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本編

 妹には好きな人がいる。



 我が家の裏には小さな畑があり、その一角、本当に猫の額のようなスペースで彼女は花を育てていた。最近の話だ。

 妹は世間一般の女子児童と同程度に虫が苦手なので、網戸を開けておくと時たま風と一緒に悲鳴が流れてくる。彼女の育てているカンパニュラとかいう花はナメクジがよく湧く。



 どうして育てているのか、くらいは訊かなくてもわかっている。去年俺たちの町にひとり、若いヒーローが着任した。

 おととしまでは何かあるたびに隣町のヒーローを要請していた、この人口よりトラクターの数の方が多いようないやそんなことは流石にないけど、こんな辺鄙な町に、とうとう専属のヒーローがついたのだ。



 彼は朗らかで、初日に大挙してきた野次馬たちにも嫌な顔をしない、ヒーローらしいヒーローだった。「緋色聖文(ひいろきよふみ)」と名乗った声は張りがあってよく通った。

 どうやら妹は、その彼に恋をしているようだった。



 小学四年生にしてませていると思わないでもないが、俺の初恋が保育園の花村先生(優しい)だったことを思うとなにも言えない。恋に歳は関係ないのだ。ちなみに緋色さんは二十四歳らしい。妹とどうにかなったら事案である。



 彼女も望みが薄いことはなんとなくわかっていて、だから直接的なアプローチには出ない。ただ上手に焼けたホットケーキを持って行ったり、さりげなさを装って手渡すための小さな花を、一度会いに行くためのささやかな口実を、年中育てていたりする。











 サンダルをつっかけて外に出ると驚くほど強い陽射しが脳天に刺さった。近くの木にセミが止まっているらしく、絶唱は割れるようだった。

 妹は直射日光に弱いカンパニュラへ(ひさし)を用意し、その根元に水をやっていた。彼女の持つ黄緑のゾウが日に透けて、中で水の揺れるのが見える。涼しげだけれど視覚だけで体温は下がらない。すこし赤くなった少女のうなじへタオルをかけた。



「熱中症なるぞ、美咲」

「お兄ちゃん」



 ぱ、と顔が上がる。汗で髪の張り付いた額も、うなじ同様赤らんでいた。



「花もいいけど、お前も水飲めよ」

「うん……そだねぇ。麦茶あったっけ?」

「しらね」



 一通りの世話は終わっていたらしく、特にごねずに立ち上がったのでほっとする。たまに作業が長引いて頑固に引き上げないことがある。

 美咲の向こうでカンパニュラが直立している。天へ向けて、ラグビーボールのような紡錘形の蕾をいくつも付けていた。内側の色を透かした薄藍色だ。紫の花が咲くのだろう。



「美咲。それ、もうすぐ咲くのか?」

「うん」

「咲いたらどうすんの?」

「あげる」

「緋色さんに?」

「うん」

「好きだから?」

「うん……」



 美咲はかすかにうなずいて、土だらけの指を体の前で絡ませた。柔らかく、まるい輪郭の頬が春の花の色をしていた。ほほえましい子供の頬だった。

 俺はそれを見るたびに心配になる。美咲はまだこんなに小さいのに、恋なんかして大丈夫なのだろうか?












 この町に自動販売機は数個しかない。逆に言えば数個はある。こんなところにも中身の補充のために来なければならない人がいると思うといたわしい。助かる。



 ペットボトルのサンプルを見上げて立ち尽くしていると、突然横から伸びてきた手が投入口に硬貨を押し込んだ。うわ、と驚いて固まる俺の顔を、上背のあるその人が身体をまげて覗き込んでくる。



