013 新たな生活
凛玄の事をきっぱりと諦め、杏玄流と穏便に縁切りし、杏山から中凰の城下町に活動拠点を移した依依。
切ない凛玄への恋心を思い出しては、枕をしっとりと濡らす日々を――。
(過ごせていないし)
背中に太極図と呼ばれる模様が刺繍された白い道衣の袖をめくりながら依依は憂いある表情を浮かべる。
依依が現在活動拠点としているのは、中凰にある義荘と呼ばれる施設である。
先祖の霊を祀る霊廟を併設する小さな義荘は、南側に母屋があり、中庭を介し東西に向き合う形で霊廟ともう一つ大きな建物が設置されている。
全ての建物は屋根付きの歩廊で繋がっており天候を気にせず移動可能――というと聞こえはいいが、実際は雨ざらしで長年放置されていた建物に、手入れがされず好き放題伸び切った草で埋まる、まるで密林のような自然豊かな中庭。
周囲に住む者からは長いこと義荘ではなく、幽霊屋敷と呼ばれていた……そんな場所である。
かつては荘厳な装いを見せていたであろうその義荘は、元の持ち主であった道士に継ぐ者がおらず、皇帝に返上され荒れ果てたまま放置されていたものらしい。
それを官吏として中央政府内で勤労に励むやり手の兄、燈依の伝手を頼り、皇帝より運良く貸し出してもらう事に成功したのである。
それから劉帆の知り合いだという棟梁に何とか人目に優しく、住めるまでにと修復を頼んだ。その結果、依依の新たな活動拠点は幽霊屋敷から義荘と呼べるほど。立派に生まれ変わる事に成功したのであった。
とは言え、杏山で何不自由なく暮らしていた時とは雲泥の差である事は間違いない。
母屋の戸は歪んでおり、開閉にコツがいるし、雨漏りは当たり前。
室内に置かれた家具も全て中古品で揃えた。それに加え、義荘としての品格を少しでも出そうと母屋の玄関にこれみよがしに飾られた額縁入の絵は、依依がそれっぽく描いた水面に花ひらく蓮の花と水中に戯れる数匹の鯉の絵である。
因みに、古来より天楼国において、蓮の花は女性を表し、鯉は男性を表すと言われている。つまり、荒削りしすぎであるその絵に込められた意味は「異性にもてたい」であり、依依の願望を存分に込めた作品となっている。
何だかんだ不便に思う事もありつつ、しかし依依はそれなりに充実した生活を送っていた。そう、送っていたと過去形なのである。
というのも、現在依依は母屋の寝台の前で、すり鉢片手に途方に暮れかけている所だからである。
「依依、まだかのう?」
急かすように依依に声をかけたのは、ぐったりと寝台にうつ伏せに横たわる劉帆だ。
「先生、無様です」
口を尖らせた依依は今まで無意識ですり鉢に擦りつけていたすりこぎを寝台の脇に置く。
そして徐に横たわる劉帆の道衣をめくりあげた。
「ちょっとヒンヤリするかもです」
「わかった。頼む」
「では」
依依は目の前に晒されている加齢を誤魔化しきれていない、皺がよった腰に焦点を合わせる。そしてすり鉢の中に入った依依お手製の膏薬をベタリと劉帆の腰に塗りつけた。
「うっ、冷えるのう」
「患部が炎症を起こしている時は温めては逆効果だと医学書には書いてありました。というか、先生ともあろうお方がぎっくり腰になるだなんて、信じられません」
依依は容赦なく劉帆に憎まれ口を叩く。
「満月と科挙の試験が悪いのじゃ」
「それは理解できます。けれど、もう少し歳を考えてください」
「年寄扱いするでない」
(劉帆先生がお年寄りじゃなかったら、世の中の人はみんな若者になっちゃうけど)
依依は咄嗟にそう思ったがこれ以上病人を罵るのは心もとないと口を閉じる。
それに依依は運命を共にする劉帆の身を心底心配する、労りの気持もきちんと持ち合わせているのである。
「でもぎっくり腰になってこうして寝たきりになっているのは事実です。つまり無理は禁物だということ」
