五年後のふたり
拡声器片手に美咲がグラウンドの脇を駆けていく。
彼女が生徒会書記として迎える、中学最後の体育祭だ。目が回る忙しさのようだった。
気楽な大学生の俺は、木陰でアイスをかじりながらそれを眺めている。
昔はどちらかというと引っ込み思案な少女だったのに、いつのまにか活動的になった。ラジオ体操も毎日出るし。地域清掃とかその他のボランティアとか、学生の模範になる活動にもよく参加する。
どうしてだ美咲。
まだ緋色さんが好きなのか美咲。
そうだとしたら長すぎないか。六年。彼が現れてからおよそ六年。子供の初恋が継続する年数じゃない。
本人に確かめたことはない。今の美咲なら訊いたところで「は?」で終わる気もする。
俺の内心をよそに美咲はキリキリと働き回っていた。「品行方正な学生の図」として額に入れておきたいくらいで、俺のインモラルな心配なんか無縁そうな姿だ。
茶化すのも気後れするくらい忙しそうで、構いに行くのもやめにした。
したのだが。「人見じゃないか?」と声をかけてきたかつての担任と話していると、かなり遠くにいる美咲とバッチリ目があった。
美咲の丸っこい目尻が吊り上がっていくのが、この距離でもよくわかった。あ、叱られる。
「……お兄ちゃん!」
思った時には彼女がすっ飛んできていた。
あっという間にグラウンドを横断し、勢い任せに俺の肩を掴む。全力疾走と怒りのせいか顔が赤い。
「なんで来たの!」
「いいだろOBだし……」
「来年も再来年もお兄ちゃんはOBなんだから今年来なくたっていいでしょうが!」
すごい剣幕だ。家族なんだからそんなに嫌がらなくていいだろ。家族だから嫌なのか?
「なにも今回じゃなくてもさあ……」
美咲がはーっとため息をついてうなだれる。
俺たちへ遠巻きに注目する生徒も増え始めた。友人と思しき女子の一団が「美咲お兄ちゃん来たの?」と好奇心の滲む声をなげかけ、美咲は「うるさいぞ!」とやけくそ気味に叫んでいた。
「ええと……ごめんな来て。そんなに嫌がると思わなくて。あと今日の授業一限と五限しかなくて本当に暇で……」
「いいよもー」依然不機嫌そうな顔で、美咲はちょっと地面を見た。「謝んないで、お兄ちゃんが悪いことなんかないから。ただ、わたし今日一大イベントが……」
「イベント?」
おうむ返しで訊いたとき、ブォン、と軽快なバイクの排気音が響く。
この町の住民ならみんな聞き慣れた音だ。呉田町唯一のヒーローが駆る、真っ黒いバイクのいななき。
車体は中学校の停車場に、見事なドライビングテクニックで停まった。フルフェイスを脱いだ彼がまっすぐこちらへやってくる。
もう二十代も後半のはずなのに、会った時から全然見た目が変わらない。赤いスーツとジャケットの長身、その存在だけで注目を集める人。
ぱっと美咲の顔が上がる。
「緋色さん!」
真っ先に声を上げて、あとはもう俺へ目もくれず、緋色さんのもとに駆け出す。「お、人見妹」と鷹揚に手を上げた彼の腹筋へ、あっと思った時にはタックルするように抱きついていた。
「来てくれたんだ!」
「うん、約束したもんな」
わはは、と快活に笑う。拳が入りそうな大きな口だ。そのまま手を持ち上げるから、美咲の頭でも撫でてやるのかと思ったら、両手を掲げて降参のポーズをとった。
「ところで人見妹、俺、この光景をしかるべきところに報告されたら免職されちゃうんだが」
「離れろってこと?」
「そうだな」
「え〜」
だだをこねようとした妹を、後ろからひっぺがした。ずるずる引っ張って、数メートル距離を取らせる。美咲もそれ以上は諦めたのか、解放しても緋色さんに再度突撃しようとはしなかった。機嫌良さげに笑っている。
緋色さんと美咲が一緒にいるのを、俺が見たのは久々だった。俺は去年家を出たし、それでなくともふたりとも朝型で、俺とは生活習慣が全く違う。だから知らなかったが、美咲はこんな目で彼を見つめるのか。全く瞳は雄弁だった。
小学四年生の美咲も心配だったけれど。中学生の妹が三十路の男に恋なんかしてるのは、また違う危機感を抱く。
美咲の前に割り込んで、緋色さんの腕にしがみついた。苦笑の浮かぶ赤い目が俺を見下ろす。
「なんだ人見兄、暑苦しいぞ」
「いーじゃないですか。俺たちはかわいい市民ですよ。あとスーツにファンついてて涼しいの俺知ってますからね」
「は? なんでお兄ちゃんがそんなこと知ってるの、場合によってはわたし全然家族の縁とか切るからね説明して」
「なあ、俺のために争わないでくれ」
緋色さんがいるから、わたしもラジオ体操に出席する。
長い手足が伸びやかに動いて、深呼吸ですら見惚れるくらいかっこいい。毎朝姿を見掛けられて、ほんのちょっと話せるのが嬉しい。でも緋色さんは、本当は、朝に弱いらしくって、だから欠席する日がたまにある。
