声なき声
意識が戻ったとき、修人は病院のベッドの上にいた。
白い天井、消毒液の匂い、聞こえてくる看護師たちの足音。現実的すぎる光景に、修人は小さくため息をついた。生きている。それが最初の実感だった。
「気がつきましたね」
看護師が心配そうに顔を覗き込んできた。若い女性で、優しそうな笑顔を浮かべている。白い制服が、修人の目には眩しく映った。
「ここは?」
「聖マリア病院です。過労で倒れられたんですよ。もう少しで危なかったんですから」
看護師の説明を聞きながら、修人は自分の状況を整理した。会社で倒れて、救急車で運ばれてきたのだろう。田中が付き添ってくれたに違いない。そう考えると、申し訳ない気持ちになった。田中にも家族がいるのに、修人のために時間を割いてくれたのだ。
「会社の方が心配されてました。田中さんという方が、朝まで付き添ってくださって。今は安静にしていてくださいね」
看護師が去った後、修人は一人になった。静寂の中で、自分の人生について改めて考えた。病院のベッドに横たわっていると、今まで当たり前だと思っていたことが、実はとても貴重なものだったことに気づく。健康な体、正常に働く心臓、酸素を吸える肺。全て奇跡のようなものだ。
27年間、何をしてきたのだろうか。大学時代の友人たちは皆、それぞれの道を歩んでいる。結婚して家庭を築いた者、起業して成功した者、海外で働いている者。みな輝いて見える。一方で自分は何をしているのだろうか。毎日同じ電車に乗り、同じオフィスで同じような作業を繰り返している。成長している実感もない。将来への展望もない。
ベッドの脇にあるサイドテーブルに、スマートフォンが置かれていた。画面を見ると、会社からのメッセージが山ほど届いていた。佐藤課長からの心配するメッセージもあれば、別の上司からの業務連絡もある。修人が倒れたのに、仕事は止まらない。当然といえば当然だが、なんとも言えない虚しさを感じた。
自分が一人欠けても、世界は何も変わらない。会社も回り続ける。プロジェクトも進行する。まるで最初から自分などいなかったかのように。
友人や家族からのメッセージもあった。田中からは「無理するなよ。会社のことは気にするな」という優しい言葉。本当に良い友人だと思う。修人は田中に恵まれている。母親からは「すぐに実家に帰ってきなさい。無理をしちゃダメ」という心配そうなメッセージ。いつも心配をかけている。妹からは「お兄ちゃん、大丈夫?体が一番大事だからね」という短いが温かい言葉。
みんな心配してくれている。それは分かる。でも、どう答えればいいのか分からない。「大丈夫」と言うのは嘘だし、「もう駄目だ」と言うのも大げさすぎる。実際のところ、修人自身も自分の状況をどう評価していいのか分からなかった。
病院の窓から見える景色は、いつもの灰色の空だった。東京の空は青いことがあるのだろうか。修人には思い出せない。いつも曇っているか、雨が降っているか、そんな印象しかない。ビルに囲まれた空は、どこか息苦しく感じられる。
点滴の管が腕に刺さっている。生理食塩水とビタミン剤だろうか。体に栄養を補給している。でも、心の栄養は何で補給すればいいのだろうか。修人の心は干からびている。愛も希望も枯れてしまっている。
病室のテレビでは、朝のニュース番組が流れていた。政治の話、経済の話、スポーツの話。どれも自分には関係ないように感じる。世界は回っているのに、自分だけが止まっているような感覚だった。ニュースキャスターの明るい声が、修人には遠い世界の出来事のように聞こえる。
修人は天井を見つめながら、今後の人生について考えた。退院したら、また同じ日々が始まる。同じオフィス、同じ仕事、同じ通勤電車。何も変わらない。変えようとする意志も、変える方法も分からない。
「人生って何だろう」
修人は小さく呟いた。生きる意味、働く意味、存在する意味。学校では教えてくれなかった。社会に出てからも誰も教えてくれない。みな当たり前のように生きているが、その根拠は何なのだろうか。
午後になって、田中が見舞いに来てくれた。手には花束を持っている。
「大丈夫か?顔色は少し良くなったな」
田中は心配そうな表情を浮かべながら、椅子に座った。昨夜は付き添ってくれたのに、今日も仕事を抜けて見舞いに来てくれている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう。迷惑かけて悪かった」
「何言ってるんだよ。倒れるまで働かせた会社が悪いんだろ」
田中の言葉は優しかったが、修人には響かなかった。会社が悪いのか、自分が悪いのか、それとも社会全体が悪いのか。答えは見つからない。
「医者は何て言ってた?」
「過労とストレスによる失神だって。しばらく安静にしていれば大丈夫らしい。でも、根本的な生活習慣を変える必要があるって言われた」
