101 事の顛末3
思蘭の母は、偽宦官と密通していた丹風であった。
となると思蘭の父親は先帝の子ではなく、偽宦官かも知れないという疑惑が嫌でも浮上する。
勿論それは憶測でしかない。
(憶測でしかないけど、だけど人を傷つける、そして傷つけられる理由にはなる)
その事に思い当たり、依依はどんよりとした気分で落ち込んだ。
「まぁ、色々とお前も気付いたかも知れん。しかしそれは全て憶測であり、決して口外してはならんことじゃ。特に思蘭公主様は国民人気が高いゆえ、凛玄との婚儀を楽しみにしている民も多い」
「あ、うん。そうだね」
「それに二人の結婚に伴う恩赦に期待する者も多いんじゃ。お前が変な噂を流したせいであの二人の結婚がおじゃんになりにでもしたら、お前はこの国を追放されかねんぞ?」
依依は劉帆の言葉に「その発想はなかった」と青ざめる。
(そ、そっか。そうだよね、凛玄様と思蘭公主様の結婚は絶対)
今まで以上、依依は深くその事を胸に刻み込み、そして思う。
(もう会わないに限る、絶対に!!)
結局の所それしかないのである。
依依は深く重くため息をついたのであった。
「爺様……更に依依に追い打ちをかけてどうするんですか」
「あ?何を言っておる。依依は寂東と良い仲なんじゃろう?それに色男。あやつは難ありだと思っておったが、金払いはいいようだからのぅ」
劉帆はニヤリと依依にいやらしい視線を送ってきた。
依依にも身に覚えのある、完全に守銭奴の目である。
「ちょっと劉帆先生、寂東は友達……の予定だし、赦鶯様は確かに優良顧客だけど、今はそれだけじゃないし」
「それだけじゃない?」
今度は燈依が依依の言葉に過剰に反応する。
「ただの優良顧客で兄様の上司から、尊敬出来る私の上司が付け足されたってこと。それに赦鶯様はだ……大体私とはつ、釣り合わないし」
(あぶな。流石に劉帆先生に兄様と赦鶯様の秘めやかなる恋についてお知らせするのは時期を見ないと)
自分がうっかり口にした事で二人の仲を割くような事になったら目も当てられない。
依依は慌ててジャスミン茶の入った茶器に手を伸ばし、そして中身が既に空になっていることに気付いた。
「仕切り直しにお茶でも淹れなおします」
依依はそう告げると、新たなお茶を淹れるべく逃げるように応接室を後にしたのであった。
★★★
依依の淹れたジャスミン茶、ただし今回は廉価版のそれなりに安らぐ香りが部屋の中に漂う。
「実はな儂はあやつの為にならんと、沈麗と連絡を絶つよう、寂東に告げておったんじゃ。しかし身内というものはそうそう簡単に引き剥がせるものでもないようでのぅ」
ズズズと劉帆が目を細め淹れたてのお茶を啜る。
「そりゃそうですよ。論語にだって、「孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か」って、そう記されてますし」
「学而第一の二だな」
「兄様は赦鶯様ですか?」
依依は思わず真面目に指摘する。
「言うな。赦鶯様の癖が乗り移っただけだ」
燈依は顔を僅かに赤らめ、口を尖らせた。
その姿を目ざとく発見した依依は、「恋だ、ずるい」と目を細め、劉帆を真似てお茶を啜る。
「確かに家族愛、それは仁徳の基礎だと道教の世界でも言われておる。しかし愛を向けるべき家族が歪んでおった場合、気をつけねばならん」
「歪むですか?」
依依は歪んだ家族愛というものを想像してみるがよくわからかった。
何故なら色々あるけれど、結局の所自分は家族にだけは恵まれていると実感しているからである。
「しかも今回の場合、寂東を取り巻く環境は最悪じゃった。何故なら寂東から姉である沈麗の話を聞き、公主様は沈麗に会い、そして意気投合してしまったからじゃ。寂東を取り巻く歪んだ気。その邪悪なる気が、ある意味倍になってしまったんじゃよ」
依依は死にたい願望で繋がる思蘭と沈麗の事を思い、そこは確かに歪んだ世界だとようやく把握する。
「寂東はまだ若い。後宮の、そして沈麗と公主様の悪の気に飲まれてしまったんじゃ」
劉帆は気落ちしたように、膝の間に立てた杖の間から大きくため息をついた。
「儂もあやつを気にかけ、幾度か城に足を運んだんじゃが、後宮におって出てこんのじゃ。今思えば、寂東は愛に飢えていたがゆえ、沈麗の向ける愛が己を利用しようとする偽りの物だと気付かなかったのかも知れん」
「確かに思蘭公主様も私の知る限り、寂東をとても贔屓され、可愛がっている様子でした」
