012 赦鶯のため息
その日、赦鶯は三年に一度行われる官僚登用試験、科挙試験における本試の一つ、会試が行われる試験会場にいた。
礼部貢院と呼ばれる試験会場は数千人とも言われる受験者を一同に集め、科挙試験の為だけに作られた場所となっている。
逆に言えば、礼部貢院は試験の時にしか使われないとも言えるわけで、埃くさく、ところどころ屋根も崩れ落ちており、お世辞にも快適な場所とは言い難いと言えた。
そんな礼部貢院。その中に作られた試験監視官の控室に赦鶯はいた。しかし何も好んでそこにいるのではない。赦鶯は上官に「何事も勉強になりますので」と言いくるめられ、ある意味仕方なくそこにいるという状況だ。
「くそう、俺はやってない。誰かが仕組んだんだ」
「ならば、この豆本は何だ」
「知らん、誰かの陰謀だ」
「陰謀だろうと、何だろうと証拠がある」
「俺はやってない!!」
「うるさい、静かにしろ」
取り乱す男を床に押さえつけるのは筋骨隆々。
肉体美に優れた天軍から借り出された武人達である。
(あぁ、またか)
その様子を冷めた目で机を挟みぼんやりと見つめるのは、菖蒲色に染め上げられた官吏の公服。くるぶしまで隠れる長衣に玉の帯を腰に巻いた赦鶯である。
(なんで次から次へと不正が跡を立たないのだろうか)
赦鶯は一見すると全くの無表情でありながら、内心毒づく。
この科挙試験は確かに赦鶯の所属する礼部管轄の国家行事である。
(だから俺がこの役を引き受けることに異論はないのだが)
ただ礼部で働き出してからまだ三年ちょっと。
そんな新人一人に押し付ける仕事としては、荷が重すぎると赦鶯は憂鬱になる。
「赦鶯様。どうされますか?」
武人が赦鶯に不正者の沙汰を求める声をかける。
「ふむ……」
(どうされると聞かれても、一先ず牢へと言うしかないではないか……しかし、冷酷に告げても恨みを買うし、かと言って情けをかければ調子に乗るし。全く難儀な仕事だな)
赦鶯はわずかに眉間に皺を寄せる。
しかしあまりに小さな変化なので、赦鶯が密かに愚痴っているとは誰も気付かない。むしろ目の前の不正者に対する処遇をどうするべきか。ひたすら思案しているように見えているはずである。
「そうだな、その者にも言いたい事はあるだろうが……一先ず牢へ」
他に適当だと思われる処遇はないかと僅かばかり悩んだ末、赦鶯は目の前で項垂れる、不正した疑いありと連行された受験者に結局は「一先ず牢へ」と沙汰を言い渡す。
何故なら既に部屋の外から「俺はやってない」と、もはや不正者における定型文を口にし大騒ぎをする別の男の声が赦鶯の耳に入ってきたからだ。
(悪いな、次が待ってるようだから……)
赦鶯は物いいたげに自分を見つめる不正者の顔から視線を反らし、机の上に広げられた紙に書かれた男の名前の下に「ひとまず牢行きとする」と筆で書き込む。
「かしこまりました。ほら立て」
「うぅ、ちゃんと調べてくれよ。俺の人生がかかってるんです」
恨みがましい声と共に、衣擦れの音が部屋の中に響く。
「お願いです。見逃して下さい!!」
「うるさい、ほらいくぞ」
「俺の人生終わりだ。郷の母さんに何と言えば……試験で不正をしたと知られたら、俺はもう自殺するしか……」
赦鶯はあの手この手で自分の気を惹こうとかけられる不正者による悲痛な呟きを完全に無視し、机の上の名簿に注視しているフリをする。
(キリがないからな)
最初の数人ほどについては、経験不足から確かに赦鶯も親身になって不正者として自分の前に連れて来られた受験者の話を聞こうとした。
なんせ今日行われているこの試験は彼らの人生がかかっている大事なものだと、赦鶯は身をもって承知していたからである。
けれど赦鶯はすぐに監督官として配置されている官吏から「この調子では試験が終わってもなお、不正者の沙汰の言い渡しが終わりません」と困惑した表情ではっきりと告げられた。つまり「もっと早く沙汰を言い渡せ」と厳しい指摘を受けたのである。
