28 命乞い
「待て、待ってくれ!」
闇に包まれた倉庫に、ケネルの悲痛な哀願が響いた。
なんとかこの場を切り抜けようと、傷を庇いつつ、蹌踉としながら後ずさる。
痛み、怒り、そして恐怖。おそらくそのすべてが一体となって、彼の声を震わせている。
それは人の言葉ではなく、追い詰められた獣の呻きのように聞こえた。
「また喋れるようになったな。この期に及んで、いったいなにを待てというんだ」
ランドルがゆっくりと距離を詰めていく。
軽口を叩く反面、その表情には少しの油断も生じていない。
手負いの獣の恐ろしさを知っているからだ。
「取引しよう、そう、取引だ! 貴様の望みはなんだ? 金は欲しいだけ用意する、望むなら女も都合しよう。頼む、貴様のことは黙っていると約束する。だから私を見逃してくれ」
「自分が殺そうとした相手に向かって、よくもまあ、虫のいいことを抜かせるもんだ。取引だと、笑わせるな。俺の望みはお前の命だ。それにはお前の意志も都合も関係ない、俺のほうで勝手に奪う。――それにな……」
ランドルは自嘲気味に笑う。
「幸か不幸か、金と女を都合してくれるやつなら、もう間に合ってる」
後ずさるケネルの踵が壁にぶつかった。
退路に行き詰まったとき、彼はランドルの正体にようやく思い当たったようだ。
「そうか。貴様、渡し守とか呼ばれている殺し屋だな。だったら私が貴様を雇う。報酬はいまの雇い主の三倍払おう、必ず損はさせない。だから鞍替えして、私を魔術師協会の追っ手から守ってくれ。貴様とて、どうせ人を斬るなら、正義のために剣を振りたいだろう」
「――正義、だと?」
ランドルが顔をしかめたことに気づかず、ケネルはまくし立てる。
「そうだ、正義だ。私は正義のために剣を振っている。力なき無辜の民を守るため、この王都に蔓延る悪党を斬っているんだ。貴様が私の手を取るなら、それは正義に味方することだ。約束しよう、貴様の罪は問わない」
「そいつは結構なことだな」
「それなら……」
ケネルが愁眉を開きかけるのを、ランドルが止めた。
「だが一つ聞きたい。お前が本当に正義なら、ギンロをなぜ殺した?」
「ギンロ? 知らないな、いったい誰のことだ」
平然と答える様子は、本当にギンロのことなど知らないようだ。
悪びれることもないその態度は、ランドルの腹の底にある熾火を掻き立てた。
「衛兵の密偵をしていた小男だよ。数週間前、裏通りで胸を撃ち抜かれ、首が斬り落とされていた。まさしくお前の手口だ。――覚えがないとは言わせないぞ」
わずかに間があって、ケネルは頷いた。
「ああ、あの男がギンロか。たしかに私がしたことだ。だがあの件は仕方がなかった」
「――仕方がなかった、だと?」
「そうだ、あれは悪党を成敗しに向かうときだった。連中のねぐら近くまで行ったとき、そのギンロという男が突然立ちはだかったんだ。『悪党とはいえ、勝手に殺すなんて間違ってる』などと言って正義の遂行を邪魔したあげく、しつこく私を捉えようとした」
「それで殺したのか」
暗夜の水底へ沈んでいくかのように、ランドルの目から光が消えていくことに、ケネルが気づくことはなかった。
「だから仕方がなかった! もし私が捕まればどうなる。いったいだれが悪党どもから市民を守る? だれが正義を果たすというんだ!」
「そいつは衛兵の役目だろ、お前のではなく」
「衛兵はたしかに正義だ。だが彼らだけでは、探索の目も手もまったく足りていない。だから私は立ち上がった、弱者を守るために! 私にはそれを成す力がある。そのために多少の法を犯そうとも、それは正義のためにしたことだ、市民のためになることだ。正しき人たちは、私の行いに、必ず感謝する」
壁に追い詰められ、剣を向けられている立場にも関わらず、ケネルはまるで演壇に立ち、聴衆を前にしているかのように、熱く、そして淀みなく語りかけた。
彼は自らの言葉に酔い、掲げる正義に酔い、そして血に酔っていた。
正義の名のもとに振るう剣の返り血に。
だが酔漢が演壇に立ち、戯言を口にしていたなら、誰かに水を差されるのが道理だろう。
たった一人の聴衆であるランドルが、ケネルへ冷や水を浴びせた。
「市民を守ろうと必死になっていたのは、ギンロも同じだろう。――俺が納得する答えをまだ聞けていないぞ。ギンロをなぜ斬った? 仕方がなかった、で無辜の民を斬るのが、お前が口にする正義なのか」
「正義に決まっている! それに密偵が無辜の民だと? そんなわけないだろう、密偵など所詮は薄汚い前科者。どうせ赦免か、その日暮らしの日銭を稼ぐために、仕方なく路地裏をかけずり回っているだけの溝鼠に過ぎない。真の正義のために立ち上がったこの私が、前科者風情に邪魔をされてたまるか! いいか、私のしていることはな……」
言い終えるのを待たず、ランドルの剣が閃いた。
喚き散らすケネルの声が途切れ、その躰が前方へと崩れる。
頭を斬り離された頸部から、おびただしい量の血が広がっていく。
すっかり静まり返って、一人立ち尽くすランドルは、足下に転がった生首を見下ろした。
ふと思い立って身をかがめると、生首から仮面を剥がしてその死に顔を曝く。
大きく見開かれたその目は、まるで生前と変わらずに己の正義を訴えているかのようだ。
誰もいなくなった倉庫で、ランドルが思わず口を開いたのは、きっとそのせいだろう。
「殺しに正義もへったくれもあるか。どれだけ立派な言葉と理由で飾ろうと……」
言いさして、小さなため息を漏らす。
「――人殺しなんだよ。俺も、お前も」
物言わぬ相手へ、あるいは自身へ向けて、言い聞かせるように吐き捨てた。
その言葉に返事をする者は、もういない。
ランドルは剣を拭って鞘へ収めると、ある物を懐にして、暗い倉庫をあとにした。