「こんにちは、人見兄。こんなところでボーっとして、どうしたんだ?」

「いや、何にしようかなって……」

「そうか。ネクターがおすすめだぞ。人見兄は桃大丈夫か?」

「え、はい」

「じゃあ、ほら」



 問答無用でボタンを押し込んだ指先は、ネクターの缶よりもう少し深い赤色のスーツに隙なく包まれている。この限界集落、呉田町唯一のヒーロー、緋色聖文がそこにいた。



 流されるまま受け取って、「ありがとう」と礼まで言ってしまってから、お金のことを思い出す。でもこの人、中学生からお金を受け取ってくれる気がしない。まあいいか、と一口あおった。とろりと濃い桃の味。



「おいしい」

「だろ。よく飲むんだ」



 言葉通り、彼の手にも同じものが握られていた。スーツをまとった指で苦もなくプルタブを引き上げる。

 ガードレールに体重を預ける彼のいでたちは、全身を覆う赤のスーツに薄手のジャケットだ。俺なんかは半袖でも汗が止まらないのに、彼はどうしてか長袖を着込んで涼しい顔のままだった。



「あの、暑くないんですか?」

「ん? ああ、これ、スーツにエアコンディショニング機能があるから、上着を着ていると中で空気が循環して涼しい」

「ズル……」



 吐き捨ててしまった。彼は「んはは」と変な笑い方をしてから、唐突に上着のファスナーを全部おろした。なんです、とたじろぐ俺の頭を、がばりと包み込んでくる。



「わーなんですか! 事案ですが!」

「かもな! 偉い人に訊かれても黙っててくれ、人見兄。査定に響く」

「汚い大人の一面だ」



 スーツの向こうでは心臓が規則的に脈打っているのに、布一枚で体温は遮断されて、彼の腕の中は確かに涼しかった。羨ましがられるだろうな、と美咲の顔が脳裏に浮かんだ。



「あの、事案ついでなんですけど」

「そんなついで、世の中にあるのか……」

「緋色さんは俺の妹のこと、好きですか?」

「美咲ちゃんか?」



 かたい胸板に押しつけられた顔を必死に上げて、俺は緋色さんを見つめた。何と答えようか思案しているようだった。瞼や眉間にかかるブロンズの髪が金属に似た光沢を放っている。中空に向いた瞳は煮えた鉛の赤色だ。空恐ろしい色の瞳をふと緩めて、俺へ笑う。



「好きだぞ。人見兄、修のことも同じくらい好きだ」



 わしゃ、と大きな手が俺の髪を乱す。抵抗すればおとなしく狼藉を止め、くしゃくしゃになった俺の髪を手櫛で軽く整えていく。優しく頼もしく、スーツに隔てられたヒーローの手。誰のものにもならない手だと思う。



 おいコレ脈ないぞ美咲。












「緋色さんって若い男の人でしょ、どうなの?」

「うちの子、ちょうど中学に上がったころなんだけど、見回り中によく声をかけてくるって。うちは女の子だしちょっと気になるよね」

「若い人が町内を巡回しているのって、頼もしくはあるけど……。あの人自身はおかしな人じゃないの?」

「ずっとここにいる人と違って、保証がないからねえ。都会育ちの人ってよくわからないし……」



 狭く緊密な町のコミュニティは、外から来た人を容易に受け入れない。この町に嫁いできてもう二十年近い俺の母親ですらいまだに「外の人」扱いされている。緋色さんは都会から来たヒーローだ。余計、いい噂の種だった。



 くだらねー、と商店の戸棚の陰で舌を出した。緋色さんが少女に手を出すようなくずだったら、美咲ももう少し報われるかもしれないのに。うわさ話の発生源であるレジ周辺へ近づきたくなくて、なにも買わずに帰ることにした。



 店を出たところで、突然つんざくような警報が響き身をすくめる。

 怪獣が出た合図だった。こういう時の集合場所は小学校の校舎になっている。地下に住民をかくまうシェルターがあるのだ。音に気付いた客たちもばらばらと店から出てくる。

 彼らと同じ方へ向かい──道中、脇にそれていく小さな背中を見た気がした。



「美咲……?」



 どうも似ていた。それにあっちは俺たちの家の方角だ。別人だったとしても、避難を中断した子供がいること自体問題だ。俺も後を追って道を外れる。どこへいくのか声を掛けられ、「大丈夫」とだけ返して振り切った。いざとなったら地下の野菜室とかに潜ろう。



