18 前科者①
ノナが訪れてから数日、あれからワルドの監視が成果をもたらすことはなかった。
護衛は今日も鉄壁で、わずかな隙もないことを見届けただけだ。
すっかり嫌気が差してはいるが、一度引き受けた以上、手を抜くわけにもいかない。
日が沈み、徐々に夕闇が染み渡っていく中、ランドルは家路についていた。
日中は汗ばむほどの陽気であったが、影が伸びる頃には冷え込みはじめ、おまけに今日は風まで強い。ランドルは躰から絞り出すように息を吐いた。
それが寒さからのものか、それとも憂鬱な気分が滲み出たものなのか、それは彼自身にもわからなかった。
この時刻、通りは一日の仕事を終えた労働者たちで賑わい、ずいぶんと騒がしい。
彼らの行き先はさまざまだ。
ある者は一日の苦労を忘れるため酒場へ、またある者は男の猛りを鎮めるために娼館へ足を伸ばす。わずかな日銭を握り締めて、賭場へ駆け込む大馬鹿者もいた。
普段なら喜び勇んでそのいずれかへ足を運ぶところだが、この日はやけに足が重かった。
ランドルの生きがいは、飲む、打つ、買うの三拍子。
だがランドルは気晴らしに娼婦を抱くことはしない男だ。博打も同様である。
さもなくば、たちまち快に不快が染みつくことになる。
今後の人生の楽しみのためにも、それは避けなくてはならない。
となると、残りは酒ということになるが、ほかの二つと違って酒は不快と合わせてもいい。
なにせ酒を飲めば、嫌な気持ちなど、たちまちにぼやけてしまう。
良い酒を味わうとなれば話は別だが、ランドルは酒に関しては質より量を取る男だ。
(よし、今日はしこたま飲むとするか。さて、どの店にするかな……)
これといった決め手もなく、当て所もなく通りをぶらついていると、見覚えのある小さな背中を見つけた。
(ん? あれは……)
足を速めてその背に追いつくと、予想は確信へと変わり、背中の主へ声をかけた。
「よう」
不意に背後からかけられた声に、背中の主は少し驚いたように振り返る。
先日の騒動で知り合った、衛兵の密偵をつとめるギンロだ。
「これはランドルの旦那。こんなところで会うとは奇遇ですね」
「いま帰るところかい? よければ、ちょっと付き合わないか?」
丁度良い飲み仲間を見つけ、ランドルは杯を掲げる仕草を示した。
「ぜひとも――と言いたいところですが、今日はすっかり負けちまって。素寒貧なんです。またの機会にさせてください」
申し訳なさそうにギンロは誘いを断った。どうやら博打で擦ったらしい。
しかし、せっかく見つけた酒の相手である、これを逃す手はない。
「金のことなら心配いらん。俺のほうは少し前に大勝ちしてな。いま懐に余裕があるんだ。俺が出すから一杯付き合ってくれ」
これは嘘ではない。ギンロと出会った日に賭場で大勝ちした金が、ほとんど手つかずで残っている。普段であれば豪遊してすぐさま使い切ってしまうのだが、ここ最近はワルドの件で遊ぶ暇がなかった。
「そういうことなら断るのも却って悪い、ごちそうになります」
「よしきた! このあたりで男二人なら良い店がある。行こうぜ」
思いがけず顔を合わせた大小の男二人は、足取りも軽く酒場へ向かった。
◇◇◇
ランドルはギンロを伴って馴染みの酒場へ入り、二階へ上がった。
テーブルにつくとお決まりの酒と肴を女給に頼み、ギンロにも勧める。
傍の吹き抜けからは階下の小さな舞台が窺え、踊り子の娘が豊満な乳房を揺らし、腰をくねらせ、踊っているのが見える。
酔いが回った観客の男たちによる下卑た声援や手拍子が、けたたましく聞こえてきた。
(しまった、今日の演者はかなり当たりだ。一階に席を取ってもよかったな……)
後悔したが、いまから席を取り直すのも、店に通じていないようでばつが悪い。
