最終話 きさらぎの宿
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
「さやはるさん、どうでしたか?お客様の最後のお顔、さやはるさんには、どう見えましたか?」
わたしはまだ泣いていて、ことのはの問いには応えられなかった。
「哀しそうですね。でも、さやはるさんは、どうして哀しいのですか?」
「それは!・・・だって、知ってる人だし・・」
「知っている人がいなくなるから哀しい。そうですか?」
17歳で死んだわたしは、人との別れに慣れてはいない。ことのはの問いは、そんなわたしには難しいと感じた。それにわたしは・・
「女将さん、わたしは罪人です。あのお客様も、わたしが騙したお爺ちゃんたちの一人なんです。だから、そんなわたしの・・ずっと凍り付いていたわたしの心に、哀しいっていう感情が生まれるなんて」
「でも、哀しかったのでしょう?」
そうだった。爺ちゃんのお金を取り戻したあの時も、そして今、爺ちゃんを見送った瞬間も、わたしの心は凍っていなかった。
わたしの心は、哀しんでいた。
「それにね、わたしはお客様のことを全て知っている。あなたは確かに罪を犯しました。でも、覚えていますか?あなたが騙したと思っている老人たちは誰ひとり、あなたを責めなかったでしょ?」
そうだ、あの爺ちゃんだけじゃない、わたしが騙した老人たちは全員が・・
「みんな、爺ちゃんたちみんなが・・わたしを助けようとしてくれたんだ!!」
「あ・・あぁああああ・・あああぁぁぁーーぁああっああーーーっ!!!」
激しく肩を震わせるわたしを、女将は、ことのははしっかりと抱き締めてくれた。
「気付きましたか?」
「ずいぶんと成長しましたね、さやはる」
泣き続けるわたしの耳に、ことのはの小さな声が微かに届いた。
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この温泉は、現世で死んだ人が訪れる。
そこで彼らは温泉に浸かる。そして食べる。
それは極上の湯、極上の食材、極上の美味。
だがそれを上回る、極上の持てなし。
女将、厨房、仲居、すべてのサービスが極上。
彼らは、二つの選択をする。
ここで若返るのならば、それは、自分がもう一度生きる意味を、見つけた証。
ここで老いるのならば、それは、自分がもう、十分に生きたと知った証。
でも、選択肢はもうひとつあるのだ。
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17歳のちはるは、早春としてこの宿を訪れた。早春は歳を重ねて二十歳ほどになった。そして彼女は、さやはるとして歳を重ねた。
彼女の心は更に成熟し、大人の女性となった。
そして彼女は、その容姿を変えた。
この温泉で成長する者、その者の容姿は、この温泉で浄化された心の美しさを映すのだ。
ことのは、と、さやはる、ふたりの容姿は、双子と見まごうほどになっていた。
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わたしがここに来て、もう何年経ったかな。
わたしの前に、ことのはと、うみかぜがいる。
うみかぜが口を開いた。
「さやはる、いや、早春の間のお客様、あなたはまだ選択出来る。生まれ変わりを望むのなら、これからあなたは若返ることができます。どうしますか?早春の間のお客様、あなたはもう一度、現世に生まれ変わりますか?」
「いいえ、おとうさん。いえ、うみかぜ、わたしはここに残ります」
ことのはが口を開く。
「そうですか、さやはる、どうしてそう願うのですか?現世の父親がここにいるからですか?」
「違います。それは、わたしが出来ること、それをここで知ったから。ここでお客様を見守ることが、わたしの仕事だと知ったから」
ことのはとうみかぜは顔を見合わせ、そして頷いた。
「分かりました。私は今、うみかぜと共に決めました。あなたをここに残します。では改めて、さやはるという名をあなたに与えましょう」
わたしは首を振った。
ーちがう、ちがうの。ちはる、早春、さやはる、どれもちがう。
「現世でお父さんは、ずっとわたしを温かく包んでくれた、そのお父さんを失って、わたしの心は凍えたと思った。でもお爺ちゃんたちが、そしてここに来てお父さんが、わたしを温めてくれた。ううん、この宿の全てが・・温泉、美味しいご飯、そして、女将さん」
「わたしは、ここでたくさんの暖かい着物を着せていただきました」
「何枚も、何枚も、着せていただいたんです・・わたしの、心に」
「だからわたしは、私の名前は」
「衣更着・・きさらぎ・・と、名乗りたいのです」
そう言うわたしに、ことのはとうみかぜは優しく笑いかけてくれた。
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とある日、宿の玄関先に、和箒で入り口を清めるきさらぎの姿があった。
ことのはからこの宿を継いで、一日も欠かさない日課。
きさらぎは不意に空を見上げ、ふぅっと息をつき、目を瞑る。
すぐに開いたきさらぎの眼、その視線が宙を泳ぐように動いた。
「走馬灯が、珍しいわ、ほとんど同じ走馬灯がふたつ、ふたり分なのね」
「老老介護の兄と妹・・兄が妹を介護して、何年も何年も・・辛いわね」
「老いていく、もう妹は歩けない。兄が車椅子を押して、ふたりだけの日々、ふたりだけど、孤独」
「海が見える、遥か遠くに山が連なって、崖?」
「あぁ・・兄が妹を・・ああ・・」
きさらぎは目をぎゅっと瞑った。だがすぐに目を開き、宿の奥に向き直る。
「ご予約が入りました。みなさん、お二人様をお迎えいたします。ご準備を」
「かしこまりました。女将」
宿の奥から、従業員が応える。
返事に頷いて、きさらぎはくるりと向き直る。
そして誰もいないと見える空間に、丁寧にお辞儀して、言った。
「お待ちしておりました、ご予約のお客様、さあ、おふたりとも、どうぞお上がりくださいませ」
そこには、いつの間にか現れた少年と少女が手を繋いで立っている。
優しく微笑むきさらぎの声に、ふたりは顔を見合わせ、そして笑った。
「ようこそ、きさらぎの宿へ」
あなたにも聞こえましたか?
温泉宿の、女将の声が。
了




