担々麺を白ワイシャツで食べる宣言
旧友とのくだらない論争。正直美味しければ何でもいいです。
担々麺は白のワイシャツで食べる。
われわれは、これこそが、様式美であり、正しい担々麺の食べ方であると信ずるものである。
世の安全主義者は、眩いばかりに白く汚れのないシャツにあのどこまでも赤いスープが被弾する事を恐れる。なるほど、それは大惨事である。それ故、人は、「ワイシャツで大丈夫か」と問う。紙エプロンは使わないのかと。
しかし、シャアに曰く、当たらなければどうという事はない、と。蓋し、これは、古今東西、洋の東西、次元の二次、三次を問わぬ真理である。
しかのみならず、スープの飛散という危険と対峙するが故に、その極度の精神的緊張に於いて、われわれは、全身全霊を以て担々麺に対する没我の境地に至る。
その地点に於いてはじめて、われわれはわれわれであることを通じて担々麺であり、担々麺は担々麺であることを通じてわれわれであることが自覚せられる。
また、そもそも、担々麺とは何かということを存在論的に考察する必要がある。
担々麺は、本来的に飛散という事態を可能態として内包して居るのだ。その可能性を含めて担々麺は全き担々麺と言わねばならぬ。しからば、紙エプロンでその可能性を削ぐ事は、担々麺の手足をもぐ事に他ならない。
世の中の安全主義者は、その危険を削ぎ、担々麺をいわば家畜化し、屠殺場の豚の如き、まな板の上の鯉の如き担々麺を食してよしとする。けれども、担々麺はそのような牙を抜かれた安全な食べ物で良いのか?
否!断じて否である!
われわれは、全き活きた担々麺を望む。
われわれが対峙すべきは、あの荒々しく躍動し、われわれに喰らわれるとともにわれわれを喰らおうとするそれだ。担々麺を啜るとき、担々麺もまた汝を啜って居る。その、担々麺との真剣勝負にどうして紙エプロンという幕を下せようか。
安全主義者は、決して担々麺の真の豊かさに到達できない。彼らは怯懦にも担々麺と対等な土俵に立とうとせず、安全な紙エプロンの背後に隠れてコソコソと担々麺を啜って居るに過ぎないからだ。
如上、シャー的、純粋経験的、存在論的洞察により、われわれは白シャツに於いて真の担々麺に到達することができると信ずるものである。