殺しの天才Sについて-1
これまで、何度も出てきた『殺しの天才、S』について説明しておく必要があるだろう。
Sは福岡県宗像市出身の男性で、宗像市内の自動車工場で働いていた。
奇しくも、作者である俺と同じ工場だった。
班が別で、俺は会ったことはなかった。
Sは無遅刻無欠勤で働いていたのだが、突然会社の寮から脱走し、行方をくらました。
工場では「人数が足りなくなった」と文句を言うグループ。そして「あいつがいなくなって清々した」と息をつくグループが出来たらしい。
Sが最初の犯罪に手を染めたのは去年の10月下旬。
博多のとある暴力団組織『A』から銃器を購入、Aと敵対する組織『B』の親分を銃撃したのだ。
目撃者の話では、Sは酒に酔っているようだったが、親分とその取り巻きを一人で殺し、無傷で帰っていったそうだ。
日付が変わったその日の夜に、Bの組員十名ほどがAの事務所に殴り込みをかけた。SはまだAの事務所にいたらしい。
結果から言えば、AもBも、どちらの組もなくなってしまった。組員の一人が重傷を負ったが生き残った。
彼によれば、ただ一人のSにみんな殺されてしまった、奴の体を弾のほうが避けていった、目が合ったとき体がすくんで動かなくなった、などの証言を残している。
Sは宗像市に戻り、同じ工場の労働者や彼の昔の知り合いなど、次々と殺していった。
証拠も目撃者もいるが、Sはうまく逃げおおせた。
このとき、Sが子供の頃に習っていた少林寺拳法の師範も殺されていた。
銃や刃物を用いず、素手で撲殺されていたのだった。
そして11月、Sは宗像市で大きな事件を起こす。
Sは彼の家族を皆殺しにした上、ガソリンを撒き放火。
どこから持って来たか知らないが、ダイナマイトも生家に仕掛け、爆発させた。
その後、消防隊が鎮火に当たっている傍に集まってきた野次馬に対し、サブマシンガンを乱射。そして逃走。警察の包囲を突破し、行方不明になった。当然全国指名手配され、Sの顔は全国に知れ渡ることになる。
宗像での事件は新聞でも大きく取り上げられた。
八つ墓村のモデルとなった都井睦夫の『津山三十人殺し』になぞらえ『宗像百人殺し』の見出しが躍った。
実際、この『宗像事件』の死傷者は百人近く出たが、実際の死者は三十人に満たない。しかし、ここまででSによる犠牲者の累積数は戦後最悪レベルのものとなった。
この事件でSのあだ名『殺しの天才』が定着した。
その後、Sは潜伏した。警察の警戒はまったく緩められなかったが、Sは見つけられなかった。Sの模倣犯が出てきたものの、彼らは一人の犠牲者を出さないうちに次々と捕まった。