「そうか。良かった」
田中は安堵の表情を見せたが、修人の心は晴れなかった。体は回復するかもしれないが、根本的な問題は解決していない。退院すれば、また同じ日々が始まる。生活習慣を変えると言っても、会社の状況は変わらない。仕事量も変わらない。
「会社、どうなってる?」
「課長が何とかしてくれてる。修人の分も俺たちでカバーするから、心配するな。それより、しばらく休職した方がいいんじゃないか?」
それを聞いて、修人は複雑な気持ちになった。自分がいなくても会社は回る。それは当然のことなのに、なぜか寂しさを感じた。同時に、仲間たちに負担をかけていることへの申し訳なさもあった。
「休職か...」
修人はその選択肢について考えた。休職すれば、一時的に仕事から離れることができる。体を休めることもできるし、今後のことをゆっくり考えることもできる。でも、経済的な不安がある。収入が減れば、生活が成り立たない。
「無理しちゃダメだよ。体が一番大事なんだから」
田中の言葉は心に響いた。でも、体だけ回復しても意味がない。心の問題、人生の問題は解決されない。
田中が帰った後、修人は再び一人になった。夕陽が病室の窓を染めている。外では普通の人たちが普通の生活を送っている。家族と夕食を囲む人、友人と笑い合う人、恋人と手を繋いで歩く人。修人にはそれがない。帰る家はあるが、温かい家庭はない。話をする相手はいるが、心から理解し合える人はいない。
夜になると、病院は静かになった。患者たちは眠りにつき、看護師たちの足音も少なくなる。修人は眠れずにいた。頭の中で様々な考えが渦巻いている。
その時、頭の中で声が響いた。
『疲れているな』
修人は驚いて辺りを見回したが、誰もいない。幻聴だろうか。過労の影響で、おかしくなってしまったのだろうか。
『君の人生は、本当にこれで良いのか?』
また声が聞こえた。今度ははっきりと聞こえる。男性の声のようだが、どこか遠くから聞こえてくるような感覚だった。年齢は分からないが、深い知恵を感じさせる声だった。
「誰だ?」
修人は小さく呟いた。でも返事はない。病室には修人一人しかいない。
『君なら...もっと違う人生を歩めるはずだ』
声の主は続けた。修人の心を見透かしているかのような言葉だった。まるで修人の過去も現在も未来も、全てを知っているかのような口調だった。
『もし、やり直すチャンスがあるとしたら?』
「やり直す?」
修人は声に出して答えた。やり直したいと思ったことがないわけではない。大学時代に戻って、別の道を選びたいと思ったこともある。就職活動をやり直したいと思ったこともある。でも、そんなことは不可能だ。人生にリセットボタンはない。時間は一方向にしか流れない。
『君の力を...本当に必要としている世界がある』
声はだんだんと大きくなってきた。修人の意識も朦朧としてきた。また失神するのだろうか。でも、今度は恐怖よりも好奇心の方が強かった。
「僕の力?そんなものはない」
修人は答えた。自分には特別な能力などない。平凡なプログラマーで、特別な技術も持っていない。人を感動させるような作品を作ったこともない。人の役に立ったこともほとんどない。
『君は忘れているだけだ。君の中に眠っている力がある』
声は確信に満ちていた。修人の中に何かがある、と断言している。
『お前なら...再び世界を救えるはずだ』
最後の言葉が修人の心に深く刻まれた。世界を救う?自分が?そんなことができるはずがない。世界を救うのは、映画やゲームの主人公がすることだ。現実の、平凡な人間にできることではない。
しかし、「再び」という言葉が気になった。まるで、以前にも世界を救ったことがあるような言い方だった。でも、修人にはそんな記憶はない。
意識が遠のいていく中で、修人は不思議な感覚に包まれた。体が浮き上がるような、時間が止まったような、そんな感覚だった。重力から解放されたような軽やかさ。病室の白い天井が遠ざかっていく。
修人は最後に、自分の人生を振り返った。27年間の記憶が走馬灯のように流れていく。幼稚園での楽しかった思い出、小学校での友達との遊び、中学校での部活動、高校受験の不安、大学時代の希望、就職活動の苦労、社会人になってからの挫折。
全てが意味のないものだったのだろうか。いや、そんなことはない。一つ一つの経験が、今の自分を作っている。無駄な経験なんてない。失敗も成功も、全てが自分の一部だ。
『君の経験も、知識も、全てが必要だ』
声が最後に告げた。修人の人生は無駄ではなかった。これまでの経験が、これから始まる新しい人生の糧になるのだ。
修人の意識は完全に闇の中に沈んでいった。でも、それは絶望の闇ではなく、希望の闇だった。新しい始まりを予感させる、温かい闇だった。