21 遂行不可能
ノナが再び訪れてから数日が過ぎた。
この日はワルド監視依頼の期日である。
夕刻に『蛇穴』のシスの書室を訪れたランドルは、開口一番、半月かけた監視依頼の成果を報告する。いつもの傲慢で軽薄な態度は微塵もなく、その顔は苦渋に満ちていた。
「シス、悪いが依頼は失敗だ。報酬はいらん。こいつは無理だ、諦めろ」
視線の先、机の前に腰掛けているシスは、いつもどおりの臙脂色のクロークを纏い、フードを目深に被っている。顔の上半分はすっかり隠れているが、呆れ顔をしているのは明らかだ。
シスは入室者の発言に驚きながらも、子どもをあやすように穏やかな声で宥めた。
「お兄さん。顔を見せたばかりで、性急に話を進めないでください。いいですか。落ち着いてゆっくり話してください。お兄さんはワルドの監視につき、舟渡しに有益な情報を得ることが今回の依頼でした。それが無理だと仰ってるのですか」
「そうだ。ポストフから経過報告は受けてるだろうが、その結果を俺が伝えてるんだ。ワルドの舟渡しは無理だ。俺の報告が疑わしいならポストフにも確認をとってくれ」
ランドルの珍しく真剣な態度に、シスも状況を察したのだろう。
しかしシスにしてみれば、「駄目でした」と言われたからといって、簡単に折れるわけにはいかない。なんとかランドルから情報を引き出そうと食い下がる。
「たしかに非常に困難との報告は受けています。ですが、うちで有益な情報を用意できなければ、繋留会から押しつけられたこの役目を、少ない代償で降りることも難しくなるんです。どうでしょう、舟渡しを実行するのはお兄さんではないのですから、弱気になる必要はありません。お兄さんはただ、現実的な方法を挙げてくださればいいんです」
シスは静かに手を合わせてランドルの答えを促す。
しかし、無理なものはどうしようもない。
「たとえ他人事だろうと、依頼として引き受けた以上嘘は言わねえ。お前のほうで、繋留会の連中にどう伝えようと構わないが、俺が挙げられる現実的な方法は、『無理だから手を引け』だ。ありゃ鉄壁だ、崩せねえよ」
それがランドルの出した結論であった。
「――理由を聞きましょうか」
答えるシスの声色は、冷たく無機質なものに変わっていた。
いまランドルの目の前にいるのは、軽口を叩いて応酬するいつものシスではなく、王都の闇社会の一翼を担う女主人だ。
彼女の抱えているほかの渡し守であれば縮み上がってしまうだろう。
だがランドルはここで物怖じするような男ではない。
「まず標的は一日の大半、あるいは終日を衛兵局で過ごす。敷地内に役宅があるから、一日を終えても屋敷に帰る必要がない。外に出るのはたまの外食と、王宮への登城、他貴族との交流くらいだ。移動は貴族向けの堅牢な箱馬車で行われ、御者台と客車に凄腕の騎士が護衛につく。経路は大通りしか使わない。貴族用の馬車だからな、道を譲られるから目的地まで止まることなく進める。移動中は狙う隙がない」
ランドルは時間をかけて自身で調べ上げた情報を滔々と並べていく。
その説明にシスは黙って耳を傾けていた。
「わかりました。では馬車をなんらかの手段で止めることができるなら、どうでしょうか?」
標的が動いているなら、なんらかの工作でそれを止めてしまえばいい。
そして王都で隠然たる勢力をもつ遣り手には、それを実現するだけの力がある。
「馬車を足止めすれば、当然大通りで斬り合いをすることになるな。だがそれが一番の問題なんだ。標的のワルドは客車から出てこないだろうが、護衛の騎士二人は相当強い。俺とそう変わらない腕をもったやつが二人、敵方にいると思えばいい。王都の渡し守にそれだけの腕をもったやつがいるとして、この依頼を引き受けるかは甚だ疑問だ。強いやつほど、状況を察して引き受けないぞ」
「並の渡し守では通用しないのはわかりました。仮の話ですが、お兄さんが舟渡しを引き受けてくれるならどうですか? 必要なら味方も用意するとして」
「言いたくはねえが、いくら俺でも一人じゃ無理だ。俺と同じくらい――いや、少し下でもいいが、あと三人は必要だ」
「お兄さん含めて四人も? それほどですか?」
