滴る
菊は滴る。君には見えないかもしれない──。
私の部屋には菊がある。珍しいと思う人も多いかもしれない。その菊はいつも滴っている。枝垂れていると言った方が伝わるかもしれない。とはいえ、その菊は私以外には見えないらしく、父も母も、全く気づくことはなかった。私はそれを、枝垂れ菊と呼んでいる。
萎れているわけではない。毎日欠かさず世話をしている。土が乾けば水をやるし、咲き終わった花は見つけるたびに摘んでいる。ただ、どれだけ真面目に世話をしても、俯いているのだった。
一度だけ、普通の菊のように上を向いて咲いた日があった。母親が死んだ日だった。悲しくはなかった。私は虐待を受けていたから。毎日毎日殴られて、蹴られて。まともなご飯は食べさせてもらえず、学校にもろくに行かせてくれなかった。
そのうち私は心を閉ざし、何を言われても、何をされても、何も感じなくなった。体はボロボロになるけれど、それでも心は無感情、無心で生き続けていた。唯一、菊を育てることだけに心を注いだ。どんなに嫌なことがあっても、菊を育てて紛らわした。
水をやって、枯れた花を摘んでいると、少しづつ気が楽になっていくような気がした。生きる気力がもらえているような。嫌なことが摘まれていくような。少しでも菊が上を向いてくれるように、ただひたすら世話をし続けた。
母が死んだ後、私は離婚した父に引き取られた。五年ぶりに会った父の顔は想像よりもよっぽど引き攣っていた。そして、母と同じ、醜いものを見るような目で、私を見つめていた。
案の定、父も私を虐めた。外から暴力を振るわれるのはもちろん、時には内側からも。私の中に入ってくる父の一部は、凶器そのもののようであった。本能のままに動く彼の凶器は、私を容赦なく傷つける。
種を植え付けた日には、よくわからない薬を私に飲ませた。そんな日の菊には、白く濁った汚らわしい液体が滴っていた。
部屋から出て、リビングへ向かう。そこには、赤い血を流した父と赤白く光る包丁。父が死んでいた。
無心のまま部屋に戻る。部屋の片隅には大きく背伸びをした菊。上を向いて、生き生きとしている菊。ただ、その菊は赤黒く染まり、私の右手と同じように、血液が滴っていた。