08 蛇沼の女神官
翌日、昼過ぎになってからランドルは借り部屋を出た。
行き先は娼館『蛇穴』である。
依頼の完了を報告するためだけでなく、傷の治療をシスへ頼むためだ。
昨夜、なんとか無事に帰ることのできたランドルは、改めて傷口を洗い清め、できる範囲の止血処置をすると、酒を呷りそのまま寝台へ倒れ込んだ。
泥のように眠り、目が覚めたのは正午を告げる鐘が鳴り響いたときである。
重い躰を起こそうとすると激痛が走り、痛覚がすっかり戻っていることを知った。
(快復するどころか悪化してるな、こいつは。ひと眠りしたのは失敗だったかもしれん)
後悔してもいまさらどうなるものでもない。痛みに耐えながら、出かけることにした。
ランドルの借り部屋から『蛇穴』までは、徒歩で十五分ほどの距離しかない。
散歩するにしても短い距離だが、いまの状態では山を越えるより大変だ。
どうにかして『蛇穴』にたどり着き、帳場にいた女番頭と一人の女中が出迎える。ところが馴染みの客であるランドルの異変に気づくと、二人はさっと顔色を失った。
「ラ、ランドルの旦那! その顔色、いったいどうなされたのですか」
女番頭がずいぶんと慌てている。珍しいことだ。
鏡も見ずに家を出てきたが、いまの自分がよほど酷い状態なのだと、ランドルはこのときはじめて自覚した。
「――いますぐシスを呼んでくれ。それと近くの空いてる部屋を借りるぞ」
声を絞り出すようにして頼むと、女番頭が店の奥へすごい勢いで駆けていく。
すぐさま応援に現れた女中たちに手伝われ、空きの客室へと案内される。
寝台へ腰掛けたとき、シスが姿を見せた。女中たちが下がり、部屋に二人きりとなる。
「お兄さん、無事ですか?」
「見てのとおりだ。言いたいことは色々あるが、まずは治療を頼みたい」
答えるランドルの言葉と目には、さすがにいつもの余裕は見られない。
「わかりました、任せてください」
ランドルは纏った外套を億劫ながら脱ごうとすると、シスがすぐさま手を伸ばし、脱衣を手伝った。露わになった肩の傷口は、見るも無惨に変色している。
「これは、剣や矢による傷じゃありませんね。お兄さん、いったいなにが……」
「舟渡しを終えて傭兵たちのねぐらから出たら、仮面の魔術師が突然襲いかかってきやがったんだ。この傷は、そいつの魔術のせいだ。戦いの途中で衛兵に見つかって逃げるはめになったから、仮面野郎はまだ生きてる」
「――仮面の魔術師ですか。わかりました、こちらで調べておきましょう。ですが、魔術による負傷だけでこうなってるのですか」
「衛兵に追い回されて、仕方なく竜吼川に飛び込んだんだよ……なんとか借り部屋に戻って応急処置はしたが、朝起きたらこのざまだ。なあ、頼むから早くなんとかしてくれ」
「ええ、いま治しますから、急かさないでください」
そう言ってシスが目深に被ったフードを外した。
露わになったのは、皚々と広がる雪原のように真っ白な長い髪と肌。
その無垢な白さは、触れれば汚してしまいそうな美しさだけでなく、生気を感じさせないほどの危うさも備えている。幼さと冷ややかさを兼ね備えた端麗な顔立ちには、彼女の白い容貌とは対照的に、ルビーの双眸が妖しく輝いていた。
「――お前の顔、久々に見た気がするな」
「そういえばそうかもしれませんね。わたしとお兄さんの間柄ですから、お望みでしたら特別に、いつでも顔を見せてあげますよ」
「いらん。俺の望みは『早くしてくれ』だ」
シスは髪を手櫛で整えると、目蓋を下ろし、胸に手をあてゆっくりと呼吸を整える。
再び目を開けると、厳粛に、透き通るような声で祝詞を唱えはじめる。
『毒の長、蛇沼の主にして我らが父、アンドロエアよ。どうか我が牙に、その御業の名代をお許しください。彼の者を癒やし、その身を蝕みし卑小なる毒を清めたまえ』
シスの小さな口が開くと、上の犬歯が鋭く伸びた。白く輝くそれは、まさしく蛇の牙だ。
そしてランドルの首筋へ近づくと、優しく口づけするかの如く牙を突き立てる。
首筋に走った鋭い痛みに、ランドルがわずかに顔を歪めたのも束の間、気がつけばシスの躰が離れていく。その口元から一筋の紅が滴った。
やがて痛々しく変色した傷口がぼんやりと光を発したかと思うと、湯気のようなものが立ちはじめ、みるみるうちに傷が癒えていく。血色も少しずつ良くなってきた。
これが神に仕える者に与えられし超常の力、神の奇跡の一端である。
シスは彼女の生国である『蛇沼』の土地神、大沼蛇アンドロエアに仕える高位の神官で、癒やしの奇跡を起こすことができる。
奇跡は、神官や信徒であれば誰でも起こせるというわけではない。
篤い信仰に高い素養、厳しい修練、そして運。
非常に貴重な存在であり、その手が届く範囲はあまりにも狭い。
それゆえウェスタリア大陸では、幾柱の神々による癒やしの奇跡がありながら、医師や民間療法なども同時に存在している。
高位の神官であるシスが、なぜ王都で娼館を営んでいるのか。
どうして闇社会で舟渡しを斡旋する遣り手を務めているのか。
それはランドルも知らない。
「――これでもう安心ですよ、お兄さん。今日を無事に過ごせることを、アンドロエアさまに感謝してから眠りについてくださいね」
神の偉大さを誇るシスの表情は、どこか上機嫌に見えた。
だがそれもすぐに切り替わり、ランドルを戒めるものへと変わる。
