水吐く花 下
花の、口と思わしき染みがひくりと歪んだ。続いて、くぐもった喘ぎを漏らす。歯の無い赤ん坊のような甲高い声に、さしもの林もひゅっと息を呑む。
花の人面疽は苦しんでいるようだった。うまく酸素が吸えない。それでも足掻くような、聞いていると息苦しくなる声。口らしき染みから漏れる声は大きくないものの、頭に直接響いてくるし、その間鉢ががたごと動くのも止まない。
頭ががんがんと苛まれ、思わず林は俯いてしまった。
その途端に、ひゅっと喉に分厚い蓋を飲み込まされたように感じた。
ーーくるしい。
息を吸おうにも、空気とは別のものが口に入ってきて、林はがぼりと呼吸に失敗する。
思わず倒れ込んだ彼女に、甲高い無邪気な声が降りかかった。
林は薄目を開けて、上半身を起こそうと努力した。すると、花弁をもう少し広げ、小刻みに茎を揺らすそれの輪郭が見えてくる。
ーー笑ってる。
花が、染みが、人面疽が、赤ん坊の顔が、確かに目元を緩め、口を横に広げてきゃっきゃと笑っていた。
「こ、の……っ」
悪意は感じない。
それゆえの得体の知れなさを振り払いたくて、勢いを味方に鉢に掴みかかろうと畳の上で拳を握る。
しかし、息が持たず、見える世界がぐるんぐるんと回転し、また喉に何かが蓋をしてくる。結果、喉元をかきむしり、林は床に転げた。
嘲笑うでもない、純粋な歓び溢れる無邪気な笑いは、止まない。
ーーくるしい、くるしい、くるしい。
頭に響く笑いと呼吸困難で苦しさが最高潮に達したとき、前触れなくすらりと襖が開いた。
「林お嬢さん、圭の兄さまから伝言ですよ」
ぴたりと笑い声が止む。
再び、じーわじーわと鳴く蝉の声音に包み込まれ、林は大きく息を肺に送り込んだ。
涙が滲みつつも、力強い生気を取り戻した瞳でひたと花を見据え、目にも止まらない速さで林は太い茎をひっつかんだ。
ごぼり。
花の染みから黒い水が溢れ出た。
慌てて手を離すと、花はその奇妙な形のまま萎びていく。
「終わりか」
思わず呟く林は、汚い水が手や顔にかかって嫌そうに口をひん曲げたままだった。花ごときにしてやられたことをごまかさんと、げほごほと咳き込むしか仕様がない。
果たして、乱入者の、これまた和室に不似合いな明るい茶髪の彼は、林の様子に気を取られたようだった。
ピアスを鼻に刺していなければ、十人中十人が人の好いと言うだろう顔で、心配そうに眉を下げている。
「障りにでも当てられましたか」
差し出されたハンカチにこれ幸いと林は飛びついた。
鼻ピアスをしようが、彼、桂のズボンのポケットには、きれいに畳んだ清潔なハンカチが皺なく入っている。林は何か言いたそうに複雑な目を彼に向けた。だが、諦めた。
鼻ピアスの姿を初めて目にしたとき、気を遣って、風邪でも引いたら邪魔だろうと言ったときーー、自分は風邪を一回も引いたことがないから大丈夫です、と弾ける笑顔で言ってのけたのを思い出したからだった。
つまりは、言っても無駄、なのである。
桂のおかげで花から随分気がそれてきた。
もう認めるしかないが、化生のものに『障られた』とき、それで頭を埋め尽くしてしまうともう危ない。伝染していくかのように、今度は自分が化生へと変じてしまう。だから、知らぬ気づかぬ見えぬが一番よい対処法だ。これが、ある意味最も難しいことでもあるのだが。
とりあえずとばかりに、林は花の吐いた水が黒黒と残る染みを人差し指で撫でる。特に怨念の類は感じない。感じるのは、得体の知れない不快感。陰湿で、怨念よりもおぞましいものの予感がする。
それがだんだん喉をせり上がり、遂には口まで上ってきてーー、
ごぼり。
林の口から黒い水として吐き出された。
先程よりも激しく咳き込み、嘔吐く林の背に手を当てながら、桂は慌てた。
「林さん、ハンカチ、ハンカチ! 使ってください」
仕方なくまたもハンカチで押さえ、拭う。
桂のハンカチはもう涎やら黒い染みやらで目も当てられない。
ふうふうと荒い息のまま、林は叫んだ。
「くっそー、また『障られた』!! なんだ、あの花! 変な形しやがって」
「あの花、椅子みたいですよね~」
思ったより林が元気に思えて安心したのか、桂はにこやかに応じる。
「……」
確かに花弁の有り様が背もたれのある椅子にも見えた。見えたが、今しがた吐いて咳き込んで大変な人の傍らで吐く言葉だろうか。
気持ち悪い黒い水の感触が残り、唾すら飲み込めないでいる林は恨みがましく桂を睨みつける。そんな間近の視線にもさっぱり気づくわけもない桂は、やはり『障られ』にくい。
その呑気な面にぴしゃりと怒鳴り付けた。
「さっさと水、コップ、御神酒持ってこい!! 」