第10話 早春の間 ④
誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。
そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。
優しくて、そして哀しい。
温泉宿のお話。
「早春さん、お客様がいらっしゃいました。私と一緒にお出迎えしてちょうだい」
「は~い、女将さん、今行きます」
宿の玄関で老人がひとり、ぽかんと空を見上げている。
この建物は大きい。きっと屋根を見上げてるんだろう。
わたしはその老人の顔に、見覚えがあった。
「あ・・・爺ちゃん」
老人は、わたしに大金をくれた爺ちゃんだった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました、ご予約のお客様。さ、どうぞ中へ」
女将が爺ちゃんを部屋まで案内する間、わたしは爺ちゃんのカバンを持って後ろを歩いた。
お辞儀をして挨拶をしたが、爺ちゃんはわたしのことを忘れてしまったようだ。ただ、にこにこと笑いながら「よろしくねぇ、お嬢ちゃん」と言う爺ちゃんは、あの頃のままに見えた。
爺ちゃんを部屋に案内してロビーに戻るとすぐ、わたしは女将に頭を下げた。
「長瀞の間のお客様、わたしにお世話させていただけませんか?いえ、お世話させてください!」
女将は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いた声で言った。
「早春さん、あなたはお客様です。お手伝いはありがたいのですが、お客様をお任せするわけにはいきません」
「はい!重々承知しております!でも今回だけ、あのお客様、あのお客様だけ」
女将は思い詰めたわたしの表情を見つめながら、しばし考えていた。
「早春さん、いいですか?この宿でお客様をお世話するということは、もう後戻りしない覚悟を必要とするのです。これからなにがあっても、なにを聞いても後戻りしない、後悔しないと覚悟をするなら、あのお客様を任せましょう」
わたしは両手の平を顔の前で合わせた。自然と瞳が潤むのを感じる。
「では、今からあなたは、さやはる、と名乗ってください。よろしいですね?さやはる」
「はい!承知しました。わたしの名前は、さやはるです」
この日からわたしは、さやはるとして長瀞の間のお客様のお世話をすることになった。
あの時、わたしにお金をくれた爺ちゃんのお世話を。
・
・
「失礼いたします、お客様、朝ご飯はお気に召しましたでしょうか?」
「おぉおぉ、さやはるちゃん、今朝も美味しかった。メシも玉子も汁も美味かったが、あれはなんだな、魚の干物、あれは、シイラじゃないかい?」
「はい、シイラの干物です。シイラはとても固くなるのですが、調理場の者と相談いたしまして、柔らかく召し上がっていただけるように調理いたしました」
「そうじゃな、シイラの干物は塩辛くて固い。儂が子供の頃はあれが嫌いでなぁ。だがこの歳になると、懐かしいもんだの」
わたしは目を細めて昔を懐かしむ老人を見て、ふと、老人の趣味を思い出した。
「そうだ、お客様、写真をお撮りになりませんか?」
「ふん?さやはるちゃんは儂の趣味がカメラだって知ってるのかい?」
「いえ、ただなんとなくですが、宿の側の渓流はとても景色が良いんです。お風呂の後に行きませんか?わたしがご案内しますので」
「ほぉ、さやはるちゃんも一緒に?それはそれは嬉しいのぉ」
「ではでは!急いで片付けますので、あ、お風呂ではいつものように、お背中を流しましょうね」
「あっはっは、まったく、孫娘でもこんなには、してくれんかったがのぉ」
全く上機嫌の老人を見ながら、わたしも幸せを感じていた。
日々は過ぎる。
わたしは老人の食事を考え、うみかぜに習いながら作った。部屋では美しく盛り付けられた料理を整え、一緒に食事をした。温泉では背中を流し、体調を気遣い、そして川辺を散歩した。
毎日、毎日。
老人は、日々老いていくように見えた。
そんなある日。
「お客様、朝になりました。朝食をお伺いしますので、お邪魔してよろしいですか?」
わたしは更に扉をノックしたが、老人からの返事は無かった。
「お客様!どうなさいました?!」
慌てて部屋に入ったが、老人は布団をかぶったまま眠り続けていた。
わたしは女将に事の次第を報告し、そのまま部屋で老人の様子をみることにした。
-ただ寝てるだけだよね。でも爺ちゃん、ずいぶん痩せちゃったな。
そんな思いからか、わたしは老人の額に手を当てた。すると老人は急に目を開き、ふぅ~っと大きなため息をついた。
「あ・・ああ、さやはるちゃんか、儂は、そうか、目が覚めんかったのか」
「お客様、ご気分はいかがです?誰か人を呼びましょうか?」
「いや、大丈夫。ずいぶん長い夢を見ていただけじゃ。そう、長い夢」
「夢、ですか」
「ああ、さやはるちゃんのような女の子がの?儂の世話を焼いてくれるんじゃ。街で出会った女の子じゃが、ちょいちょい家に来ての?煮物だの焼き魚だの買って来てくれて、一緒にメシを食うんじゃ。話し相手にもなってくれてなぁ・・・楽しかったのぉ」
-それ、わたしだ。
老人の夢の話を聞いて、わたしの体は強ばった。
-あれ?爺ちゃんはわたしにお金をくれたよね・・・あれ?
