16 深夜の訪問客①
ワルドの監視をはじめてから三日が過ぎた。
ランドルの努力も虚しく、いまだに妙案は浮かんでこない。
一日を終えて借り部屋に戻ると、寝台に倒れ込むようにして眠りについた。
監視というのは、気力も体力も存外に要するものだ。
いったいどれほどの時間を眠っていたのだろうか。深夜、ランドルは唐突に目を開いた。異変を感じ取ってのことである。
今晩はやけに暑く、寝台傍の窓を開け放ったまま眠りについていた。
その窓から戸口のほうへ、急に空気が通り抜けるのを感じたのだ。
すぐさま枕元の剣に手を伸ばして跳ね起き、暗闇の室内を見回した。
「誰だ! こそこそしてないで姿を見せろ!」
深夜の深閑とした部屋に、ランドルの鋭い一喝が響く。
しかし、返ってくる声はない。人の姿が見えないどころか、気配もない。
この小さな借り部屋には、家具や調度品はろくに置かれておらず、人が身を隠せる場所などない。寝るためだけの部屋といっても過言ではないからだ。
その睡眠という目的さえも、留連しがちなランドルはこの部屋に頼らないことが多く、『蛇穴』で朝を迎えた回数のほうが多いのは間違いない。
表向きは職なしのランドルにまともな部屋が借りられるわけもなく、彼もまた住処にこだわる性質ではなかった。
「気のせいか……」
呟いて、寝台に再び横たわろうとしたとき、ランドルはすかさず剣を抜いた。
「――いや、やっぱりいるな。さっさと出てこい! 目的は知らんが、お前のせいで部屋中が臭ってるんだよ、ひどい臭いだ! 糞をしても尻を拭かない主義なのか? 人の部屋を訪ねるときは風呂くらい入ってからにしろ」
これは当然、はったりである。
悪臭などしないし、侵入者がどこに潜んでいるのか見当もつかない。
しかし、彼は侵入者の存在を確信していた。
剣士の勘である。
虚空へ向けて罵詈雑言を浴びせていると、やがてそれに耐えかねたかのように、突如、戸口脇の空間が陽炎のように揺れ、一つの人影が姿を現した。
だが奇妙なことに、侵入者の姿を視認しているにも関わらず、その容貌を認識することがまったくできないのである。身長、躰の厚み、身につけている衣服といったものすべてだ。
まるで靄がかかったかのようだった。
ただ一つわかることは、目の前の存在がなんらかの魔術によって、自身の正体を覆い隠していることである。
「ずいぶんと言いたい放題言ってくれるね、きみも」
侵入者が声を発した。その声も姿形と同様に捉えようがない。子どもが鼻をつまみながら喋っているかのような、極めて不鮮明なものだ。これでは性別すら判別できない。
「突然の訪問に関してはこちらに非があるが、だとしても言いようというものがあるだろう。それとご忠告通り、次からは匂いのほうもどうにかしておこう。――そんなに臭うかな……」
そう口にした侵入者は、ランドルのはったりでひどく心を痛めているようであった。しかしこのランドルという男、正体不明の侵入者に対し、そんなことを気にかけてやるような甘い男ではない。
「そうか、俺のおかげで勉強になったな、感謝しろよ。だがお前の態度によっては、次の機会はもう訪れないぞ。早く正体を見せろ」
言い終えるや否や、電光石火の早業で、侵入者へと剣を突きつけていた。
「おいきみ、これは何の真似だ。ぼくはきみに用があって……」
「一つ忠告してやる。魔術で姿を隠しておきながら、無断で夜更けに人の部屋に踏み込んでみろ、その場で斬られたって文句は言えねえ。その部屋の主が魔術師に襲われて、血を流した経験があるならなおさらだ。いますぐその妙な術を解きな」
ランドルは冷然と言い放つ。
その表情と声には他者に対する温かみといったものは一切なく、手にする剣がいつ魔術師の躰に突き立てられても不思議ではなかった。
「け、けどぼく、簡単に姿を晒すわけには……」
「――二度は言わねえぞ」
ややあって、魔術師がなにかしら呟くと、靄が晴れたようにその姿が鮮明になっていく。
その全貌を見て、ランドルが驚いたのも無理はないだろう。
「冗談だろ、まだガキじゃねえか……」
そこには濃紺のローブを纏った少女が立っていた。小さな少女だ。
身長や躰の厚みは十歳かそこらのものしかなく、およそ貫禄とはほど遠い。
渋々とフードが外され、顎先にかかるほどの長さの焦げ茶色の波打つ髪が露わになった。
色白の丸顔には琥珀色の瞳が輝き、幼い見た目とは対照的な深い知性を湛えている。
「失礼な、ぼくはもう成人している」
術が解かれ、聞こえる声は抑揚のない気怠げなものへと変わっていた。
「そりゃ失礼した。だが相手が大人だろうが、ガキだろうが関係ない。お前、なにが狙いだ」
「狙いもなにも、性悪蛇娘に魔術のことできみの力になるように言われてきてみれば、こうして剣を突きつけられているんだ。きみたちこそ、ぼくを嵌める気なのか?」
「――あ」
性悪蛇娘ことシスが先日、魔術師から近日中に接触があると言っていたことを、この瞬間になって思い出したランドルである。
「すまん、すっかり忘れてた」
「なんてひどい仕打ちだ。ぼくがわざわざ姿を隠して訪れたのは、用件の性質を考えてのことだったんだ。きみのためにわざわざ足を運んできたんだぞ」
少女、もとい娘へ突きつけた剣を下げつつ、ランドルはその抗議を撥ねつける。
「だとしてもこんなやり方、前もって言わなけりゃ、誤解されて当然だ。それに俺のために来てやっただと? いい加減なこと抜かすな。シスのやつが人をただで使うわけないだろ。お前にもなにかしら得るものがあったはずだ、違うか」
決めつけるランドルの圧に耐えかねて、娘は視線をそらす。
「ほらみろ、恩着せがましいやつめ。それでお前、名前は?」
「ぼくが敵じゃないことはわかったろ。きみには教えたくない」
「言わないなら、このまま『お前』で呼び通すことになるぞ」
「――ノナ」
「よし、ノナ。俺はランドル。お互い、初対面の印象は最悪だったが、もう済んだことだ。水に流してうまくやっていこう。よろしくな」
そういってランドルは強引にノナの手を取り、大げさに握手した。
仲直りとこれからの友好を兼ねてのことである。
「――きみなんて、嫌いだ」
だが二人の間には、すでに埋めがたいほどの隔たりが生じていたのは言うまでもない。