表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

第1話 渓水の間 ①

誰もが一生に一度は行きたい温泉宿。

そこには優しく客を出迎える女将と従業員たちがいる。

優しくて、そして哀しい。

温泉宿のお話。

 私がたどり着いたのは、山深い峡谷にぽつんと建っている温泉宿だった。


 宿の周りには他の宿はおろか土産物屋もなかった。自動販売機すら見当たらなかったから、宿に入ればもう外に出ることもないだろう。せいぜい傍を流れる川に降りてみるくらいか。


-東京からずいぶんと時間が掛かったが、それにしてもこんな辺鄙な所だとは。しかもこんな山奥にたった1軒だなんて、ひなびてるにも程があるな。


 そうは言っても、もう来てしまったのだから仕方ない。それにここは予約も難しい人気の宿だ、とにかく楽しむことが第一。


 私は私自身にそう言い聞かせ、宿の門をくぐった。


-そうだよ、思い切り楽しまなきゃ。


 宿の建物自体は古民家の風情たっぷりといったところだが、そういう宿は全国にあるから別に珍しいものでもない。

 しかし古民家の風情ながらこの建物は大きい。玄関の正面に立ってみても、屋根がどれほど高いのか分からない。てっぺんが見えないのだ。


 建物の大きさに圧倒されて玄関に突っ立っている私に気づいたのだろう、奥から和服の女性が出てきた。


「遠いところ、ようこそいらっしゃいました」

 丁寧にお辞儀をして、その女性は続けた。

「本日よりご予約のお客様、わたくし、この宿の女将、きさらぎと申します」

「あ、女将さんですか、お世話になります。えっと東京の、えっと」

「はい、承知しております。さ、お上がりになってくださいませ」


 女将のきさらぎ、若い。二十歳前後だろうか、予想外のことに少し慌ててしまった。

 ほかの従業員は見当たらないが、女将は再び丁寧にお辞儀をして、私を招き入れてくれた。


 宿の廊下は薄暗くて長く、奥の突き当たりで左右に分かれているようだ。部屋は廊下の両側に並んでいるから、やはりとてつもなく大きな建物であることに間違いはない。


 部屋にはそれぞれ名前が付いていた。和風の名前、英語の名前の部屋もある。


「女将さん、私が予約した部屋は、和室でしたよね」

「はい、そう承っております」

「洋室っていうのもあるんですか?」

「ええ、ございますよ?もちろんこのような温泉の宿ですから、洋風のインテリアにしてある和室、という感じですが」

「なるほど、温泉は外国でも人気だし、外国人のお客さんにも喜ばれますね」

「えぇ、でも外国の方は逆に和室がお好みなんです。洋風を好まれるのは日本の方が多いですね」

「はぁ、そういうもんですか」

「さぁ、このお部屋でございます」


 女将と話しているうちに部屋に付いたようだ。


「あぁ、ありがとうございます。えっと、部屋の名前は」

「渓水の間でございます」

「ケイスイ、ですか」


 部屋に入ると畳間が二間、窓は大きく、開け放すとサラサラと流れる水音が聞こえてきた。なるほど、この部屋は宿の外で見た川が、すぐ目の前を流れているのだ。


「気持ちのいい水音だ、空気も爽やかに感じますね」

「左様ですか、それは私どもも喜ばしいことです。今の季節は渓流の新緑がお楽しみいただけますよ?」

 女将はにっこりと笑いながら部屋の説明をしてくれた。


「お風呂はお部屋にはございません。皆様大浴場をお使いいただいております。大浴場は五つございまして、順番に掃除をいたしておりますので、大浴場の方へお越しいただいて、使える浴場をお好きにお使いください。24時間お使いいただけます。それとお食事ですが、朝食、昼食、夕食はご準備の時間を毎度お伺いしますので、何なりとお申し付けください」

「え、三食全部ですか?それはかなり手間なのでは、そちらで準備された時間に合わせますよ」


 恐縮して言う私に女将は「いえいえ、ご遠慮は不要でございます。食べたいときにおっしゃってください。食べたくなければそれもお伺いしますので。お夜食でもいいんですよ?」と言う。