身支度が整わない日のことを彼はそういうふうに説明している。
眩しいくらいの快晴で、気温の上がりきらない早朝から、すでに蝉の声がしていた。緋色さんは今日顔を出さなかった。
ラジオ体操第二まできっちり終えて帰宅する。夏休みだから制服なんか着なくていい。気に入っているワンピースに着替えてまた家を出た。
緋色さんの家は相変わらず団地にある。雨風でくすんだクリーム色の壁。
安っぽい扉は当然施錠されているから、合鍵を使って開ける。勝手に作った。だって植木鉢の下にスペアが置いてあったのだもの。男の一人暮らしだからって不用心すぎだ。
「こんにちはー」
いらえはない。三和土で靴を脱いで上がり込む。外は眩しいくらいだけど、まだカーテンも開けられていない室内は薄暗かった。
緋色さんは起きていた。床に座り、ベッドの側面に体をもたせかけてぼうっと宙を眺めている。薄く浮いた無精ひげが、髪と同じあかがね色。
カーテン越しの弱い光で髪もひげもきらきらして、緋色さんは本当に、人じゃないみたいにきれいだ。
「緋色さん、今日ダメそう?」
彼はこちらを見ない。勝手にベッドへ腰掛けたけど、それでも。
腰をかがめて、彼の頬を両手で包んだ。むりやりわたしの姿を視界に入れる。茫洋とした真っ赤な目。緋色さん。ひいろさん。
「きよふみさん……♡」
呼ぶと、ゆっくり焦点が結ばれる。瞳にわたしが映っている。
「………………人見妹」
「ねー、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも人見だよ? 美咲でいいよ」
「いや……」
ふいと顔を背けようとする。その彼の頭を抱きしめた。寝癖のある髪に頬ずりする。聖文さん。きよふみさん。
「きよふみさん。どこか痛い? なにかがこわい? 大丈夫だよ♡ 美咲がいるよ……♡」
長い時間彼はみじろぎもせず、やがて、ふーっ、とため息が胸にかかった。よれよれのTシャツから伸びた筋肉質な腕がわたしの腰に回った。
膝へ上半身で乗り上げるように、聖文さんがわたしに縋る。ひく、といじらしいくらいに押し殺した嗚咽が膝の上から聞こえた。
「うんそうだね、今日が来るのはこわいよね。太陽が昇って絶望するよね。大丈夫だよ、聖文さんが本当はどんなひとでも、わたしは嫌いにならないよ♡ 泣いてもこわくないんだよ……♡」
ブロンズの髪に指を通して、さらさら撫でながら、聖文さんの矜持のすべてをそうやって否定した。くぐもった泣き声をずっと聞いていた。
どれくらい時間が経っただろう。カーテンを透過するくらい日差しが強くなっている。のろのろと、聖文さんの腕がほどかれる。彼はいちど、体の空気を全部吐き出すみたいな重いため息をつく。
「……鍵変えないと……」
「聖文さん、去年からソレずっと言ってて結局できてないよね。あと、聖文さんの管理方法だったらわたし、何回でも合鍵作れるよ」
「そんなことにお小遣い使うな……」
膝から体を起こして、聖文さんが上目にわたしを見る。
「夏休みかもしれないが、きみは今年受験生だろ。俺に構って時間を浪費しないほうがいい」
「ちょっとくらいヘーキだよ、わたし推薦狙いだから。小佑理大附属高校の、推薦枠」
「小佑理……?」
彼は怪訝な顔で呟く。聞き覚えがあったのかもしれない。ここから立地も遠いし、不思議に思うのも当然だ。聖文さんのすこし険しくなった眉間を指で撫でつける。
「あのね、小佑理大はね、福祉学部の、ヒーロー支援専修科があるんだよ。だから行きたいの」
「……やめてくれ」
「なんだよー、にらまないでよー。聖文さんのことなんか全然関係ないかもしれないでしょ?」
「“かも”って言ってる時点で違うんだろ。そんな進路よくないぞ。俺なんか忘れて、もっとやりたいことを目指して……」
「ほかにやりたいことなんてないよ」
へらへら笑うと、聖文さんはすごく傷ついた顔をした。
本心だ。ほかにはなにも興味なんてない。
わたしの花をを守ってくれた日からずっと、怖くて。許せなくて。吐いたり、熱を出したり、うわ言で死にたくないってうめく聖文さんを食いつぶすことしかできないわたしたちの現実。
恐怖と怒りが、あるとき限界を迎えて、わたしの中で全部反転した。
聖文さんが好き。大好き。わたしに残ったのはもうそれだけ。
「大丈夫だよ、受かるから。何年優等生の美咲ちゃんしてたと思うのさ」
やれるだけやって、わたしもあなたを守るからね。
聖文さんは表情を歪めて、片手で顔を覆った。
「こんなふうに救われるくらいなら、俺は」
わたしはヒーローじゃないから、上手に助けてあげられないけど。
きっと不恰好な救いでも、あなたに受け取ってもらえたのならわたしはさいわいです。
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