29 翡翠
月の隠れた夜であった。
日暮れからそれほど経っていない時刻にも関わらず、雲にすっぽりと覆われた王都はまるで真夜中のように闇が深い。
それでも人通りが絶えていないのは、夏が近づくにつれて次第に暑くなっていく夜を、屋内で過ごしたくない者が多いからだろう。
ケネルを斬った日の翌晩、竜吼川に架かる橋のたもとでランドルは佇んでいた。
薄手の黒いローブを纏い、フードを目深に被って正体を隠している。
人を待っているのだ。
橋詰めの橋灯の傍には人待ちをしている者がほかにも何人かいて、ランドルと同様に暇を持て余している。そのうちの一人がため息をついた途端、なにかに気づいて顔を綻ばせると、通りのほうへ駆け出した。そして待ち人である女と合流した男は、今度は通行人となって橋を渡っていく。こうして望まぬ見送りをするはめになったのは、いったい何度目のことなのか、ランドルはもう憶えていない。
(まだか。そろそろ来てもいい頃のはずだ……)
顔を上げて川上へと目を向けたが、その先に望んだ光景はなかった。
待ち人はいまだ現れない。
思わず舌打ちが漏れそうになるのを、すんでのところで堪えた。
(どうして俺が他人の行動に一喜一憂する必要があるんだ。いまさら焦ったところでなにが変わるわけでもない。素人じゃあるまいし、でかく構えていればいい)
思い直して、すぐさま落ち着きを取り戻したのはさすがのものだ。
この呑気とも言えるふてぶてしい態度は、命のやり取りを幾度もくり返してきた者が体得する平常心を保つ方法であり、いまこのときに必要なものであった。
右手側で流れる竜吼川を二艘の荷舟が下っていく。
それを見送りながら、ランドルは目前に迫る大仕事のことを思い、苦笑した。
(我ながらひどい方法を考えたもんだ。賢いやつならもっと上手い方法を思いついたかもしれんが、俺はこれをやるしかねえ。それにどの道、賢いやつはこの舟渡しを引き受けたりしないだろう。だからこれでいい。――下手に賢くなって逃げ出すよりは、俺でも思いつく馬鹿げたやり方で挑むしかない)
男はやるか、やらないか、そのどちらかしかない。
これはかつてランドルがシスに言った言葉だ。
そして当然、ランドルはやる側の男である。
(――ん?)
予感があって、川上を睨んだ。
夜闇から染み出すように、一艘の舟がゆったりと下ってくる。
舟影は遠く、乗っている者が誰であるかなど、とても判別できるものではない。
だがランドルは、あの舟の乗客こそが待ち人であり、標的であることを半ば確信していた。
それは理屈によるものではない。傑出した剣士が、極限まで研ぎ澄ました集中によって感じ取ることができる予知にも似た感覚――すなわち直感によってである。
舟の近くの川岸に注意を向けると、通行人の持つ角灯が不自然に明滅していた。
通行人というのは舟を尾行中のポストフであり、角灯に覆いをして、こちらに合図を送っているのだ。すなわち、ワルド衛兵局長がそちらに向かっている、と。
今夜は『つつじ苑』で日光会の会合がある。そこへ行くには必ずここを通るのだ。
(待ち人来たれり、か)
吸い込んだ息をゆっくりと吐き出して、全身から不要な力を抜き去る。
舟の速度を見極め、ランドルはその場を離れて橋を渡り始めた。
一歩、また一歩と欄干沿いに橋を進んでいく。
橋ですれ違う者も、追い越していく者も、もう彼の意識に入らなかった。
まだ舟とは距離がある。
舟に吊された舟灯の灯りは頼りなく、この暗夜では乗客の顔までは判別できない。
しかし、一月以上かけて、ずっとワルドの監視を続けてきたのだ。
たとえ暗闇で顔が見えなくとも、見誤るわけがない。
舟に乗っている者は全部で四人。
そのうち一人は船頭だ。船尾に立ち、櫂で舟を自在に操っている。
そして残りの三人――これは間違いなく、見慣れた者たちだ。
先頭に金の長髪の若い騎士、そして二番目に標的のアレクシス・ワルド、三番目が赤毛で巨体の中年の騎士という順番だ。
繋留会から設けられた期限まであとわずか。
いまこのときが、ワルドの舟渡しを行う最後の機会になるだろう。
しかし、ランドルの胸にあるのは、焦りや恐れではなかった。
それは火だ。激しく燃え盛る炎ではない。静かに、だが絶えず赤く熱を持つ熾火が、彼の心にあの日からあった。それはたやすく消えることのない火だ。
この復讐をギンロは喜ぶだろうか。
否、喜ばないだろう。軽蔑されるかもしれない。
それに彼は、もうこの世にはいない。
だからランドルは、自分のために剣を振るうのだ。
(それじゃ、やるか)
舟が橋のすぐ近くまで迫っていた。
ここまで来れば、舟灯で照らされた乗客の顔も判別することができる。