案内をした以上は、格好をつけたいのが人情というものである。
やがて注文の品が運ばれてくると、二人は杯を掲げた。
「それにしても日が落ちる前から博打をやってたとは、お前さんもなかなかやるな」
酒と料理、そして冗談をひと通り口にしたあと、ランドルはギンロが博打で金を擦ったことに触れた。
「そう言わないでください。あっしも博打は好きですが、こいつは立派な仕事なんですから」
そう弁明するギンロには、いささかも焦った様子はない。おそらく事実なのだろう。
「なに、仕事で博打を打つのか?」
「へい。ご承知のとおり、犯罪が芽吹きそうな場所へ目を光らせるのが、あっしの仕事ですから。昼間から賭場や酒場、必要があれば娼館に行くことだってありますよ」
「こう言っちゃあなんだが、羨ましい限りだな」
ランドルの率直な意見に、ギンロは嫌な顔せず頷いた。
嫌味で言われているわけではないのが、伝わっているのだろう。
「いえ、もっともな意見です。ただし、そこへ通うための費用は出ませんがね」
「金が出ないだと? 仕事なのにか」
王都の治安維持のため、衛兵の手足となって働く密偵の諜報活動に、金が出ていないという状態がランドルにはとても信じられなかった。
シスであれば、絶対に密偵の活動に金を出し惜しんだりはしない。
こうしたところに、国の金で動く衛兵局と、後ろ暗い金を溜め込んでいる遣り手の違いが現れるのかもしれない。
「へい。あっしもなんとかしてほしいところなんですが、悪党の探索に必要とはいえ、飲む、打つ、買うの金を支給してくれ、などと言っても許してくれるわけありません」
「そりゃそうだが……となると、探索費用は自腹ってことか?」
「そういうことになりますね」
「冗談だろ……」
ランドルは思わずため息をついた。
ギンロは自分のことであるのに、むしろ他人事のように笑っている。
「それでもあっしはいいほうですよ。博打はそれなりですからね。こいつが弱かったら悲惨なことになってました。もっとも、今日は散々だったわけですが……」
「らしいな。それでお前さん、やるのは札かい、賽子かい?」
王都において博打は法で許されていない。とはいえ、人の欲望がなくなるわけではない。
規模の大小を問わず、役人や有力者に袖の下を使って、様々な賭場が開かれている。
配られた札の絵柄で役をつくる札遊戯と、賽子の出目を予想する賽子当て、この二つが王都の賭場での流行である。
「あっしは賽子ですよ。札のほうはめったにやりません」
「どうりで賭場でお前さんを見た憶えがないわけだ。俺は札しかやらんからな」
「どうです? よければ今度、賽子も試してみませんか?」
「いや、せっかくだがやめとくよ。俺はどうにも、自分の手が触れないもので勝負をするってのが、性に合わなくてな」
その言葉を聞いたギンロが、ふと顔を綻ばせた。
「なんだ、おかしかったか?」
「こいつは失礼しました。以前、旦那とまったく同じことを言った人がいたもんで……」
そう答えたギンロの目は、向かい合うランドルの姿を映しながらも、どこか遠くを眺めるようであった。
自分と同じことを口にする人間のことだからだろうか、不思議とランドルも興味が湧いた。
「ふうん、友達かい?」
「いえ、以前の上役、というより恩人です。あっしを密偵に誘ってくれた人ですよ」
「――ってことは衛兵だろ。衛兵が博打にこだわりを持ってるのか?」
「そうなんですよ、滅茶苦茶な人だったんです。だけどそんな人だからこそ、あっしもついて行こうと思ったわけで……」
かつての上役を語るギンロの表情は温かく、彼が心から尊敬していたことがわかる。
そしてその存在がすでに過去のものになっていることに、ランドルも気づいていた。
「聞かせてくれよ。お前さんのこと。もちろん、嫌じゃなければな」