第11話 早春の間 ⑤
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
長瀞の間を後にしたわたしはうみかぜに頼んで、ごく軽い食事を準備してもらった。
老人の食事はいつもわたしが作るのだけれど、今日はどうしても作れなかった。
わたしは長瀞の間に戻り、朝食を準備した。
老人は、ほんの少しの白飯と味噌汁を口にしただけで、また深い眠りについてしまった。
わたしはふらふらと立ち上がり、調理場へ戻った。
それからどこをどう歩いたのか、わたしは渓流の岸辺を歩いていた。
いつか、うみかぜとカゲロウを見た岸辺。
水が流れるまま、わたしは歩く。どこまでも歩く。
早瀬があり、瀞場があり、木々が鬱蒼として薄暗く、そして木漏れ日が燦々と降り注ぐ。
気が付くと、わたしはまた同じ岸辺に立っていた。
また歩き出す、また戻る。また歩き出す、また戻る。
繰り返し、繰り返し、同じ道を歩く。
俯きながら歩いていると涙が溢れてきて、落ちた滴が石に跡を作った。
”トンっ”
わたしは何かに突き当たって足を止めた。
顔を上げるとそこに、うみかぜの顔があった。
「うみかぜ、どうしてここに?」
「探したからに決まってるだろ?ばかだな」
「ばかって、ひど・・うっ、うっ、うううっ」
強がろうとしたけど、嗚咽が込み上げて来ただけだ。
うみかぜの胸に顔を埋め、わたしは全てを告白した。
わたしは罪を犯した。
わたしが持っているお金は、爺ちゃんから貰ったんじゃない。
あれは、わたしが爺ちゃんから騙し取ったもの。
たくさんの爺ちゃんたちを、わたしは騙した。
偶然の振りをして一人暮らしの老人に近づいて、話し相手になってあげて、仲良くなって、頃合いをみて悪い連中を連れて行って、お金がないと、コイツらに酷い目に遭わされるって泣いて頼んだら、爺ちゃんたちはみんな、みんなお金を出してくれた。
「・・・ちゃんを助けてくれ、これはお前らにやるから、どうか、・・・ちゃんを助けて」
みんなそう言った。
でも、最後に騙した爺ちゃんは違った。
「・・・ちゃんが儂を騙してるのは分かってたんじゃよ。じゃが、とても楽しかったよ、ありがとう。だからこれ、このお金を、・・・ちゃんにあげるよ」
わたしはそのお金を、あいつらから奪って逃げた。
でも捕まって・・
あいつらに殺されたんだ。
「わぁああーん!わぁぁあああーーん!!」
うみかぜの前で、わたしは両手で顔を覆って泣いた。
膝を折って泣きじゃくるわたしの背中を、うみかぜがさすってくれた。
少しだけわたしが落ち着くと、うみかぜは川辺に座って、隣の岩をポンポンッと叩いた。
川辺には飛沫を含んだ風が吹き渡り、わたしの髪を揺らす。
岩に当たり、複雑な流れを作る渓流をふたりで眺めていると、ふわふわと頼りなく飛ぶカゲロウが水面に近づいた。
”ぴしゃん”
水面に触れるか触れないか、その瞬間、カゲロウはヤマメに食われた。だが、次から次へと水面に近づくカゲロウは、あるものは食われ、そしてあるものは水面に触れ、そして落ち、流れた。
「カゲロウって、生きてる意味、あるのかな」
そう呟くわたしの頭に、うみかぜはポンッと手を乗せた。
「ある、あるに決まってるよ」
「でも、わたし、あいつらに殺されたんだよ?もう、死んでるんだよ?」
「・・・」
「うみかぜも・・もう死んでるの?」
「ああ、死んでる」
「じゃあ、うみかぜも生きてたときのこと、忘れてるの?」
「ああ、忘れてた。始めの頃はね。ここに来る人たちはみんな忘れてるんだ。そしてね、ここで思い出すんだよ?」
「生きてたときのこと?」
「いいや、意味だよ。これからもう一度生きるための意味。だけどね、希に生きていた時のことをはっきりと思い出す者もいる」
「うみかぜも、そうなの?」
「そうだよ?わたしはね、生きていた時のことを思い出した。思い出して、今もここにいるんだ」
「・・・」
「わたしはね、警察官だったんだ。生きていたとき、ね」
うみかぜは聞かせてくれた。
生きていた、自分のことを。
私はね、警察官という仕事を誇りにしていた。制服の私が道を歩くだけで、街の人たちに安心を与えることが出来るんだよ。
私が住む街を、私の手で守ることが出来るんだ。
人が働くのは遊ぶため?美味いものを喰うため?楽しい人生を送るため?
いいや、違う。
人が働くのは、人のためなんだ。そして得たお金で、自分の生活を作っていく。
人は、そういう生き物なんだよ。
だから働くなら、自分が好きな仕事を、誇りに思える仕事を選ばなきゃ。
だから警察官という仕事を選んで、私は幸せだった。
そう思っていた。
あの日まで。
あの日、巡回中の私は、老人が公園に引きずり込まれるところに出くわした。
若者が3人、見るからに悪い輩だった。
追い掛けると、3人は老人を囲んで暴行を働いていた。
私は思わず掴みかかって、3人を老人から引き剥がした。
老人は顔中血だらけで、私は老人の傷を見ようと屈んだんだ。
それがまずかった。
3人は背後から襲いかかってきて、ナイフで私を刺した。
何回も、何回も、何回も刺されたよ。
でも私は老人を庇って、反撃できなかった。
私はそこで、死んだんだ。
そのとき、私の心は無念でいっぱいだったよ。
私には、妻と娘がいた。
小学生の娘。
私は妻と娘を残して、いや、娘を残して死んでしまうのか。
そのとき分かった。
私が生まれたのは、勉強してきたのは、警察官になったのは、そして生きてきたのは、娘のためだった、娘とこの世で、出会うためだったんだ、って。
そこまで語ると、うみかぜは「ふぅ」と息をついた。
「カゲロウにはね、仕事なんかない。ただ、自分を未来に繋ぐために、生きるんだ」
語る間、うみかぜはずっとわたしの頭を優しく撫でてくれていた。
暖かくて大きな手、間違いなく知っている、優しい手の感触。
「そう思わないか?・・・ちはる」
わたしはうみかぜの顔を見上げた。
「ちはる?・・え?おとう、さん?」
わたしの眼に映るその顔は、うみかぜの顔ではなかった。
それは紛れもない、父の顔だった。
・
・
つづく




