25 橋上の大乱闘①
『つつじ苑』に入っていくワルドを見送ってから一週が過ぎた。
ランドルは橋の中央で欄干にもたれ、足下に流れる竜吼川をぼんやりと眺めていた。
夕焼けに染まる川面を揺らし、荷舟がゆっくりと下っていく。
あれからワルドの舟渡しに進捗はない。
貴族のような大物を狙った舟渡しには、通常であれば数ヶ月がかり、場合によっては一年を費やすことだって決して珍しくはない。
ワルドの衛兵局長という地位を考えれば、決して進みが悪いわけではないのだ。
だが今回に限ってはあまり時間をかけていられない。
シスによると、あと半月以内にはなんとしてもワルドを渡すよう、繋留会から言われているとのことだ。しくじれば、後任者によって無関係の者を巻き込む強行策が実行されることになるだろう。
そしてランドルとシスの二人には破滅が待っている。
ランドルの心奥には焦りが生じていた。
このまま地道に尾行や張り込みを続けていても、期限までに好機が訪れることはない。
この数日で、その予感が半ば確信に変わりつつある。ポストフも同じ考えのようだ。
(さて、どうするかな……この俺が明確な意図もなくただ好機を待っている、なんて受け身の姿勢をとってる状況がよくない。だが無策で突っ込んで勝てる相手じゃないのはたしかだ)
ランドルという男がこれほど慎重になるのは滅多にないことだ。
本来、勝ち気で大胆不敵という彼の気質は、そのまま剣士としての強みになっている。
しかしその長所に、いまは翳りが見える。それほどまでに相手は強い。
(だが退くわけにはいかねえ)
ランドルは拳を固く握り締め、いつの間にか這い寄ってきていた弱気を払う。
(これ以上、うだうだ悩んだって仕方がねえ。厳しい戦いになることなんて、はじめからわかっていたんだ、いまさら尻込みしてどうなる。こうなったら……)
弱気が消えたことで、それまでいくらか抑えられていた焦りが一気に勢いづいた。
無謀としか言いようのない考えがランドルの頭に浮かび、どんどん膨らんでいく。
そのときだった。
ふと気配を感じて視線を脇へ向けると、いつの間に現れたのか、シスが立っていた。
いったいどういうわけか、ランドルはこれまで一度も彼女の足音を聞きとれたことがない。
「こんな所にいましたか、お兄さん」
「なんだ、お前か」
「なんだ、とはなんですか。親しき仲にも礼儀あり、ですよ」
「俺とお前は金だけの関係だろうが。それでわざわざなんの用だ? 見てわかるとおり、俺はいま忙しいんだ」
「忙しいって、たったいま、物思いにふけっていたじゃありませんか」
シスは肩をすくめた。フードに隠れていても、呆れ顔をしているのが目に見えるようだ。
「――わたしがこうして会いにきた理由ならわかっているのではありませんか? ここ数日、お兄さんが報告に顔を出さないからですよ」
そう口にするシスの口調には、非難というよりも諭す色が強く表れている。
「報告にはポストフが行ってるんだ、それで事足りるだろ」
「足りませんよ。お兄さんが来てくれないと、直接釘を刺せないじゃありませんか」
「どういう意味だ」
ランドルは苛立ちを隠せず、シスを強く睨んだ。
しかしその怒りを受けて、シスはいささかも狼狽えることはない。
「ポストフくんからの報告を聞く限り、そろそろ途方に暮れる頃だと思いましてね。顔を見せなくなったのがいい証拠です。お兄さん、自棄を起こしてもらっては困りますよ」
シスの戒めに、まさしく無謀な戦いへ赴こうとしていたランドルはばつが悪そうに答える。
「自棄じゃない。ほかに方法がないから、残った手段を取ろうとしているんだ。『俺は討ち死にしようと一人でもやる』と、お前にそう言ったはずだ。その約束を守ってなにが悪い。俺はやると言ったらやる。これまでもそうしてきたし、これからもそうする!」
それがランドルの意地であり、彼なりの他者に対する敬意の払い方でもある。
シスもそれをわかっているのか、その言葉を否定することはしなかった。
代わりに、ひとつの問いを投げかける。
「――お兄さん。この役目を受けたとき、わたしに言った言葉をほかに覚えていますか」
「俺が言った言葉?」
急なことで、ランドルは記憶を掘り起こそうとするが追いつかない。
シスはくすりと笑って、ランドルの返事を待たなかった。
「『俺がお前に送る口説き文句は、俺の腕を信じろ』、お兄さんはわたしにそう仰いました。だからこそ、わたしはこの役目から降りなかったんです。わたしが信じるお兄さんの腕とは、焦って事をし損じるような三流のものではありません。まだ期限は半月ほど残っています。どうか最後の一日まで全力を尽くしてください。お兄さんなら必ずできる、わたしはそう信じています。それに……」
なにか重大な理由があるかのように、シスは思わせぶりに言葉を切った。そして……
