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記憶喰らいの王座  作者: 高野マサムネ
第1部 覚醒編
1/12

終電という名の絶望

「お疲れ様でした」


桐谷修人は機械的にその言葉を口にしながら、薄暗いオフィスの蛍光灯を見上げた。時計の針は午前2時を指している。またしても終電を逃した。


27歳、独身、ゲームプログラマー。聞こえは良いが、実態は使い捨ての駒でしかない。


「桐谷君、明日の朝イチでクライアントのプレゼンがあるから、例の企画書の修正お願いします」


振り返ると、課長の佐藤が申し訳なさそうな顔をしながらも、しっかりと残業を言い渡していた。佐藤は良い人だ。本当に良い人だと思う。だからこそ、こうして深夜まで働く修人に心を痛めているのが表情から読み取れる。


「分かりました」


修人はそう答えながら、内心で苦笑した。また徹夜だ。今週で何回目になるだろうか。


オフィスには修人と佐藤、そして数人のプログラマーしか残っていない。みな疲れ切った顔をしながら、パソコンの画面と睨めっこを続けている。修人も再び椅子に座り直し、キーボードに向かった。


コーヒーの味はもう感じない。何杯目かも分からない。胃が痛いのか、空腹なのか、もはや区別がつかない。企画書の文字が踊って見える。集中力が切れているのは分かっているが、止まるわけにはいかない。


「修人、大丈夫?顔色悪いよ」


隣の席の田中が心配そうに声をかけてきた。田中は同期入社の友人で、修人より先に結婚して、今では二児の父親だ。彼は残業をしながらも、毎晩家族に電話をかけている。娘の宿題を手伝ったり、妻の愚痴を聞いたり、父親として夫としての役割を果たしている。


「大丈夫、慣れてるから」


嘘だった。慣れるはずがない。人間の体は深夜まで働くようにはできていない。それは理解している。でも、止まれない。止まったら、この会社での居場所がなくなる。そして、他に行く場所もない。


「無理しないでよ。体壊したら元も子もないんだから」


田中の言葉は優しかった。でも、修人には重く響いた。体を壊しても代わりはいる。それが現実だった。この会社には修人と同じようなプログラマーが何十人もいる。スキルも経験も似たようなもの。誰か一人が欠けても、システムは動き続ける。


企画書の修正を続けながら、修人は自分の人生について考えた。大学を卒業してから5年。最初は夢があった。自分でゲームを作って、多くの人に楽しんでもらいたいという純粋な想いがあった。プログラミングの勉強も楽しかった。コードを書いて、思い通りに動いたときの喜びは格別だった。


でも現実は違った。下請けの下請けのような会社で、他社の仕様書通りにコードを書く日々。創造性のかけらもない。バグを修正して、テストを繰り返して、納期に追われる。最初の情熱は、いつの間にか消えていた。


友人たちは次々と結婚していく。田中のように家庭を築く者もいれば、転職して給料を上げる者もいる。大学時代の友人の中には、起業して成功した者もいる。海外で働いている者もいる。みな前に進んでいる。でも修人は変われないでいた。変わる勇気がないのか、変わる必要がないと思っているのか、自分でも分からない。


スマートフォンに家族からのメッセージが届いていた。母親からの「体に気をつけて」という短い文章。この時間でも心配してくれているのだ。父親は相変わらず無言。昔から感情を表に出さない人だった。妹は結婚して実家を出ており、たまに写真付きのメッセージを送ってくる。幸せそうな家族写真。修人には眩しすぎた。


妹の夫は大手商社に勤めていて、収入も安定している。子供も生まれて、絵に描いたような幸せな家庭を築いている。正月に実家で会ったとき、妹は「お兄ちゃんも早く結婚しなよ」と言った。でも、今の修人にそんな余裕はない。恋人を作る時間もないし、経済的な不安もある。何より、自分自身に自信がない。


実家に帰るのは年に数回。盆と正月ぐらいだ。家族との会話も表面的なものばかり。仕事の話をしても理解してもらえないし、プライベートの話は何もない。恋人もいない。趣味らしい趣味もない。休日は疲れて寝ているだけ。読書をすることもあるが、集中力が続かない。ゲームをすることもあるが、昔ほど楽しめない。作る側の視点で見てしまうからだろうか。