依依は黄柏と 楊梅皮を胡麻油で混ぜた膏薬を、再度劉帆の腰に塗り込んで行く。
(うへぇ、黄色が飛び散った)
自分の道着に飛び散った膏薬を見て思わず顔を顰める依依。
これは痛みによく効く膏薬ではあるが、なんせ黄柏は黄色の染料としても使われる植物の為、色が服に飛ぶとなかなか悲惨な事になるのである。
「いいですか先生。科挙の試験がある時は恨み、妬みを抱えやすい人がいっぱいいるんです。つまりそれはキョンシーが発生しやすい時期とも言えますよね?しかも今年は確かに満月と科挙試験が重なるという、悪い意味での奇跡も起きてしまった。結果、いつもよりキョンシーがやばいってことなんですから」
依依は劉帆に言い聞かせるように口にしながら、腰に膏薬を塗りつけていく。
「言葉が乱れておるぞ、依依。まさか町のごろつきと付き合っているのではないだろうな」
「違います、若者の流行り言葉です」
きっぱり答えた依依に劉帆がこれ見よがしにため息をついた。
「天国の愛弟子俊依と我が娘麗華が揃って泣いておるのが儂には良くわかる。きっと今日は夢枕にあの二人が立ち、娘が不良少女になったのは儂のせいだと一晩中責め立てるに違いない」
「ぐぬぬ」
依依は卑怯にも両親を持ち出す劉帆に言葉を詰まらせる。
「さらには、お前が不良になったと知れば、燈依もそれはそれは悲しむじゃろうな」
「申し訳ありませんでした。言葉遣いには気をつけます」
追い討ちをかけるように兄の名前を出された瞬間、依依は劉帆に完全に白旗を挙げた。
何故なら劉帆と依依における現在の金銭的支援者が何を隠そう、たった今劉帆が口にしたまさにその人、燈依だからである。
(兄様を敵にまわすこと。すなわちそれは先生と私の死を意味するも同然)
義荘の修復でほぼ貯金を使い果たした劉帆と依依の生活はカツカツだ。
それでも何とかやっていけているのは、確実に高級官吏となった燈依のお陰である。
そのような金銭的事情を抱えた依依は以前に増してなお、燈依にだけは頭があがらないという状況なのである。
(もう、ほんとに人生綱渡り……まさか行きていくのにこんなにお金が、そして時間が必要だなんて思わなかった)
杏玄流を飛び出した時、依依の頭に占める事と言えば凛玄のことばかりだった。
けれど振り返ってみれば、今の状況に比べたらそれは全然大した事ではなかったと思える。
(そもそも色恋で満腹にはならないし、屋根の補修も出来ないしね)
好いた惚れたと浮ついていられるのは満ち足りた幸せな生活を送っている証拠。
燈依に援助してもらい、道士としての仕事を斡旋してもらう。それから家事をこなし、義荘の管理もする。その合間に行うご近所付き合いとて、円滑な日々を送るためには大事なことだ。
正直現在の依依は足りない時間を何とかやりくりし、目の前に積み上げられたやるべき事を薙ぎ倒すような日々を送っている。
(だから色恋にうつつを抜かす、そんな余裕はないって感じだし)
依依はそれを良かったと思う事にしている。
何故なら、暇な時間が出来てしまうと、もし自分が凛玄の妾になることを了承していたら今頃何をしていたのだろうかと、自分が選択した結果と真逆の未来をふと思い描いてしまう事があるからだ。
(これは私が選んだ生き方だから後悔しない、したくない)
依依は自分に言い聞かせる。そして誰ともなく誓う。
(いつか兄様からの援助がなくてもちゃんと自分の力で暮らしていけるようになる)
依依はそれが叶えば「あの時もし妾に」などとついうっかり思考を巡らせてしまう、弱い自分とおさらば出来ると信じている。
「入るを量りて出ずるを為す。初心に戻って出納帳を見直さなくちゃ」
「依依……儂はお前が守銭奴にしか見えん」
「そのくらいが浪費家の劉帆先生には丁度いいんですよ」
依依は減らず口を叩きながら、劉帆の背にたっぷり膏薬を塗り込んだのであった。