予想外の答えだったのだろう。シスの声色に珍しく動揺が浮かんだ。
疑っているというより、信じられないといった様子である。
「あれだけの相手が本気で守りを固めれば、崩すのには相当の時間がかかる。だがこっちは時間をかけるわけにはいかない。正攻法でいくなら、数的優位は絶対条件だ」
シスはしばらく黙考した後、見切りをつけたのか、次の方法に切り替える。
「――いいでしょう。では移動中が駄目なら、外食先ではどうでしょうか?」
「すれ違いざまに仕掛けたいところだが、やはり奇襲は難しい。ワルドの外食先はどこも高級店だ。店内は広いし、自由に動き回るのも難しい。標的と距離を詰めるだけでもひと苦労だ。おまけにいつ、どの店に入るかは、ワルドの胃袋の気まぐれときてる。やつは予約が必要ない御身分らしいが、こちらは違う。戦場を選べないのは、奇襲側に大きな不利だ」
ランドルの説明を聞くにつれて、状況の厳しさを理解したのだろう。
依然として落ち着いて見えるシスであるが、部屋の空気が明らかに重苦しくなっていく。
「では、外食先で正面から挑んだ場合は?」
疑問を口にするシスであるが、おそらく答えはわかっているのであろう。
その答えを告げるべく、ランドルは口を開いた。
「正攻法で攻めるなら、ここでも敵の腕が問題になる。騎士ってのは対面戦闘の達人だからな。四方に意識を配らなくていい限られた空間での戦闘は、相手がもっとも得意とするところだ。どうしても剣を交える必要があるなら、屋外で仕掛けるべきだ」
「ですが、屋外での襲撃は難しいということでした」
「そうだ、屋外も屋内も難しい。理由は単純明快だ。敵が強い、それに限る」
ランドルはフードで隠されたシスの目を見据えて言った。
シスは黙って考え込んでいる。
「ああそれと、実現可能な手段なら一応存在する。一人から少人数の渡し守に頼ってたら不可能だ。渡し守に限らず、王都に燻ってる傭兵どもをかき集めて、数の力で押しつぶせ。もちろん屋外で、包囲すること前提だ。十人程度じゃ返り討ちにあう、三十人は用意するんだ。槍や弓も担がせてな」
ランドルの提案にシスは黙って首を振る。
「――お兄さん、わかっていると思いますが、それでは駄目なんです。貴族相手の舟渡しというのは微妙な均衡を保つことで成立します。少人数での暗殺だから、どうにか見逃してもらえるんです。大人数で襲撃するわけにはいかないんですよ。さもなくば反乱と見なされ、王宮も重い腰を上げて、遣り手たちの殲滅に動かざるを得ません」
舟渡しはなるべく目立たず、すみやかに、小規模に行われなくてはならない。
数十人規模で貴族の襲撃を行えば、いくら王宮とて動かないわけにはいかなくなる。
日光会と違い、王宮はいまのところ闇社会の住人たちの排除に躍起になっているわけではないが、目に余るようなら実力行使せざるを得ない。
それはすなわち、王都の闇社会の敗北を意味する。
いくら遣り手たちが王都に隠然たる勢力を張り巡らしているとしても、所詮は日陰者。
王座の威光の前には、ただひれ伏すことしかできない。
シスに言われるまでもなく、ランドルもそのことをわかっている。
「そうだろうな。だから無理だと結論を出したんだ」
ランドルがワルドの舟渡しを不可能だと結論づけたのは、面倒だからでも、臆病風に吹かれたからでもない。一流の剣士として、そして一流の渡し守として、密偵のポストフと議論を重ねたうえで導き出した答えである。
無論、その答えがシスの望んだものでないことは百も承知だ。
「――そうですか。わかりました、お兄さんがそこまで言うのでしたら、そうなのでしょう」
シスは落胆から気を取り直して答える。その声から怒りの色は感じない。
だがどこか冷ややかなものを感じたのは、ランドルの気のせいではないだろう。
「ああ。ちなみにワルドの舟渡しはこの後どうなる?」
「明後日に繋留会で会合がありますから、そのときにうちはこの役目から降ります。役目の放棄かつ有益な情報の手土産もないのですから、いったいどれほどの代償を支払うことになるのかは考えたくもありません」