 背中は早々に見失い、あとは勘で家路をたどった。家の中には入らず、裏手に回る。菜園の端の、もはや定位置になった場所で紫の花に寄り添う姿を見つけた。

 美咲、と名前を呼ぶ。細い身体が振り向く。



「あれ、お兄ちゃん。逃げなきゃ」

「お前もだろバカ。早く行くぞ」

「あ、まって、花」



 花? と片眉を上げる。紡錘の先が綻んで鐘のように咲いた花へ、美咲が手をやる。



「今日咲いたんだ。かいじゅうがつぶしちゃうかもしれないから、先に摘んでおきたいの」

「今することかよ。これまでだって大丈夫だっただろ。後にしろよ」

「でも」



 不安そうな妹の眦に涙が浮かんでいた。ためらう心を無視して彼女の手を取る。今、外はまずい。警報からどれだけ時間がたっただろう。本当に野菜室コースかもだ。裏口のドアノブに手をかけた。

 今まで大丈夫だった、とか、今度にしろ、とか。俺の口にした言葉を、俗に「フラグ」と呼ぶ。

 がり、がり、家の塀をかたいものにひっかかれる異音が聞こえた。回そうとしたドアノブは途中で止まった。鍵がかかっていた。



「お、おにいちゃんっ」



 美咲が焦って俺を呼ぶ。家に入るなら表に回らなければいけない。反転させた視界に、獣の姿が映りこむ。



 塀の向こうから上体を乗り出し、裏庭を覗いているのは獅子の頭だった。黄金の鬣は動物園の檻の中にいたライオンよりもずっと美しく、曇天の光の中で輝いた。白目はなく、その眼球が虹色の光沢を宿していた。嘘のような典雅さ、これが怪獣。どこで生まれ初めたか誰も知らない伝承上の生き物だ。


 コンクリート塀をひっかき、深い傷をつくるその腕に被毛はない。黒く細い腕は節を持って折れ曲がり、その先端にかぎづめを付けていた。昆虫の腕だった。ずるりと這い出してきた身体は、首の後ろで深くくびれ、胸と巨大な腹に分かれている。身体も毛皮にはおおわれておらず、黒い表面がビニールを張り付けたように光を反射した。蟻の身体に、獅子の頭。



 滑稽な姿だったけれど、笑えなかった。一瞬、固まってしまった体を無理やり動かす。美咲も足がすくんでしまった様子だ。

 その脇に手を入れて引きずった。重い。大きくなったものだ。思考が鈍くて、そんなことばかり考える。妙に平静だった。



 間に合うはずのない、あまりに鈍い進行速度だった。裏庭に踏み込んだ怪獣の身体がきしむ音を立てる。黒目がちの瞳は視線の向きが分かりにくいけれど、それは明確に俺たちを捉えている。