 さすがに人気の温泉宿だ。サービスが行き届いている。しかしこの女将の貫禄、とても二十歳前後とは思えない。


「ありがとうございます。それではお世話になります」

「はい、どうぞごゆっくりなさってください」


 そう言って女将は部屋を出て行った。


 ひとりになった私はいっとき畳間に寝転がって、ぼんやりと天井を見上げた。


「さて、これからどうするか」


 早速大浴場に行ってみるのもいいだろうし、川に降りて渓流の風情を楽しむのもいい。とにかく時間はあるんだ、このまま少し昼寝と決め込むのもいいかな。


 そこまで考えて、私はブンブンと頭を振った。


「いやいやいや、せっかく予約の取れない温泉宿に来たんだろ?」


 いくつかの選択肢があったが、そもそもの目的を考えれば風呂一択だ。


「よし!行くか!!」


 私は無駄な気合いを込めて起き上がり、大浴場に向かった。


 大浴場棟は本館の隣に建っていたが、もしかしたら裏手なのかもしれない。宿に着いたときにも思ったが、このひなびた温泉宿は信じられないくらい大きいのだ。


 ここまで来る間に数名の宿泊客と擦れ違ったが、みんな軽く会釈してくれて気持ちが良い。ただ、一人旅の客ばかりのようで、夫婦連れ立って、という感じの客や団体客には会わなかった。


「まぁ、若いカップルには合わないかな、熟年夫婦にはうってつけって感じだけどな」


 女将の言ったとおり、五つある大浴場のうち三つは清掃中だ。後の二つが男湯、女湯に分けられている。どうやら男湯専用、女湯専用ということではなくて、清掃の後に入れ替えるようだ。

 常に清潔な湯を提供する。これは簡単そうだが、これくらいの設備がないと難しいだろう。清掃中が三つもあるのは、きっと清掃の段階があるんだな。私は勝手に想像し、男湯の暖簾をくぐった。


 脱衣所から浴場への引き戸を開けると、さすがに大浴場という風情で、広々とした石造りの湯船に数カ所から温泉が流れ込んでいる。外に出る扉もあるから、露天風呂も楽しめそうだ。


 先客は3名、一人は外国人かな。


 私は早速下湯を使い、先客たちと十分に間を置いて湯に身体を沈めた。


「ふぅ~」


 温泉に浸った瞬間のリアクションは皆一緒だ。体の疲れがお湯に溶け出すようなこの感覚。日本人独特の感覚だと思うが、外国人のお客さんも多く来るわけだから、日本人だけのものでもないのかも。


 目をつむって顎を上げ、腕を広げ、足を投げ出して天井を見上げるような格好、至福のときだ。


 いっとき名湯の心地よさを味わって、先客たちに目を向けてみると、いつの間にか一人増えて、私を含め五人になっていた。私も先客さんになったわけだ。


「一体何人の宿泊客がいるのかな?廊下で会った客もそれほど多くなかったけど」


 私は取り留めもなく考えながら、十分に体を温めた。


「さ、少し外の空気にもあたるか」


 そう思い湯船を出た私は、扉を開けて外に出てみた。

 想像通り、そこは広々とした露天風呂になっていた。東屋造りの屋根も大きい、これほど大きな東屋は見たことがない。

 岩が配置された湯船には、孟宗竹のように見える管から温泉が注がれている。緑も多く、苔むした雰囲気はまるで庭園だ。


「すごい、こんな露天風呂は見たことないな。さすが予約の取れない温泉宿だ」


 私は身も心も洗われるような時を過ごし、部屋に戻った。十分に暖まったのか頭もふわふわとして、どうやって部屋まで戻ってきたのか曖昧なほどだ。


「さて、温泉に入ると腹が減る、夕食をお願いするか」


 私がここに着いたのは昼をかなり過ぎた頃だったから、これが宿での最初の食事になる。少し緊張しながら部屋の電話の受話器を持ち上げると、すぐにフロントに繋がった。


「はい、渓水の間のお客様ですね。いかがなさいましたか?」


 男性の声だ。女将以外の従業員を見ていないから、少し意外な気がした。


「あ、はい、夕食の準備をお願いしたいのですが」

「承りました。では、お部屋にお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」

「あの、少しお酒も欲しいのですが・・ありますか?」

「はい、ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ウィスキーとございます。いかがなさいますか?」

「そうですね、じゃ、ビールとウィスキーにします」

「承知いたしました。それぞれ準備してお持ちいたしますので」

「はい、お願いします」


 私はそれほど飲む方ではないが、これほど準備がいいとどんな酒が出て来るのか気になる。飲むのも仕事のうち、なんていう仕事柄というヤツか。それより、食事の内容や種類を聞くのを忘れてしまった。しかし、何も聞かれなかったと言うことは、選べないのだろうか。