ワルドの顔がはっきりと見えた。万に一つも人違いはない。
ランドルは舟の進路を確かめ、そっと欄干から離れた。
勝負は一瞬だ。その瞬間を決して逃してはならない。あとは度胸あるのみである。
そして度胸にかけては、ランドルはあり余るほど持っていた。
舟が橋をくぐろうとする、その時だった。
川上のほう、すなわち舟の後方から、けたたましい水音が響いた。
突然の異変に、ワルドや護衛の騎士たち、船頭までもが揃って振り返り、音の正体を確かめようとする。間を置かず、川上から男の大声が上がった。
「身投げだ、誰か落ちたぞ! 身投げだ!」
この声の主はポストフである。
身投げというのはもちろん嘘で、シスの配下たちが大荷物を竜吼川に投げ込んだのだ。
ポストフの声を合図に、ランドルはローブを脱ぎ捨てた。
その顔には白い仮面がつけられており、躰は肌着一枚である。
剣を抜いて橋下の様子をすばやく確かめると、少しの躊躇いもなく欄干を飛び越えた。
夜の闇を裂いて、重力に従い落下しながらランドルは剣先をその標的へと向ける。
舟上の者たちは皆、いまだ川上の騒ぎへ意識を奪われていた。
すべては水音が響いてから、ほんの数瞬の出来事である。
橋上から音もなく迫ったランドルは、さながら垂直降下して獲物を狙う翡翠の如くワルドへ襲いかかり、その剣を突き立てた。
剣を離すと同時にワルドを両足で蹴飛ばし、その反動で竜吼川へと着水する。
一方、蹴られたワルドの躰は舟を挟んで反対側へ崩れるようにして落水した。
舟の左右で水飛沫が大きく立った。
衝撃で舟が大きく揺れ、舟上に残された者たちも大きく体勢を崩す。
若い騎士はワルドに続いて川へ落ち、中年の騎士は船縁に縋ってなんとか落水を免れた。
一人持ちこたえた船頭はさすがのものだった。
「くそ、やられた! 局長はご無事か?」
若い騎士が川面から顔を出し、船縁に掴まると、辺りを見回しながら叫んだ。
完璧に不意を突かれ、状況の把握ができていない。
かろうじて舟に留まることができた船頭は狼狽していたが、どうにか腕を上げて、若い騎士の真後ろを指し示す。
「な、なんてことだ……」
その惨状を見て、若い騎士は思わず嘆いた。
黒一色の川面に、護衛対象であるワルドが浮いているのだ。
そしてそれを目にした瞬間、彼は本能的に上役の死を悟ってしまった。
「局長、局長!」
無駄とわかりつつも、声をかける。
叫びに近いその声を聞いて、舟の反対側を警戒していた中年の騎士が異変に気付いた。
彼はランドルによるワルド襲撃を、舟上の位置関係により見ていない。
しかし、この非常事態である。状況を見て、すぐさま起きたことを理解した。
「ああ、なんてことだ……お前、賊の顔を見たか?」
「いえ、本当に一瞬でしたから……賊め、いったいどこにいる。逃げたのか、それとも近くに潜んでいるのか」
若い騎士は船頭に命じて川面へ舟灯をさし向けさせたが、夜の闇に染まった竜吼川を照らすにはとても光量が足りていない。かろうじて照らし出せたのは、川水に混じるおびただしい量の血だけだ。賊の姿などどこにもありはしない。
襲撃者がとうに逃げ果せたことは明白だった。
中年の騎士が亡き上役に代わって、場を取り仕切る。
「とにかく、局長のご遺体を引き揚げろ。それから舟を岸につけてすぐに応援を呼ぶ。急がなくては。局長が狙われたとなれば、おそらく襲撃はこれだけでは済むまい」
二人の騎士は顔を見合わせ、これから自身とその周りに降りかかるであろう困難を思い、息を呑んだ。そしてそれは近い未来に現実となる。
こうして王都の治安を預かる衛兵局長、アレクシス・ワルドはその人生を終えた。
声を上げることなく、痛みや恐怖を感じることもなく、彼はただ死んだのだ。
◇◇◇
道行く人々が何事かと足を止め、川岸や橋上からその様子を眺めている。
だがその下手人たる男はすでにこの場から消え去っており、さしたる盛り上がりはない。
そんな中、橋上の野次馬の一人が妙なものを見つけた。
一枚の白い仮面だ。
『天誅』と書かれたその仮面は、いま王都で噂されている夜回り仮面と呼ばれる者が、悪を斬り捨てた際に証として残すとされるものであり、いま目の前で起きたばかりの事件が彼の手によって行われたことを示していた。
夜回り仮面が、ワルド衛兵局長を斬った。
この事はさまざまな憶測を生み、一時ばかり王都を賑わわせたが、次第に誰も口にしなくなり、やがて夜回り仮面の存在は忘れ去られることになる。
なぜならこれ以降、夜回り仮面は二度と王都に姿を現さなくなったのだから。
次回で完結となります。
ぜひ最後までお付き合いください。