 ぐるぐる喉を鳴らす音が響いた。庭の黒い土に、粘度の高い唾液がぼたりと落ちる。巨躯と、獣の吐息が迫ってくる。



「美咲っ、逃げられるか」

「う、あ」



 ダメそうだ。いまだに腰が抜けている。俺だってかろうじて立っているとはいえ、脚がガクガクして走るのも難しそうだ。



 もう、終わりか、俺たち。

 俺は──死ぬのが怖かったけど、年上なのに美咲より先に死ぬのはとてもかっこ悪い気がして、それが、嫌で。小さい身体を胸に抱きこんだ。



 ガシャン、と屋根のトタンが吹き飛ぶ。

 脚力で宙を飛翔し、赤い身体が降ってくる。ヒーロースーツの溝がぼんやり深紅に光っていた。庭に着地した彼は顔だけをこちらに向けて叫んだ。



「人見兄妹、走れ!」

「あ……足に、力が」

「気合で動かせ! 心配しなくていい、こいつは俺が、この庭から出さない」



 化け物を背にしていても、彼のほほえみには安心感があった。震えのましになった足で地面を踏み、妹を引っ張る。彼女の足はまごついてたたらを踏んだ。



「なんだよ美咲、花か!? もうあきらめろよ!」

「や、ちが……」



 まさに美咲の花を踏もうとしていた多節の足が、緋色さんの手でねじ切られる。つかんだ掌から黒煙と、生物の焼ける匂いが巻き起こった。

 さらに踏み込んで、彼は獅子の頭へ素手でつかみかかる。片腕が巨大な顎に挟み込まれ、骨の砕ける音がした。滂沱と流れる血が、獣の顎を、鬣を伝って土にしみ込んだ。風が熱い。火事みたいな匂いがする。



「花も、お前たちも、街の人もみんな、守るから! 俺がぜんぶやるから。逃げてくれ。修、美咲、頼む……!」



 火事場の馬鹿力だった。美咲を肩に担いで家の中へ逃げ込んだ。比較的安全そうな位置を探す際に、窓からちらりと緋色さんの姿が見えた。



 腕に次いで肩を捕食される。低いうめき声が尾を引いて響く。薄く開いたままのサッシの隙間から流れ入る火炎の気配。残った片手が猛獣の顔をわしづかみにする。眼球に指をめり込ませ、一層濃く煙が立ち上る。



「おおおおおお……!」



 怪獣を抱えて、彼が丸ごと炎に包まれた。彼の身体が発火した。炎上するヒーローから目が離せなくて、俺たちはついに身を隠すことすら忘れていた。



 戦闘後の庭には、熱でわずかにしおれたカンパニュラが、それでも葉一枚欠かさずに佇立していた。












 午後四時ごろ呉田町で起こった怪獣災害による住民への被害はなし。器物の破損も軽度に収まる。呉田町所属のヒーローのみが、左腕損傷、全身に中度の熱傷を負い、施設にて治療を受けた。










 隣町の病院へ担ぎ込まれた緋色さんは、日が暮れるころ自分の足で家に帰ってきた。



 親からすぐに逃げなかったことをこってり絞られ、さすがに反省して粛々とお使いを引き受けたところだった。通りを歩いていると、向こうから変わらずスーツ姿の彼がやってくるのを見つけた。目を疑い、それから駆け寄る。



「あの……!」



 がっしりした腕をつかむと、驚いたように彼が息を詰める。スーツの下で、ずるりとなにか滑ったような。首をかしげる前に、柔らかく手が振りほどかれた。



「人見兄、お使いか。今日は大丈夫だったか?」

「あ、はい、俺は。緋色さんの方こそ、あの、怪我……」

「大丈夫だ。頑丈なんだ」

「頑丈って言っても……。腕とか、噛まれてなかったですか」

「お前見てたのか。逃げろって言っただろ? スーツもあったし、全然平気だよ」



 この通りと腕を振る彼にそれ以上は言いつのれず、そうですかとだけ言って後の言葉は飲み込んだ。実際、あんなにぐしゃぐしゃにされていたのは目の錯覚かと思うほど、彼の腕はきれいに治っていた。動作にも違和感はない。どんな治療を受けたのか。



「あの……緋色さん、助けてくれてありがとうございました」

「どういたしまして。でも礼を言われることじゃない。あれが俺の仕事だ」



 ヒーローという仕事を、前ほど真っ直ぐ受け止められない自分に気づいていた。苦しいほどの悲鳴と火炎の匂いが脳裏について回る。

 見ていられなくなって視線をそらした。紅蓮の夕日が炎のようで目に痛かった。















 花を摘んだ。緋色さんの家は団地にある。



 部屋は多いけれど、その中で人が住んでいるのはまばらだった。

 この町はおじいちゃんの代から住んでいるような人たちで形成されていて、外からきて部屋を借りるような存在はすごく珍しい。そんなの今まで、転勤を繰り返す学校の先生くらいだった。この町で緋色さんが暮らしているのは奇跡みたいな現実だ。



