22 決意
『蛇穴』を飛び出すと、ランドルは勢いのままに王都を徘徊した。
通り過ぎる街並みも、すれ違う市民の姿もランドルの目にはまったく入らない。
いま彼の頭にあるのは、見切りをつけたはずのワルドの舟渡しのことだけだ。
もともと乗り気でなかったとはいえ、一度引き受けた監視依頼で成果を上げることができなかった。これは彼にとって敗北といってもいい。
このままでは後任の遣り手による強行策によって、無関係の者が犠牲になるかもしれない。
だがワルドの舟渡しは不可能といってもよく、引き受けるつもりになど到底なれない。繋留会を止めることも同様だ。
ランドルは正義の代行者ではない。遵法者ですらない、一人の殺し屋だ。できることには限界がある。しかし、頭でわかっていても、湧き上がる感情がなくなるわけではない。
自身の不甲斐なさへの怒りを糧に、ランドルはただ足を前に動かし続けた。
日が沈み、酒場が賑わってくる頃になると、散々歩き回ったせいか、激情もいくらか静まってきた。角灯の灯りに照らされた酒場の看板には、いずれも見慣れない店名と絵が並んでいる。
こんな日は知らない店へ飛び込むのも悪くない。
灯りに誘われるままに手頃な酒場に入ると、ランドルは手当たり次第に酒と料理を頼んだ。
酒を飲むことで事態が改善することはない、そんなことはわかっている。
だがいまは自棄酒を呷り、この不愉快な気分を頭から追い出してしまいたかった。
鯨のように飲み、料理をむさぼり、居合わせた客にも気前よく酒を振る舞って騒いでいると、いつしか夜が明けている。酔いと眠気で頭はすっかり重かった。
店の外へ出ると、薄曇りの空が少しずつ明るくなりはじめ、通りには疎らに人の姿が見えはじめている。早朝のひんやりとした空気が、酒で火照った躰には丁度良い。
ランドルはぼんやりと家路についた。
一晩中飲み明かしたことで、財布はずいぶん軽くなったが、気持ちも少し軽くなっている。
ランドルは長々と物事を引きずらない性質だ。罪悪感など、酒の力と時の流れで大方処理できてしまう。そうでなければ到底生きていけないからだ。
(――今日はやけに疲れた。うちに帰って、気の済むまで寝るとするか)
角を曲がって裏通りに入ると、なにやら前方が騒がしい。
早朝にも関わらず、人だかりができているのだ。
(朝っぱらから、なんの騒ぎだ?)
ランドルはお節介な男ではあるが、物見高いわけではない。
だからこの時、騒ぎを覗いてみようと思ったのは、ほんの偶然に過ぎなかった。
「こんな朝から大勢で集まって、なにがあったんだ?」
「殺しだよ。やられたのはこの辺りのやつじゃないが……」
「殺し? 酔っ払いの喧嘩か」
酔っ払いやならず者の喧嘩で人が死ぬことなど、王都ではさほど珍しいことではない。
いまいるような裏通りではなおのことである。
「そうじゃない。自分で見てみるといいさ」
不審に思いつつ、ランドルは人をかき分けて渦中へ進んでいくと、それを目にした。
小さな、けれどがっしりとした男の背中が地面に倒れていた。
その躰にはいったいなにで穿たれたのか、赤黒い風穴が空けられている。
鋭い斬撃で首を刎ねられ、斬り落とされた頭部が遺体の傍に転がっていた。
すっぱりと斬り割られた傷口を見れば、下手人の技量の高さと、その手にする長剣が尋常ではない切れ味を持っていることは明らかだ。躰に空けられた風穴と、首から流れ出た大量の血が遺体の周囲へと広がって、辺り一面は凄惨な血の海と化していた。
この惨状を作り出した下手人に、ランドルは心当たりがある。
否、それ以外には考えられなかった。
目の前の遺体はこうなっていたかもしれない、かつての自分の姿であるからだ。
だがそんなことはどうでもいい。
ランドルは薄暗い通りにうち捨てられ衆目に晒されている、変わり果てた姿の男の名を呼んだ。それは知り合って間もない知己の名だ。
「――ギンロ」
返事はなかった。あるはずもない。
目の前にあるのは、かつてギンロと呼ばれた男の亡骸であって、ランドルが酒を飲み交わす約束をしたギンロという男は、すでにこの世のどこにもいないのだ。
このウェスタリア大陸には、魔術や神の奇跡といった超常の力が存在している。
シスのように癒やしの奇跡を扱えるものは希少であるが、たしかに存在していて、通常では助かり得ない怪我人を幾人も救ってきた。
しかし、魔術や奇跡は決して万能ではない。
癒やしの奇跡をもってしても、ギンロに再び酒を飲ませることはもうできない。
死んでしまった者は二度と生き返らないのだ。
ランドルはギンロの亡骸をじっと見つめる。
多くの命をその手で奪ってきたランドルであるから、冷たくなってしまったこの小さな気のいい男が、もう二度と動かないことをすでに受け止めきってしまった。
先日、ギンロが夜回り仮面の正体に迫る発言をした際、なにか手回しをして、彼を足止めすべきであったとランドルは悔やんだ。近日中に自分が夜回り仮面を渡してしまうのだから、大丈夫だと高を括っていたのである。
ところが、その予想に反して、ギンロはすぐに夜回り仮面へたどり着いた。
ランドルが思うよりはるかに、彼は優秀で勤勉な密偵であったのだ。
(すまねえ。お前さんは俺が見殺しにしたようなもんだ。あの野郎の仮面は俺が必ず……)
ふと気づいて、現場を見回す。
夜回り仮面が去り際に置いていくらしい、『天誅』と書かれた白い仮面。
あるはずのものが、どれだけ探してもどこにも見当たらない。しかし、遺体の傷口からして、この凶行が夜回り仮面の手によるものだということは間違いないのだ。
(――ないじゃねえか。わざわざ自分の仕業だと喧伝するために残していく仮面が。普段は『天誅』なんて嘯いて人を殺しておきながら、自分を追い詰めた密偵を殺したことが知られるのは嫌だっていうのか。だったら殺すな。虫がいいにもほどがあるだろ。気に入らねえ、そんな都合のいい正義があってたまるか。夜回り仮面、あいつには必ずけじめをつけさせてやる。それだけじゃねえ! こいつの裏に潜んでいるやつも同じだ、生かしてはおかねえぞ!)