(まぁ、今となってはその意見は至極真っ当に思えなくもない)
次々と現れる不正者の多さに辟易した赦鶯は、もはや情けという感情をとうに投げ捨て、ひたすら「ひとまず牢へ」と繰り返す人形と化している。
「ほら歩け。では赦鶯様。失礼致します」
武人が自分に頭を下げたのを気配で察し赦鶯は顔を上げる。そして武人に小さく頷く。すると武人は意気消沈した様子で肩を落とした男の縄を持ち、部屋からしずしずと出て行った。
その姿を見届け、赦鶯は内心ホッとする。
(意外に素直な奴で良かった)
今の展開はとても理想的だと赦鶯は口元を微かに緩くする。
因みに、経験上最悪なのは受験者が逆上する場合である。
一人に対応する時間が取られるし、何より不正をしておいて逆上するのだからたちが悪いとしか言いようがない。
(これは絶対に俺への嫌がらせだよな……)
僅かな休息。静まり返った部屋で赦鶯は人知れず物憂げな表情でため息をついた。
赦鶯は十五歳で官僚登用試験、科挙試において殿試と呼ばれる最終試験の登第者となり、かつては神童と呼ばれたほど才覚のある青年だ。
それに加え赦鶯はサラリと流れる黒髪に、涼し気な目つき。外で遊ぶ事を知らず勉学に励む日々を送ってきたせいか、線が細く儚げに見える容姿持ち。
さらに言えば、赦鶯の異母兄弟である兄はここ天楼国を治める皇帝。
つまり赦鶯は人並み外れた学があるだけでは事足りず、人目を惹く見目麗しい容姿も兼ね備えている上に、皇帝の弟というわけで……。
人が羨むものがここまで揃う赦鶯は、それはもう順風満帆な人生が確約されたも同然と思われがちだ。
(確かに恵まれてはいるのかも知れないが、それなりに悩みはあるのだが)
赦鶯はそのいくつか抱える悩みに関し、あまり公にすべきではないと心得ている。だから親しいもの以外に悩みなど決して口にしない。そのせいか口数も少なく陰気者だと周囲に思われているフシもある。
しかし一番の問題は赦鶯が「皇帝の弟だから科挙に登第した」と噂され、周囲から妬みの対象となっている事だ。
(現在進行形で経験中だしな)
有り難くないその噂を挽回する為には、自ら結果を残す事しかない。
しかし周囲の僻みによってそれも邪魔される事多しのため、前途多難。
(いっそあいつらを左遷してやろうか)
嫌な仕事を押し付けられ、不機嫌な赦鶯はついそんな風に思う。しかしだからといって、赦鶯は権力をかざし嫌な上司を左遷する事は絶対にしない。
何故ならそれでは根本的な解決にならないからである。
それに何より皇帝の弟である自分の采配のせいで恨みを買い、それをきっかけとして政局が大きく動くような事態になることを恐れているからだ。
(それにその気になれば、俺はいつだってあいつらの首を飛ばす事も出来るしな)
赦鶯は優越感に浸り、腹にためた鬱憤を人知れず静かに晴らす。
「監督官長、新たな不正者をお連れしました。入室してもよろしいでしょうか?」
「あぁかまわない」
外からかけられた声に赦鶯は機械的に了承する言葉を返す。
次に赦鶯の前に連れて来られた男もまた、豆本と呼ばれる小指ほどの小さな本にびっしりと文字を書き写した物を持っていたと、赦鶯は試験監督官の男から証拠と共に報告を受けた。
「赦鶯様、こいつはどうしましょう?」
「証拠もある。不正となればもはや試験はここまで。牢に」
情けは人の為ならずという言葉を頭に浮かべ、赦鶯は男の脇に控える武人に短く答える。
「俺はやってない」
「騒ぐな、黙って立て。まだ試験を受けている者もいるんだぞ」
武人が諦めの悪い男を床から引き剥がし、二名掛かりで男の両脇を抱えようとした。
しかし男は素早い動きで赦鶯の机の前に近づくといきなりその身を二つに折り、額を床に貼り付けた。
「お願いします。今年登第出来ないともう後がないんです。このままじゃ身銭を切って都に送り出してくれた母さんに申し訳が立たない。見逃して下さい、お願いします」
自分より遥かに年上らしき男の必死な様子に、赦鶯はわずかに顔を歪ませ口を開く。