 それがただしい奇跡なのか、団地のくすんだ壁を見るたびによくわからなくなる。わたしの感じる幸せが後ろめたいものに思えて、恥ずかしくなって、うつむいてしまう。

 きょう初めて、戦っているところを近くで見てからもっと、ずっと、誰かに責められているみたいな気持ちでじっとしていられなくて、だから緋色さんのために育てた花を摘んだ。お見舞いに行きたかった。そういう時には花が必要だと聞いたことがあった。



 後ろ手にカンパニュラを一輪握る。お兄ちゃんが「帰ったようだ」と言っていたけれど、何度チャイムを押しても緋色さんは出ない。

 手持ちぶさたにひねったドアノブがくるんと回り、あっけなく彼の部屋への口が開いた。鍵を閉めていないみたいだ。誰かがいるときは、うちも閉めないことがあるけど。じゃあやっぱりいるのかな、それとも、鍵を忘れて出かけたのかな。



 目の前には、夕日が落ちた後の青っぽい暗がりが突き当りの扉まで続いていた。暗さに目が慣れると、右手の扉の下側に、光の線がちらちら見える。



 それから、喉を絞るような、こもった音。



「緋色さん?」



 返事はない。そこにいるのに。大変なことが起こっているんじゃないかと、胸がうるさくて、気づけば靴を脱いで上がっていた。二つ目のドアに手をかける。花をつかんだ手が汗ばむ。



「緋色さん」



 返事はなく、だからわたしを止める人もいない。ひらいた隙間からあせた光がもれる。



 そこには便器に縋るように、赤いスーツの背中があった。幾何学に光の筋が通るヒーロースーツの、そのしたの身体が上下して、背骨をしならせる。今度は明瞭なえづく声。いつからこうしているのか、吐き出すものももう残ってなさそうだった。おそろしくたよりない背中だった。



「ひいろさん」とつぶやいたのは、たぶん誰かに「そうだよ」って言ってほしかったからだ。あるいは「違うよ」だったり。目の前の人が緋色さんだとわたしには信じられなかった。口元を手の甲で拭ってゆっくり振りむいたその顔も、普通の男の人みたいで。赤く煮える瞳の下にはべとりと隈が張りついている。



 いまこの瞬間、取り繕うのを諦めてしまった表情だと思った。わたしのヒーローの、むき出しの、中身。



「美咲ちゃん」



 すこし灼けた声だけが優しかった。いつもの、自分から光る星みたいなまぶしさはどこにもなかったけれど。



 疲れたほほえみが口元に広がる。もう弁解するつもりはないと言外に言っていた。血色の悪い頬に、汗で髪が張り付いている。見ていると息が苦しくて、急に何かに謝りたくて、たまらなくなった。



「ごっ、ごめんなさい。……あの」

「うん。危ないことはもうするんじゃないぞ」

「あ……あ、う、うん」

「花、大丈夫だったか?」



 心臓が、たったひとこと熱い杭で打たれる。

 背中に回したカンパニュラの茎を握る掌に、どっと汗がわいた。身体が熱くて寒い。奥歯がかちかち鳴る。



「だ、だっ、だ……だい、じょぶだ、った」



 震えて上ずった声で、それだけ口にするのが精いっぱいだった。



 どうしよう。どうしよう、摘んじゃった。緋色さんが、こんなになって守ってくれた花。緋色さんのために。

 どうやって、謝ったらいいんだろう。わたし、もう、謝る言葉もないと思った。



 トイレの床に座り込む彼は、見下ろす先で「そっか」とほのかに笑う。わたしの花が無事だっただけでそんな顔をすることがくるしかった。

 わたしは本当は、この花にこだわってたわけじゃなくって。そのさきの緋色さんの笑った顔とか、この人のほんの少しのうれしさとか、そういうものが惜しかっただけ。



 掌の熱で、カンパニュラが萎れはじめていた。

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