これが自分の人生なのだろうか。これから先も同じような日々が続くのだろうか。40歳になっても、50歳になっても、同じような仕事を続けているのだろうか。結婚もせず、家族も持たず、ただ生きているだけの人生。そんなことを考えていると、急に現実逃避したくなる。ゲームの世界に逃げ込みたくなる。画面の向こうの主人公たちが羨ましい。彼らには明確な目標があり、成長があり、仲間がいる。困難があっても、それを乗り越える力がある。


「修人!」


田中の声で現実に引き戻された。見ると、修人の手が震えていた。コーヒーカップを持つ手が微かに震えている。カフェインの取りすぎかもしれない。それとも、ストレスの影響だろうか。


「ちょっと休憩しない?」


田中の提案に、修人は首を振った。


「大丈夫、もう少しで終わる」


またしても嘘だった。企画書の修正はまだまだ終わりそうにない。クライアントの要求は複雑で、技術的な制約を理解していない。「もっと簡単にできないか」「もっと安くできないか」「もっと早くできないか」。そんな要求ばかりだ。それを分かりやすく説明し直す必要がある。技術者ではないクライアントに、なぜそれが難しいのかを理解してもらう必要がある。


時間だけが過ぎていく。修人の意識は朦朧としてきた。文字がぼやけて見える。頭痛がひどくなってきた。でも手は動かし続けた。キーボードを叩く音だけが、静まり返ったオフィスに響いている。


オフィスの外では、東京の夜が更けていく。タクシーの明かり、コンビニの看板、24時間営業の店の灯り。眠らない街東京。でも、修人にはその賑やかさが遠い世界のことのように感じられた。


同僚たちも次々と帰っていく。「お疲れ様」「また明日」そんな挨拶を交わしながら、みなそれぞれの家に帰っていく。家族の待つ家、恋人の待つ家、一人暮らしの部屋。どれも修人には羨ましく思えた。


午前3時を過ぎると、オフィスには修人一人だけになった。静寂の中で、パソコンのファンの音だけが聞こえている。修人は企画書の修正を続けながら、自分の将来について考えた。


このまま働き続けて、何を得られるのだろうか。昇進の可能性もほとんどない。給料も大きく上がることはないだろう。技術力を身につけても、それを活かす場所がない。転職を考えたこともあるが、今より良い条件の会社に入れる自信がない。


修人は窓の外を見た。東京の夜景が広がっている。無数の明かりが点滅している。それぞれの明かりの下で、誰かが生活している。働いている人、眠っている人、楽しんでいる人。みな修人とは違う人生を歩んでいる。


「はあ...」


修人は深いため息をついた。このため息には、5年間の疲労とストレスが込められていた。大学時代の希望に満ちた自分が懐かしい。あの頃は、未来に無限の可能性があると信じていた。どんな困難でも乗り越えられると思っていた。


でも現実は甘くなかった。社会は想像以上に厳しく、競争は激しく、理不尽なことも多い。努力すれば報われるという単純な世界ではなかった。


修人は企画書の画面を見つめた。文字の羅列。数字の羅列。グラフや表。全て意味のあるものだが、修人の心には響かない。これが自分の人生の成果なのだろうか。


午前4時を過ぎた頃、ついに修人の体が限界を迎えた。


椅子から立ち上がろうとした瞬間、めまいが襲った。視界が暗くなり、足元がふらつく。血圧が急激に下がったような感覚だった。


「おい、修人!」


どこからか田中の声が聞こえた。いつの間に戻ってきたのだろうか。でも体が言うことを聞かない。意識がだんだんと薄れていく。


最後に見えたのは、パソコンの画面に映る未完成の企画書だった。そして、画面に映る自分の顔。疲れ切った、生気のない顔。これが27歳の男性の顔なのだろうか。


意識を失う直前、修人は不思議な感覚に包まれた。体が軽くなったような、時間が止まったような、そんな感覚だった。そして、頭の中で声が響いた。


『疲れているな...』


誰の声だろうか。修人は答えようとしたが、声が出ない。


『君の人生は、本当にこれで良いのか?』


その声は優しく、しかし深い悲しみを含んでいるように聞こえた。


修人の意識は闇の中に沈んでいった。

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