「愚かだな。ならば最初から不正などしなければいい」
「だから俺はやってない」
「ではこの豆本は何だ?」
赦鶯は自分の手のひらの上。人差し指の第一関節程度しかない小さな本に視線を送った。
先程不正の証拠として試験監督官より手渡された豆本だ。
(全くこんなものを作る暇があるのならば、四書五経の一文でも真面目に暗記しておけば良いものを)
「だから、誰かが俺を陥れようと」
赦鶯の前で顔を上げ、豆本を視界に入れた男が視線を伏せる。その声はわずかに震えている。
「では、その証拠は?」
「え?」
赦鶯の短い問いに顔を上げる男。
その顔を見て、何と察しの悪い男だと赦鶯はがっかりする。
「お前を陥れようとしたという、その仮説の証拠はと、私はお前に尋ねている」
「それは……」
男は唇を噛んで黙り込んだ。
「お前はもしかすると、本当に誰かに嵌められたのかも知れない。しかし、嵌められたお前は愚かだ。その事も踏まえ対策しておく。それが出来ねば試験に登第し官吏となってもお前の才は宮廷内において発揮出来ないだろう。小賢しくなれぬ者は生き延びる事など出来ない。ここはそういう場所だ」
度重なる不正者にうんざりしていた赦鶯はつい、八つ当たり気味に冷たく言い放ってしまった。そして苛つく気持ちと共に視線を武人達に向ける。
曰く連れて行けと。
「では失礼します」
武人は赦鶯の視線の意味を汲み取り、男の両脇を抱えた。
「くそう、俺はやってない。頼む、見逃してくれ」
男がその身を捩り、赦鶯の机に縋り付く。
「お願いだ。見逃してくれ」
自分の否を認めず、みっともなく縋り付く男に赦鶯は正直うんざりした。
豆本という確かな証拠があるのだ。例え男がどんなに泣いてすがろうと不正の事実は変らない。そして赦鶯自身もここまで大事になってしまえば男に情けをかける事など到底無理なのである。
(何故真面目に努力をしないのだ)
かつて神童と呼ばれていた赦鶯は努力すれば出来ぬことはない。
実際自分がそうであったのだから、それは間違いないと確信を持っている。
(努力すら出来ないから不正に手を染めるのだ)
赦鶯は忌々しくそう思い、そしてふと先程目にした男の答案に書かれた文字を思い出す。
(こいつの文字は、まぁ悪くなかった)
となると、男は確かにきちんと学んできたのだろう。
何故なら科挙で出題されるのは儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経。それを何度も書き写し、科挙登第を目指す者は自然に文字が整っていくとされているから。
赦鶯の机にみっともなく縋り付く男。
その男が墨書で書いたその文字も美しく伸びやかで達筆であった。
つまりそれは目の前の男がそれなりに学んだという証でもある。
(そこまでやって最後に不正とは。やはり己の心の弱さが最大の敵か)
「お前の字は美しいのにな。心根が腐っているとは、残念だ」
赦鶯は誰ともなく心の声を漏らす。
すると男の顔はみるみると真っ赤になり歪んだ。
「そっち側に既にいる、お偉いさんのお前に、俺の背負っているものがわかるかよ!!」
両脇を武人に抱えられた男が勢いよく赦鶯に向かって唾を吐きかけた。
男の飛沫が赦鶯の高位官吏としての証。
公服である紫色に染め上げられた深衣に染みをつくる。
「失礼だぞ。ほら立て」
武人が怒りに任せ、乱暴に男を立たせた。
「俺は不正なんかしていない。恨んでやる。必ずお前を呪ってやる!!」
「うるさい、行くぞ」
「赦鶯様、失礼しました」
武人が暴れる男をしっかりと両脇から抱え、部屋を出て行く。
そして一人残された赦鶯は呟く。
「全く、難儀な仕事だな」
そして程なくしてまたもや武人の声が赦鶯の耳に届く。
「全く下着に書き込むなど、信じられん」
「うるせー。俺は官吏になって、金持ちになるんだ!!離せ、この馬鹿野郎」
その声を嫌でも拾ってしまった赦鶯は人知れず大きくため息をついたのであった。