「じゃがの、あの子がの、男どもと一緒に来ての、儂の前で泣くんじゃ。爺ちゃん、お金がないと、この人たちに酷いことされる、って」
わたしは握りしめた手のひらにびっしょりと汗をかいていた。
-男たち?あれは、あいつら?悪い、ヤツら。
「儂は知っとった。あの子は最初から儂を騙していたんじゃ。金を巻き上げるためにな」
わたしは目をギュッとつぶった。まぶたの裏に、男たちの顔と老人の顔が浮かぶ。
「でもな、儂は本当に嬉しかったんじゃよ。だからあのとき、儂はあの子に言うたよ」
「・・・ちゃんが儂を騙してるのは分かっていたが、これまでとても楽しかったよ、ありがとう。だからこれ、お金、・・・ちゃんにあげるよ」
わたしの目から、涙が流れ落ちた。
「お客様!それは・・・わたしです!お客様を騙していたのは、わたしなんです!!」
老人は目を丸くしてわたしの顔を見つめていたが、すぐに声を上げて笑い出した。
「あっはっは、そんなわけはなかろうよ。さやはるちゃんとあの子は全然似とらんよ?」
「それは!わたしは今黒髪だし、メイクもしていないから・・」
「いいや、違う。儂があの子の顔を忘れるわけはない。あの子の目はまん丸でパッチリ、唇も厚くて少しぽっちゃりさんじゃった」
老人はそう言いながら、わたしの顔を更にまじまじと見つめた。
「うん、さやはるちゃんの目は切れ長だし、瓜実顔というのか、そうじゃ、さやはるちゃんは女将さん、ことのはさんによう似とる。まるで姉妹のようじゃ」
「え?女将さんとわたしが、似てる?」
「ああ、本当に似ておる」
それからしばらく話を続けたけど、結局、老人はわたしの言うことを信じてはくれなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ・・」
喋りすぎたのか、老人の息が上がっている。
「お客様、わたしはとても長居をしてしまいました。これから食べやすいものを調理して参ります。それまでゆっくりとお休みくださいね」
「いや、さやはるちゃん、ちょっとお待ちなさい」
部屋を出ようとしたわたしだったが、老人に引き留められた。
「さやはるちゃん、儂はもう長くない。自分の身体のことじゃ、儂が一番良く分かる。それにな、こんな感じは二度目なのかもしれん。それでな」
老人は部屋の隅に置いてあるカバンを指差し、枕元に持ってくるように言った。わたしがカバンを置くと老人は体を起こし、ダイヤル錠を回してカバンを開けた。
「さやはるちゃん、これまでありがとう。楽しかったよ。だからこれをな、さやはるちゃんにあげるよ」
カバンの中には、いくらあるかも分からない札束が詰まっていた。
「そうじゃ、あの子にもこれくらいあげたんじゃよ。あの子・・・ちはるちゃんにも」
-ちはる・・そうだ、それがわたしの本当の名前、早い春と書いて、ちはる。
名前と共に、わたしは全てを思い出した。わたしが子供の頃のこと、爺ちゃんたちに何をしていたのか、そしてわたしが・・
殺された時のことも。
・
・
つづく