そう決意したとき、ランドルはすでに行動に移っている。
踵を返してその場を後にすると、裏通りを出て目的地へと足早に向かう。
酔いはすっかりと醒めてしまった。行き先は一つしかない。
ランドルは『蛇穴』の看板をくぐり、女中の案内を待たずに店の奥へ乗り込んでいくと、シスの書室の扉を勢いよく開け放った。
「よし、いるな」
ランドルの視線の先、シスはいつもと変わらぬ姿でそこにいた。
臙脂色のクロークを纏い、フードを目深に被って、机の前に座っている。
なにもかもが、昨日この部屋を飛び出したときと変わっていない。
「お兄さん? 飛び出していったかと思えば、いきなりご挨拶ですね。なにか御用ですか?」
そう口にするシスの声には、ランドルに対する怒りや呆れは浮かんでいない。
彼女の立場を思えば、決して平静ではいられない状況のはずだ。
ランドルに対して、思うところもあるだろう。
だがいまのランドルは、シスの顔色を窺いにきたわけではない。
「シス。お前、ワルドの舟渡しは気が進まないって言ったよな」
「これは思わぬ話題ですね。ですが、はい、言いました。それがどうかしましたか?」
質問の意図を測りかねているのか、シスの口調は淡々としている。
駆け引きは必要ない。ランドルは自分のやりたいようにやるだけだ。
「夜回り仮面だけじゃなく、ワルドの野郎も俺がやる。手伝うつもりはあるか?」
ランドルがこの場に立っている理由を知り、シスの声が威厳を帯びる。
「お兄さん。念のために言っておきますが、わたしと組めば、もう引き返すことはできませんよ。明日、繋留会で会合が行われます。ワルドの舟渡しを放棄する最後の機会です。それを過ぎれば、失敗することは文字通りの破滅を意味します。わたしも、そしてお兄さんもです」
シスの言っていることはすべて事実だろう。そのことはよくわかっている。
すべて承知のうえで、ランドルは笑ってみせた。
「わかってる、だから聞いてるんだ。明日お前がワルドの舟渡しを放棄すれば、破滅は避けられても相当の痛手を負うんだろ、黙って受け入れるつもりか? 俺は討ち死にしようと一人でもやるが、お前の協力があれば楽になるのはたしかだ。だが成功の保証はしてやれない。俺がお前に送る口説き文句は『俺の腕を信じろ』だ。どうだ、乗るか?」
シスはすぐに返事をしなかった。
時刻を告げる鐘塔の鐘の音が窓の外から聞こえてくる。その間も、ランドルはシスから視線を外さなかった。やがて鐘の音が止んだとき、シスが沈黙を破った。
被っていたフードを外し、ルビーの瞳がランドルを見つめ返す。
「――いいでしょう、乗りました」
静かに差し出された雪白の小さな手を、ランドルは固く握り返した。
シスはランドルの顔を見上げ、柔らかく微笑む。
「これでわたしとお兄さんは、運命共同体というわけですね」
「やめろ、気色の悪いことを言うな」
ランドルが振りほどくように握手を離すと、シスは思い出したように尋ねた。
「それにしても、いったいどういう心境の変化ですか?」
「なに、朝まで酒を飲みながら考えをまとめただけだ。理由は二つある。一つは、ワルドが夜回り仮面と手を組んでる以上、やつを見逃すことは我慢ならない」
シスはランドルとギンロの関係を知らない。
だからこの理由を聞いても、夜回り仮面への復讐のついでとしか理解できなかったはずだ。
ランドルにとって、大切な理由を。
だがそれでよかった。
「ではもう一つの理由は?」
シスが尋ねると、ランドルは大仰な仕草で答える。
「決まってるだろうが、『蛇穴』が潰れたら困るからだよ。俺はもう、この店じゃなきゃ満足できないからな。今度のことが上手くいったら、シス、本当に俺に感謝しろよ。この言葉の意味、ちゃんとわかってるだろうな」
しばらく呆然としたあと、シスが吹き出し、ころころと笑いはじめた。
今度はランドルのほうが呆気に取られることになった。
シスがこのように笑うさまを、彼はいままで見たことがない。
「いいでしょう。成功の暁には『ご満悦特別奉仕・超越版』を用意して、難業を成し遂げたお兄さんをおもてなしします。ぜひ御期待ください」
「よし、任せとけ」
この瞬間、ランドルとシスの二人にとって、最大の大仕事がはじまった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
今回で中盤が終わり、次回からいよいよ終盤となります。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。




