真が山のようにある。


「はい、カメラです。この宿のそばを流れる渓流は、それは美しい景色なんです。それに、自分が釣った魚がどれほど美しいか、おそらくご経験なさったことはないでしょう。おまけに料理をされたいのですよね。美しく盛り付けられた料理は人の目を奪います。それらを美しい写真に残すのは、とても難しくて、面白いんですよ?」

 いざよいはやはり優秀な営業マンのようだ。私はすっかりその気にさせられていた。

「分かりました。ではまず魚釣りから、ですか?」

「そうですね、準備いたしますので、しばらくの間ロビーでお待ちくださいませ」


 受話器を置くと、自然と笑みがこぼれていた。


「この歳になって魚釣りか、初めてのことにワクワクするなんて、まるで子供の頃に戻ったようだ」


 私はいそいそと普段着に着替え、はやる心を抑えて部屋を出た。



つづく


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