第12話 早春の間 ⑥
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
わたしは小学生の頃、父を亡くしていた
父は家にいるとき、いつもわたしのごはんを作ってくれた。
朝は目玉焼きとカリカリのベーコン、醤油にマヨネーズ。
真っ白なご飯が汚れるけど、ぜんぜん構わないの。
オムライスだってナポリタンだって、わたしの好きなものは全部知ってて、全部作ってくれる。
よく川に行って、石を投げて遊んだ。
父が投げる小石は水を切って、遠くまで波紋を伝えるけど、わたしのは全然だめ。
でも一生懸命投げるうちに、何回かは跳ねるようになった。
「上手い上手い!すぐに父さん、ちはるに負けちゃうなぁ!」
目を細めて、口を大きく開けて、大声で笑う父の顔。
父は、警察官だった。
優しくて強い、わたしのヒーロー。
でもある日、父は帰ってこなかった。
事件に巻き込まれて、殉職したと聞いた。
わたしは父を奪ったヤツらを恨んだ。恨んで恨んで、わたしの心は荒れた。
寒い。
冷たい。
凍える。
心も身体と同じなんだ。
わたしの心は、凍りついた。
そしてわたしは、あれほど憎んでいたはずの犯罪者に、なった。
「あぁああ、おとう・さ・・お・とう・さん」
「ごめん・・なさい、ごめん・・な・・ごめん・・なさ・・」
涙は出ない、声も出ない、息が苦しい、喉を振り絞るけど声にならない。
ただ、思いが胸を締め付ける。
ただ、こんな自分が父の娘であることが、罪だと思えた。
そんなわたしを、父は優しく抱き締めてくれた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
顔を上げると、父は笑っている。
優しく、うみかぜの顔で。
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この温泉宿に、生きている人はひとりとしていない。でも、この世とあの世の狭間でもない。
ここは、現世と来世の狭間。
現世で死んだ人間は、みながこの温泉を訪れる。
ここで過ごす間に、人間は本来の自分を見つめ直し、そして二つの選択をするのだという。
ひとつは、本来の自分を取り戻し、来世に生まれ変わる道。
もうひとつは、現世に未練なく、生き尽くした人が選ぶ道。
それは、消滅。
「さやはるさん、長瀞の間のお客様のことで、お話があるの」
「はい、どのようなお話でしょうか」
女将の話は、これからの話だった。爺ちゃんと、そしてわたしの。
「長瀞の間のお客様は、この宿で十分な時を過ごしました。来世に生まれ変わるお客様は若返っていくのですが、長瀞の間のお客様はそうではありません。気付いていましたね?」
「はい、お客様は、日々食事の量も減って、日々散歩も難しくなっていました。それにお背中を流すとき、背中の肉が落ちて」
「そのとおりです。長瀞の間のお客様は、今日明日にも、お消えになるでしょう」
「・・・」
「そのとき、お客様の傍でお見送りする覚悟は、ありますか?」
「でも」
「でも?」
「父から、いえ、うみかぜからお聞きでしょう。わたしは罪人です。そんなわたしにその資格は・・」
「さやはるさん」
「はい」
「私は、その覚悟はあるか、とだけ聞いているのですよ?」
女将の、ことのはの凜とした表情に、わたしは頷くしかなかった。
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長瀞の間で、爺ちゃんはわたしの手を握っている。
「さやはるちゃん」
爺ちゃんは目を瞑りながら、小さい声で私を呼んだ。
「はい、さやはるですよ」
「おお、儂はまた夢を見ていたよ。またあの子の、ちはるちゃんの夢じゃった」
「そうですか、今度はどんな夢でしたか?」
「うむ、儂からもらったカネでな、ちはるちゃんが幸せになっている夢じゃよ」
「そうですね、そうだといいですね。いえ、きっと幸せになっていますよ」
「ああ、そうだといいのぉ。いや、きっとそうだのう」
「・・」
「はぁ、もう思い残すことはないな。いや、前にもそう思ったの」
爺ちゃんの手から、力が抜けていく。
瞼を開けようとするが、ぴくぴくと痙攣するだけで、開きはしない。
少しずつ、爺ちゃんの体が透けていくようだ。
その時は、近い。
「ああ、儂にも妻や子がいた。孫だっている。だけどなぁ、妻が死んでから、誰も儂の側に来んかった。そうじゃ、儂は悪いことをたくさんしてきたからの。子供らも愛想を尽かしたんじゃろ。それと引き換えに財は成したがの、結局、儂には未練と後悔しか残らんかった」
「じゃがあの子と、ちはるちゃんと出会ってからの毎日。あの日々が、儂を救ったんじゃ」
「あのカネ、ちはるちゃんが貰ってくれて、良かったわ」
あの時、わたしはあいつらからそのお金を奪った。あのお金を爺ちゃんに返そうと思ったからだ。
それで死んでしまったけど、今はそうして良かったと思える。
「そう言えば、さやはるちゃんは自分の事を、”ちはる”、だと言っとったの?」
「・・・はい、いえ、信じていただかなくていいですよ?」
「もしそうなら、そうならじゃ・・あんたは儂を、2回も救ってくれたことになるのぉ」
「・・・」
「本当にありがとう、さやはるちゃんで、ちはるちゃんの人よ・・」
それっきり、爺ちゃんは喋らなかった。
わたしは爺ちゃんの手を握りしめた。
爺ちゃんの手は、わたしの手の中で、静かに消えていった。
最後の爺ちゃんの顔、笑ってたな。
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つづく