「そうじゃろう。公主様もまた、愛に飢えた方だと天子様より聞いておる。あやつらは寄り添う事で欠けた心を埋め合おうとしたのかも知れんな。更には復讐という目標があったせいで厄介にも団結力が深まってしまったのじゃ」
劉帆はしみじみとした声で、何処か悔やむようなそんな複雑な表情になる。
「だからこそ、お前を後宮にという話になるんじゃが」
「なるほど」
「敵は自分の死体を弟にキョンシーとし操らせようとするような女じゃ。そのような覚悟を持つなど普通ではない。だから儂は道士に成り立てのお前を、今回の件に関与させまい。そう思ったんじゃ」
「何となく理解しました。先生、お気遣いありがとうございます」
依依は劉帆の優しい気持ちに感謝する。
「ふむ。しかしお前はしっかりと天子様の策にハマり、後宮入りとなった」
「目先の報酬に目が眩み、すみませんでした」
依依は再度劉帆に頭を下げる。
(でも元はと言えば先生が酒に賭博……ってもしかして)
「劉帆先生は酒に賭博とだらしない。でもそれって天子様の任務をして秘密裏に情報を得るため仕方なくとか?」
「そうじゃ」
劉帆がキッパリと、寸分の隙も挟まず自慢気な顔で答えた。
「劉帆先生、私は今まで――」
「依依、騙されるな。半分は絶対に己の趣味でしかないはずだ」
依依の言葉を遮る燈依。
「馬鹿者、趣味ではない、任務じゃ」
「では何故、金の無心を?」
「そ、それはじゃな……」
「天子様の命であれば酒に賭博であっても、潜入捜査の経費として落ちているはず」
ギロリと燈依が劉帆に疑いの眼差しを向ける。
「確かに兄様の言う通りかも。お金がないのが怪しい」
「そうだ。怪しいぞ。騙されるな。じじいは銭剣すら分解し、酒代にするような道士だぞ?」
「うん、怪しい!!」
燈依の言葉に依依は完全同意だと、大きく頷く。
「と、とにかく寂東は儂の後継として、天子様の鼠となったんじゃ。まぁ、まだ不安な部分はあるがな。しかし奴はまだ若い。これから精進し、更に善の心について学べば良いのじゃよ。依依、燈依、お前たちもだぞ」
話を強引にまとめる劉帆。
しかしその顔はとても穏やかで優しいもの。
「では花見の宴で寂東が取った行動は、全て天子様の存じ上げる事だと」
「そうじゃ。思蘭公主様の従者としてついているのも、沈麗の計画を知りながら見過ごしたのも、全て天子様の手の平の上での話じゃ。とは言え今回は多少寂東の暴走により思うようにはいかなかったようじゃが」
「それで依依が後宮に放り込まれたわけですね?言わばその、赦鶯様を通し天子様の密偵として」
燈依の言葉に劉帆が頷きで返す。
「なるほど。結局私が赦鶯様や明景様に報告してたのは、天子様の知りたいことだったと」
(でもそれって、天子様は沈麗が亡くなるのを知っていたけれど、助けない選択をしたということだよね)
依依はそれは正義なのだろうかと疑問に思った。
けれど、沈麗は自分の受けた傷を周囲を巻き込み広げた。
そして最終的にはその傷跡を残したまま、自らだけ人生に幕を閉じ逃げたのだ。
(善か悪か、その判断は難しい)
だからこそ天楼国の国民の一人として、皇帝の判断に依依は従うのみ。
(なんか天子様のせいにしているみたいだけど)
少しだけその事を申し訳なく思い、しかし依依は良くも悪くもこの話は本当にこれで終わりなのだと、肩の力が抜けた。
「それにしても天子様は花見の席で全くもって不自然ではなかったのにな」
燈依が煙に巻かれたような顔を依依に向ける。
「確かに、あれが演技なんて凄いよね」
依依は燈依に同意する。
「儂もやつほど狸な男を知らんからのぅ。表に見えている以上の事を常に企む抜かりない男じゃからな」
劉帆は白い顎ひげをなぞり愉快そうに目を細めた。
当たり前だが、劉帆には劉帆の。そして寂東には寂東の歩んできた道がある事を依依は改めて感じた。
(そっか。寂東も鼠なんだ)
依依はやっぱり寂東は憎めない人だと思う。
そして出来ればきちんと友達になりたいと思った。
(いや違うか。劉帆先生の弟子って事は、寂東も桃玄流の家族ってことだよね)
今度会うことがあれば、しっかりその事を本人に伝えようと依依は笑顔になる。
「全く、儂の孫は皆、手間がかかる奴ばかりじゃ」
憎まれ口を叩く劉帆の顔は明るい。
しわしわの、けれどだいぶ幸せが漏れ出した劉帆の顔を眺める依依。
その顔は晴れ晴れとしたもので、劉帆に負けず劣らず幸せが漏れ出していたのであった。