シスの言葉どおり、彼女は相当の金や縄張りを失うことになるはずだ。彼女の本拠地でもある『蛇穴』が奪われるというのも、あながち大げさではないかもしれない。
「うちが匙を投げたあとは、繋留会により後任者が選ばれることになります。没収されることになるうちの縄張り目的で、立候補があるかもしれませんね。現実問題として、日光会をどうにかしなければ遣り手たちは破滅です。相手が強大だからといって、ただ手をこまぬいているわけにはいきませんから」
「刺のある言い方だな」
「別にお兄さんを責めているわけではありません。ともあれ、後任者もワルドの監視をして、お兄さんと同じ結論に至るのでしょう。そのとき取り得る手段は二つのうち、どちらかです」
シスは白く細い指を二本立てて示すと、そのうちの一本を折りたたんだ。
「一つはうちと同様に、舟渡しの実行は不可能であるとして役目を放棄すること。ですが引き継いだ手前、たらい回しにするというのはなかなか取りづらい選択だとは思いますが」
言葉どおり、シスはその選択が現実的ではないと考えているらしい。ランドルも同様の考えである。そしてもう一つの選択は、聞く前から予想がついている。
「――もう一つは、渡し守に頼らない、より過激な手段で標的を排除することです」
こちらも予想の通りであった。嫌な予感というものは、いつも的中するようにできている。
「お兄さんが不可能だと言ったのは、あくまで一人から少人数の渡し守による奇襲を想定したものですよね。けれど、ほかの方法はいくらでもあります。まことに残念なことですが」
「暴走した馬車を突っ込ませたり、料理に毒を盛ったりするってことか」
「ええ、その二つはいかにもありそうです。そして実行犯となるのは渡し守とは限りません。辻馬車の御者、外食先の料理人や給仕など、利用されるのはそうした人たちでしょう。彼らに『お願い』を聞いてもらうことは、そう難しくありませんから」
つまり無関係な市民を買収したり、脅迫することで実行犯にするわけである。
例えば家族や恋人を人質に取ってしまえば、善良な市民でも引き受けざるを得ない。
そして計画のあと、実行犯や人質がどうなるか。決まりきった答えだ。
予想はしていたことだが、こうして現実に突きつけられると腸が煮えくりかえる。
ランドルは淡々と語るシスのことを射殺すほど睨みつけた。
「――その方法は悪そのものだろ」
「仰るとおりです。ですが、それはいまさらでしょう。わたしたちは金のために悪党の殺しを請け負いますが、わたしたち自身もまた、悪であることは言うまでもありません。そのことはお兄さんもよく弁えていると思っていましたが」
「そんなことは端からわかってる。だが罪のない者は斬らない、無関係の者は巻き込まない、それがこの稼業のしきたりだろ、違うか!」
「そのしきたりが昨今では因習などと呼ばれ、軽んじられていることをお兄さんも知っているはずです。あとがない状況では、手段を選ばない者が出るのもわかるでしょう。もちろん、わたしはしきたりを破るつもりはありませんが」
「だがほかの遣り手がそうするとわかっていながら、見過ごすつもりか?」
「ええ、仮にそうなってもわたしは事を構えるつもりはありません。そもそもの話、うちが果たせなかった役目を後任者に押しつけるから、そのような事態が発生するのです。いったいどの口で咎めろと言うのですか?」
そう言われてしまうと返す言葉もない。
ないが、どう言われようとも納得のいく話ではない。
無辜の民を巻き込むかもしれないと言っているのだ。納得できるほうがどうかしている。
「脅かしはしましたが、そうなると決まったわけではありません。後任者が上手い手を思いつくかもしれませんし、お兄さんよりはるかに腕の立つ渡し守を用意できるかもしれません」
シスは宥めるように言ったが、本心からそう思っているわけでないのは明らかだ。とはいえ、ランドルが代わりにワルドの舟渡しを引き受けるつもりもない。
ランドルは恐れ知らずで負け嫌いの男であるが、自殺志願者というわけではないからだ。それほどワルドの舟渡しは難しい。
「――だといいがな」
吐き捨てるように言って、ランドルはシスの書室をあとにした。