「それと、ここへ来るのがあと半日遅ければ、手遅れになるところでしたよ」
「俺、そんなに酷かったのか。やっぱり川に飛び込んだのがまずかったか」
「当たり前です、普通なら死んでいますよ」
「ま、俺は普通じゃないからな」
ふんぞり返るランドルを見て、シスがため息をつく。
「褒めたわけではありません」
「そうは言っても逃げ道が塞がれてたんだ、ほかにどうしようもないだろ。まじめに仕事してる衛兵を斬って捨てるわけにもいかないしな」
「ええ、ですから前々から提案していたとおり、舟渡しの際には支援者をつけるべきです。逃走の手伝いがあるだけで、ずいぶんと楽になりますから。わたしからポストフくんに頼んでみましょうか」
シスの提案は合理的であり、普通なら断る理由はない。普通なら。
「俺をガキ扱いするのはやめろ、一人のほうが動きやすい。他人の手助けが必要だと思うときは、俺から声をかける。余計な気遣いはいらん」
このようにランドルは頑固であった。シスもわかっているのか、あえて無理強いはしない。
「わかりました。ですが怪我をされたなら、直接ここへ来てくださればいいのに」
「仮面野郎や衛兵の尾行を警戒したんだ。昨日は暗夜だったし、俺も満身創痍の状態だ。尾行されてても気づけない。だから日が昇ってからにしたんだよ」
「お兄さんにしては感心な理由ですね。もしかしてうちの店を心配してくれたんですか?」
「お前のことはどうでもいいが、店の娘たちには迷惑かけたくないからな」
「ふふ、お気遣いありがとうございます」
そこでふと言葉が途切れた。ランドルとシスは互いの顔を見つめている。
訪れた沈黙がいったいなにを意味しているのか。
わかっているからこそ、ランドルはこの時ができる限り続けばいいと願っていた。
だがその願いは叶うことなく、無情にも破られる。
「お兄さん、わかっていると思いますが、もうそろそろです。覚悟してくださいね」
「――わかってるから思い出させないでくれ」
シスの言葉に、ランドルが露骨に顔をしかめた。
「アンドロエアさまの癒やしの奇跡は、わたしがお兄さんを噛んで送りこんだ至高の毒によって、その力を顕現します。主の御力によって傷は癒え、どんな毒であろうと、たちどころに解いてしまいますが、その代償としてそれに見合った苦しみを噛み締めなければなりません。今回の負傷と毒の程度からすると、おそらく二日といったところでしょうか。つらい思いをされると思いますが、死ぬことは滅多にありませんので、どうか安心してください」
さも些末なことであるかのように言ってのけるシスに対し、ランドルが腹を立てるのも無理はないだろう。思わず食ってかかっていた。
「前から思っていたが、癒やすだけじゃだめなのか? 苦しみから逃れるためには、別の苦しみを味わう必要があるって、どう考えてもおかしいだろうが」
「贅沢を言わないでください。人間は愚かですからね、神への感謝と畏敬の念を忘れないためには必要なことです。それに代償もなしに怪我や病気が治るなんて虫のいい話、あるわけないじゃありませんか」
「それを叶えるのが奇跡だろうが――あ、まずい、もうきやがった……」
びくりと躰を強ばらせると、快復したはずのランドルの顔色がみるみるうちに青ざめて、声に震えが混じりはじめた。
「さあ横になって、お兄さんはゆっくり休んでください。わたしもときどき様子を見にきてあげますから」
シスが手を添えて、ランドルをそっと寝台に寝かせる。その表情と声は慈愛に満ちているように思えなくもないが、それを向けられる側は気にもしない。
「こ、この苦しみを消せないなら、お前は来なくて、いい……ほかの女を寄越せ……乳のでかい女がいい……」
「――本当に失礼な人ですね。苦しみを軽くしてあげることはできませんが、わたしなりに、お兄さんには早く元気になってほしいと思っているんですよ。その証拠に、お兄さんが元気になる言葉をかけてあげましょう」
「本当だろうな……いま、余裕ないんだ、つまらんこと言ったら、耐える自信はないぞ……」
焦点を合わせるのもひと苦労ながら、ランドルは威圧の視線を送る。
「お兄さんは今回の依頼に際して、謎の魔術師との予期せぬ戦闘で負傷されました。そこで今回の報酬についてですが、お詫びとお見舞い、それに情報料の分を上乗せしておきます。もちろん『ご満悦特別奉仕』もです。わたしから店の娘たちに『お兄さんがとても頑張って、つらい目にあいながら、素晴らしい仕事をしてくれた』と口添えしておきましょう。絶対満足していただけるとお約束します」
「うっ、うう……や、約束だぞ……」
「ええ、約束です。つらい苦しみも、ご褒美があると思えば頑張れるでしょう。それではお休みなさい、お兄さん」
シスの返事を聞いて、ランドルは糸が切れたように寝台へ沈み込んだ。
だが眠れるわけではない。苦しみの時間はここから始まるのだ。
◇◇◇
その後、ランドルはシスの見立てどおり二日間苦痛に苛まれることになったが、快復して起きあがると、むしろ怪我をする以前より躰が軽くなっている。爽快なほど調子が良い。
(こいつは……いまの俺の状態なら……)
はやる気持ちを押さえきれず、客室を飛び出した。
件の約束を履行させるためである。
『ご満悦特別奉仕』。
床を払ったランドルの頭には、すでにその言葉しか浮かんでいない。