「――その場限りの口説き文句を女へ贈る男なんて、約束を守れなかった男より、ずっと格好悪いですよ。わたしが信じているんですから、どうかこれからも信じさせてください。わたしたちは運命共同体なんですから」
反論の余地などあるわけないと、シスは満足げに締めくくった。
ずいぶんと言いたい放題に言われてしまった。普段なら激昂して言い返すところだ。
「――ああ、わかった。わかったよ、お前の言うとおりだ」
だがランドルはつい笑ってしまった。笑って、シスの言い分を認めた。
「お前にしては俺をその気にさせるのが上手い。いったい誰の受け売りだ」
「おや、前に言ったはずですよ。『わたしは立派な大人の女です』って。男を手玉に取ることなんて朝飯前なんですよ。とりわけ、単純なだれかさんのはね」
「人が珍しく褒めてやれば、すぐ調子に乗りやがるな。この小便臭いガキは」
互いに顔を見合わせ、再び話が拗れるかと思われた。
だが幸か不幸か、そうはならなかった。
「おい、道端で女と痴話喧嘩とはいいご身分だな。また会えて嬉しいぜ」
突然、知らない声に呼びかけられた。向き直ると、がらの悪い大男が二人、にやつきながら立ちはだかっている。とても友好的な人物には見えない。
「お知り合いですか、お兄さん」
「いや、憶えてねえな。お前ら、悪いがどこで会ったか教えてくれ。言ってくれれば思い出せるかもしれん」
この答えに大男たちは腹を立てたようだが、ランドルは気にも留めない。
本当に記憶にない男たちなのである。
じつはこの二人、二月ほど前に娼館通りで酔漢に暴行を働いていたところを、ランドルに追い払われた男たちだ。しかし当のランドルは、そうした因縁のことなどすっかり忘れていた。
彼にとって、そうした騒ぎは日常茶飯事でしかない。
「とぼけやがって。まあいい、とにかく俺たちはお前に借りがあるんだ。そいつをいま、返させてもらうぜ」
まるで獣が唸るかのように、大男の一人は指の関節を鳴らした。
だがそうした威嚇行為を、ランドルはまったく意に介さない。
「借りだと? 前に酒場で一杯奢ってやったかな。ま、俺にとってはそんなこと、珍しいことでもないんだ。お前らの気持ちは嬉しいが、奢った分はそのままにさせてくれ。悪いが、いま忙しいんだ」
「ごちゃごちゃうるせえ! なに寝ぼけたことぬかしてやがるんだ、てめえは!」
耐えかねた大男の一人が怒声を上げた。あまりの大音声に、橋を行き交う人々が一瞬足を止めるが、もめ事の気配を察して足早に通り過ぎていく。
入れ違いに、ならず者たちが駆けつけてきた。どうやら大男たちの仲間らしい。
はじめの二人と合わせて八人もいる。
橋の欄干を背にして、ランドルたちは取り囲まれてしまった。
「一夜限りの飲み友達、というわけではなかったようですね」
「そんなことははじめからわかってる。誰がどう見たって、恩返しにくるような面してないだろ、こいつら」
「こら、人を見かけで判断してはいけませんよ」
この状況にあっても、ランドルとシスは少しも慌てふためくことはない。
先日、ランドルに叩きのめされた方の大男が居丈高に一歩踏み出した。
「この前はよくもやってくれたな。全身の骨をへし折って、二度と舐めた口をきけないようにしてやる」
「だからこの前ってなんの話だ。お前らにとって俺は忘れられない存在なのかもしれんが、俺のほうではお前らみたいなろくでなしを、数え切れないくらい相手にしてるんだ。いちいち憶えてられるか」
「そうか。だったらこれから起こることは、一生忘れられないようにしてやるよ」
大男は腰に下げた棍棒を掴み、反対の手のひらを叩いて見せた。
仲間たちも各々の武器を手にする。
自分たちの優位を疑っていないのだろう、下卑た薄笑いを隠すこともしない。
「――あの、騒ぎになって注目されると面倒なので、わたしは先に帰らせてもらいますよ。お兄さん、用事が済んだらすぐ来てくださいね」
シスが他人事のようにこの場を去ろうとすると、大男の一人が道を塞いだ。
「失礼、退いていただけませんか。――あっ!」
薄い胸を突き飛ばされて、シスはランドルの傍へよろめいて退った。
「なにやってるんだ、お前は。こいつらが大人しく帰してくれるような紳士に見えたのか。邪魔だから俺の後ろで大人しくしてろ。すぐ片付けてやる」
「あのですね、この状況はお兄さんのせいで生じていることをお忘れなく。殺すと面倒ですから気をつけてくださいね。ああ、それと自分の身は自分で守れるので、わたしのことはお構いなくどうぞ」
シスが平然と言った。その言葉に嘘はないとみて、ランドルは内心ほっとする。
ランドル一人であれば、この状況は微塵も問題ないのだが、シスを守りながらとなれば、何人かの腕や足を斬り飛ばす必要がある。舟渡しを控えている状況で、それはいかにもまずい。
「――だそうだ。お前らよかったな、運が悪くなければ死なずに済むぞ。安心してかかってこい、数頼みの腰抜け野郎ども」




