不通の城
名護家といえば、地方都市に合併されたこの字、永峯では、昔から一目置かれる旧家である。その家の長女の林は、俗に言うお嬢様だ。
しかし、地域のお年寄りに拝まれて居心地悪い思いを度々するのは、それだけが理由ではない。名護の家が代々、地域の祭事を司る巫者の一族だからだ。
それで、と林は口火を切った。
「兄貴からの伝言って何なの」
脇息に腕と顎を乗せ、林は今にも『障られ』まくった体を横たえたいという気持ちを抑えていた。
その目は桂を見ているようで見ていない。
盛大に黒く汚れてしまった畳と、濡れ雑巾で頑張る桂の手に注がれている。
他の家のようにフローリングならよかったのに。旧家とは、伝統美にこだわりすぎて融通が利かないものである。汚れが染みついていけない。
「その椅子の花について依頼したいんですって」
根気よく、とんとんと汚れを雑巾に移しながら、何てことなくのたまう彼に、林は思いきり顔を歪めた。
頭のどこかで悟ってはいたが、やはり邪悪な鉢植えを部屋にもってきたのは兄らしい。
『育ててみろ』というだけの明朝体の文字印刷が傍らに置いてあり、何事かと探っていたらこれだ。
畳と心身への損害をどうしてくれる。
(自分で探ればいいのにーー)
情報を寄越さず、高見の見物を気取っているところがまた厭らしい。
あああ。だんだん腹が立ってきた。
だが、怒りをぶつける相手は桂ではない。怒鳴り散らしたい気持ちをぐっと抑え、林は右手を伸ばして言いつけた。
「桂、スマホ」
打てば響くとはこのことか。はいと気持ちのよい返事と殆ど同時に、黄色いハンカチごとずっしりと握らされた。
投げられたボールをとってくる反射速度より速いのでは、と知り合いが絶賛するストレスフリーさだ。桂は林の沸点の具合をうまく把握していると言えた。
軽く礼を告げて、林は二枚目のハンカチを返しながら、電話アプリを起動する。
接続のコールが二回、五回。
林は耐えた。
思い切りどやしてやらないといけない。
まだ出ない。
接続のコールがもう五回、十回。
ぷつ、とつながったような音を感じるや否や、押し殺していた怒りを解き放つ。
「兄貴!! 一体どういう…」
しかし、それは不燃に終わってしまった。
相手は全く答えない。そればかりか、耳には雑音ばかりである。
挙げ句の果てには、
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』
と無機質な声が届く始末。
林は無言でスマホを投げ捨てた。
なんだあの雑音は。
同じ敷地内でなぜ圏外なのだ。
自室でどんな電波を流しているのだ。
そういえばと、林は以前泣きついてきた使用人の訴えを思い出す。なんでも、食事を運ぼうと兄の部屋の襖を開けると、そこには宇宙と比喩すべき黒い無の空間が広がっていたそうだ。
そう、名護 圭は引きこもりである。
高校二年生という青春真っ盛りの年頃に、屋敷の離れに閉じ籠ってしまった。
もとから食事は部屋に運ばせていたし、無口な兄との雑談など覚えのない林をはじめ、両親も使用人も誰も気づかずにいた。
情けないことに、高校からの連絡で彼の籠城が発覚し、名護家は静かに揺れることになった。
前兆や理由も全く掴めない。
離れに行くと神隠しに遭う者が出る。
同じ敷地内でありながら電波が届かないことはしょっちゅう。加えて、襖を開けるとーーーー。
離れへ続く回廊さえ、寄りつく者はいなくなり、食事を運ぶ役目をめぐって呪詛が飛び交う混沌。
両親は途方に暮れた。
何をどうすればいいかわからず、立ち尽くしていた。そうして一年が経過した。
しかし、何の心境の変化か今、兄は家業の手伝いだけは様々な形でこなすようになったという。
両親は安心してまた国内を飛び回りに行ってしまった。
とりあえず、林は文字印刷の裏に『何のつもり』と書き殴った。そして、また桂に言いつけようと腰を浮かす。
すると、再び前触れなく襖が開いた。
「お嬢様、言伝て承ります」
現れたその使用人は、年の近いくだけた桂とは違い、ぱっきり腰を折った。
林が幼い頃から知っている、三十代半ばの女性だ。屋敷内でも信頼は篤く、圭が住まう魔境にも涼しい顔で出入りする猛者である。
彼女は、自然と背筋が伸びてしまう林から裏紙を受けとると、またぱっきり腰を折って部屋を辞した。
「それではお嬢様、硝子戸を開けておきますよう」




