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09 秘密の風呂、依頼の秘密①

 『ご満悦特別奉仕』を心ゆくまで堪能し、まもなく夜が明けようとしていた。


「あぁ、冷たくて頭がしゃきっとする。やることやったあとに入る水風呂は格別だな」


 浴槽になみなみと張られた冷水に浸かりながら、ランドルは快感の声を漏らした。

 ひんやりとした水が、わずかに残っていた眠気と酒気を醒ますのには丁度良く、天井を眺めながらゆっくりと息を吐く。まさに至福の時だ。


「それにしてもシスや店の連中、こんなに良い場所を俺に隠していたとは。許せんな」


 ここは『蛇穴(じゃけつ)』の離れに作られた浴室で、ランドルのほかには誰もいない。

 店の者たちはこことは別につくられた蒸し風呂を使うことになっているし、客のほうは『蛇穴』で風呂の提供を受けることができない。遊び終えた客には近くの公衆浴場を勧めるのが、娼館通りの決まりとなっているようだ。闇社会なりの地域共同体というやつらしい。

 ではこの離れの浴室を誰が使うのか、という話になるが、それは店の上得意であるランドルも知らない。そう、知らないのだ。


 以前、仲の良い女中が離れの掃除を終えて退室するところに出くわし、この場所に本棟とは別の浴室があることを知った。

 浴室が分けられている理由を尋ねてみると答えは濁されてしまい、では自分も離れの風呂に入りたいと頼めば、やんわりと首を横に振られてしまう。


 自分がこの店一番の上客であることを疑ってもみなかったランドルにとって、この一件はひどく衝撃的であった。店の者も、ほかの客も、そして自分ほどの客でさえも利用できない風呂が、知り尽くしたと思っていた『蛇穴』に密かに存在している。そしてそれを知ってなお、自分には立ち入れない場所だと言われたのだ。


 そのときランドルは決心した。絶対に秘密の風呂に入ってやろう、と。

 駄目と言われれば、なおさらやりたくなるのが人情というものだ。

 頼んで駄目なら、ほかの手を使うほかない。

 それ以降、ランドルは密かに決行の機会を窺っていた。


 そして、いまがそのときである。


 ――つまりランドルは離れに忍び込んだ挙げ句、勝手に水風呂に浸かっているということになる。見つかれば相当怒られることになるだろうが、後のことなどいちいち考えているようではなにもできずに終わるだけだ。物事を為すのに必要なのは賢さではない。

 それにいざ忍び込んでみれば、都合が良いことに浴槽にはなみなみと水が張られている。これはきっと運も味方しているに違いない。


「やはり物事を為し遂げるのは気分が良い。駄目という言葉を無視して秘密を(あば)き、未踏の地を踏みしめる。これぞ勝利にして成功。男の人生の縮図ってやつだ」


 などと馬鹿げたことを呟きながら、ランドルは勝利の余韻に浸る。


「惜しむらくは、これだけの風呂に一人で入ってるってことだな。店の(むすめ)と一緒に入れれば文句なしなんだが……」


 二メートル四方の浴槽は、一人で手足を大きく広げて入るのにはいいが、普通に入ると少々空間を持て余す。一人風呂というのも贅沢で悪くないが、せっかくなら一緒に入る相手が欲しいと考えるのも無理はない。だが状況を考えれば、それは叶わぬ願いというものだ。


(ん?)


 脱衣所のほうから、扉が開く音がした。

 夜明け前にも関わらず、誰かが離れを訪れたようだ。


(まずいな、店の人間か? まだ入ってからそんなに経ってないっていうのに。それともこの俺に先んじて、店の裏施設を使う太い野郎か。もしそうならこんな時間から風呂なんて入りやがって、まったくもってけしからん)


 などと自分のことを棚に上げ、入室者に腹を立てた。

 言うまでもないことだが、許可なく浴室を使用しているのはランドルのほうだ。

 厚かましいにもほどがあるとしか言い様がない。

 耳を澄ますと扉の向こうから、一枚、また一枚と微かな衣擦れの音がする。


(この音、一人だけだな……それも男じゃねえ、女だ)


 そのことに気づくと、そっと浴槽の縁に近づき、浴室の扉を凝視する。

 その顔にはすっかり喜色が浮かんでいた。見つかった後のことなど考えているはずもない。

 いまはただ己の欲望に従い――もとい欲望に支配されているだけだ。


(いやあ、偶然っていうのはあるもんだな。隠された風呂で女とばったり出くわすとは。ま、これは事故だから仕方ねえ。こうした不意の事態ってものを大事にしてこその人生だよな)