 ほどなくして、部屋の扉がノックされた。


「はい、どうぞ」

「お待たせいたしました。では、お食事を整えさせていただきますので、少々お邪魔いたします」


 食事を持ってきてくれた従業員は二人。男性の方はさっきの電話の人だろう。もうひとりは女将と同じくらいの年齢に見える女性、というか、女将によく似ている。


 二人は手際よく料理を卓上に並べていった。肉料理が中心のようだ、それも牛肉、豚肉、鶏肉がそれぞれ数種類の料理法でしつらえてある。

 そう言えば私は魚が苦手だが、そんなことは伝えていない。肉料理が多いのは、ここが山間の温泉宿だからだろうか。


「あの」


 私は女性従業員に声を掛けてみた。


「魚が苦手っていうこと、私、お伝えしていましたか?」

 女性従業員は振り返るとにっこりと笑いながら応える。

「ええ、承知しております。この宿をご予約なさるときに、いろいろとお伺いしていますよ?」

「そ、そうですか」

 そうだった、私は何年も待って、ようやく来ることができたんだ。そんなことも忘れていたか。

 私は納得して、先ほど気になったことを聞いてみた。

「えっと、お嬢さんは女将さんによく似てらっしゃる。ごきょうだいとか、ですか?」


 その問いにも女性従業員は笑顔で答えようとしたが、男性従業員が笑いながら話し出した。


「お客様、このような田舎の宿でございます。女将もこのなでしこも、私もみな同族なんですよ」


 なでしこと呼ばれた女性従業員が続けた。


「そうなんです。女将のきさらぎは私の従姉妹にあたります。こちらはやまみこと申しまして、私の兄でございます」

「そうなんですか、なにか、失礼なことを聞いてしまいました」

「いえいえ、とんでもございません。私どもはみな、お客様にご奉仕することを誇りにしていますから、お客様はただ、この宿をお楽しみいただければ、私どもも嬉しいのです」


 やまみこと呼ばれた男性従業員は、とても丁寧に答えてくれた。


 そのような話をしている間も、料理はてきぱきと並べられ、その傍らにはビールとウィスキーが準備された。どちらも数種類の銘柄が置かれていて、とても飲み切れそうにない。


「お酒、すみませんでした。今日はどちらも少しずついただきますが、明日からは1種類にしますね」

「承知しました。またお申し付けください」

 なでしこはそう言うと、やまみこに目配せをして立ち上がった。

「それでは、ごゆっくりとお楽しみください」


 ふたりは頭を下げると、そろって部屋を出て行った。


「そうか、ここは同族経営ってことか、しかしなでしこさんは綺麗な子だ。やまみこ君もモデル並みだったな」

 私は自分のだらしない腹をポンポンと叩いて、ふぅ、とため息をついた。

「ま、それはそれ、これはこれ、食べよう!」


 料理は美味かった。


 牛肉はローストビーフのように仕上がったタタキ、小ぶりだが肉厚のステーキ、焼き加減は私好みのウェルダンだ。薄切り肉の冷やしゃぶサラダは野菜と一体化する柔らかな牛肉、よほど肉質がいいのだろう。

 豚肉は角煮、バラ焼き、酢モツ、まるで居酒屋のような料理もここまで昇華するのかと感心するほど美しく盛り付けられ、そして旨い。

 鶏もそうだ。唐揚げにしろ焼き鳥にしろ煮込みにしろ、締めにと用意された肉そぼろ茶漬けまで、こんな家庭的、大衆的な料理がこれほどの味だとは。これまで食べたことのある料理ばかりだったが、その中で間違いなく1番。安い言い方だが、そう感じるものだった。


-さすが人気の宿ということか、こんなすごい料理が出るなら、もしかしたら苦手な魚料理も、食べなきゃもったいないんじゃないかな?


 それぞれの料理に合う酒を少しずつ飲みながら、私はそう考えていた。


「よし、明日の夕食は魚をお願いしてみるか!」


 ビールもウィスキーも少しずつ飲んだはずだが、締めの茶漬けを食べる頃にはもう、したたかに酔っていた。

「歯、歯を、磨かなきゃ」

 私は仕事柄身についた食後の絶対的習慣を途切れそうな記憶の中でこなし、これまで味わったことのない幸福感に包まれて、ふかふかの布団に潜り込んだ。


 しかし、その布団がいつ敷かれたのか、食事の後片付けはいつされたのか、私にその記憶はなかった。



つづく


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