 そのように自分に言い聞かせるが、もちろん嘘だ。

 ランドルはその性格に似合わず、用意周到なところがある。

 こんなこともあろうかと、脱いだ服は脱衣所の乱れ籠には入れず、浴室端の桶に入れておいたのだ。抜かりはない。

 獲物を巣で待ち構える蜘蛛になった気分で、ランドルは息を潜めた。

 いまこの浴室を照らすのは、壁の角灯一つだけだ。

 天井にある明かり窓の外はいまだ闇に包まれ、部屋の大部分は黒に染まっている。


 そのとき。浴室の扉が静かに開かれた。

 小さな人影が一つ、暗い浴室へ、ランドルの張った網へと足を踏み入れる。

 ランドルは期待に胸を膨らませ、暗闇に立つ乙女の姿を目にしようと、その目を見開いた。


「まったく、人の気配がすると思えば。お兄さん、どうしてここにいるんですか?」

「――なんだ、お前か」


 浴室に現れた人物がシスだと気づいて、ランドルは露骨にため息をついた。

 一糸纏わぬ姿のシスは、その露わになった(からだ)を隠そうともせずに、侵入者を咎める。


「なんだとは失礼な……いいですか、ここはわたし専用です。出ていってください」


 どうやら浴室の利用者が判明したようだ。

 店の者や上客が使用できないというのなら、店の主人が使うに決まっている。

 少し考えれば当然のことである。

 謎は解けたが、ランドルは腰を浮かせなかった。


「そんなに細かいこと言うなよ。だいたいな、こんな良い風呂を独り占めするとは、いったいどういう了見してるんだ。もっと心を広くもて」

「細かくありません。あのですね、ここは沐浴場、(みそ)ぎのための場所です。お兄さんがどうしてもお風呂に入りたいのでしたら、店の()たちが使用していないときであれば、本棟の蒸し風呂を使っていただいても構いませんから。さあ、退室を」


「蒸し風呂の使用許可についてはありがたく受けておくが、それはそれ、これはこれだ。俺はお前がいても気にしない。お前も俺を気にしなければいい」

「勝手なことを言わないでください。お兄さんが下半身を元気にされたら、わたしが安心してひと息つけないじゃありませんか」


 誰が聞いてもシスの抗議は極めて正当なものだが、これがランドルの逆鱗に触れた。


「なんだと? 俺は純粋に入浴を楽しんで、病み上がりの心と躰を癒やしているだけだが。それをなんだ、お前の言いぐさは。よりによって、俺がお前に欲情するだと? お前、俺の女の好みは知ってるだろうが。そら、これが盛っているように見えるのか?」


 ランドルが勢いよく浴槽で立ち上がり、自身の愚息の状態をもって抗議すると、シスは呆れを通り越して、もはや憐れみの表情を浮かべた。


「わざわざ見せていただかなくて結構ですよ。これ以上、なにか言っても無駄でしょうから、もういいです。騒ぐのだけはやめてくださいね」


 そう言ってシスは追い払うことを諦め、洗い場で躰を清めはじめた。


(ふん、勝ったな)


 言い負かしたつもりでいるランドルは内心で勝利を誇っていた。虚しい勝利であった。

 言葉の絶えた浴室の中を改めて見回すと、シスの言っていたとおり、ここが沐浴場であることがよくわかる。蛇神を崇拝しているだけあって、室内のあちこちに蛇の意匠が見られたし、また浴槽から壁や床、桶に至るまで、水回りというにも関わらず、汚れ一つなく清潔に保たれている。『蛇穴』は元より掃除の行き届いた店であるが、この浴室が明らかに異質な空間として設けられているのは明白だ。


 そう考えると少し悪い気もしてくるが、口にはしない。

 やがて入浴の支度を終えたシスが浴槽の前に来て、ランドルに声をかけた。


「お兄さん、わたしも入りますから、奥側へ行ってください」

「ああ、わかったよ……」


 目の前に立たれたので、他意なくランドルはシスの全身を視界に入れた。

 肋骨の浮き出る薄く小さな躰には、起伏というものが見られない。

 その肌は透き通るように真白で、それが彼女にどこか作り物めいた印象を与えている。


「――確認なんだが、お前、本当に成人してるんだよな?」

「あのですね、お兄さん。いったいどういう意味で質問されたのか分かりませんが、わたしは立派な大人の女です。なにか不審な点でも?」

「大人の女って、お前……胸がないのはまだしも、ほかのところまで完全にガ――いや、悪かった、俺が悪かったから怒るなって。ほら、お前も早く入れよ」


 冷然とした視線を向けられ、これはまずいと察したランドルは早々に謝罪しつつも、


(でもさすがにあれはな……)


 という思いを抱かずにはいられない。誰が見てもそう思うと、確信をもっていえる。

 ほかに適切な表現の仕様がないからだ。

 だが口は(わざわい)(かど)ともいう。これ以上触れるのは止めておいた。


「なあ」

「なんでしょうか?」


「一つ、聞きたいことがあるんだが……」

「わたし、子どもですから。難しいことはよくわかりませんので」


 確実に怒っている。このままでは後を引くと察したランドルは、間抜けなご機嫌取り男の振る舞いで、関係の修復をはかることにした。

 さすがにかなり抵抗があるが、背に腹は代えられない。


「――なあ機嫌なおしてくれ。俺もまだまだガキだから、美人を前にすると、ついちょっかい出しちまうんだ。頼むから許してくれ、俺が悪かった!」


 シスはごみを見るような視線をランドルへ向けると、やがて浴室を満たすほど大きなため息をついた。


「本当に仕方のない人ですね。今回に限り、許してあげます。それとそのお世辞も気味が悪いので二度と口にしないでください。それで、聞きたいことってなんでしょうか?」

スケベ回です。

後半はまじめな話になります。

今後、一話が6000字以上の場合は今回のように分割にする予定です。

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