発端 1-1
「はい、あ、どうしました?」
氷高里緒は電話に出た。
痩せ型で長身、年のわりに少し幼げに見える容姿。開襟シャツに淡いピンクのスーツの彼女は弁護士である。
彼女は部屋の玄関にいて、今まさに出ようとしていた。
電話の相手は里緒と同じ福岡県弁護士会所属の、ベテラン弁護士である横溝だった。
ドアを開け、チラリと外を見る。
曇っている。
今日は雨になると昨日の天気予報が言っていたのを思い出し、憂鬱になった。
里緒は、真剣な顔つきで、うんうんと相槌を打ち、弁護士の話を聞く。
「わかりました。今から行きますから」
相手の弁護士は
「すみません。私は本日裁判に出席しないといけないので。ちょっと遠い所ですけど、氷高先生、お願いします」
「いえいえ、そういうことならすぐに終わりそうですね」
「県警の稲垣刑事が、駅まで氷高先生を迎えに行くことになっていますので」
電話が切られた。
内容は、ある女性がレイプされそうになった。で、反撃したら過剰防衛で緊急逮捕されてしまって、弁護士を呼ぶことになった、ということだ。
本当なら、電話の横溝弁護士が行くはずだったのだが、都合が悪く、里緒が容疑者との接見に向かうこととなった。
これも弁護士の仕事のひとつなのだ。
里緒が向かった警察署はかなり遠くにあった。
電車を乗り継ぎ、鹿児島線から筑豊線に換える。その路線はほんの十数年前まではまだディーゼル車が来た。本数も少なくなっているが、今でも動いているレトロな列車だ。違和感のある匂いが残っていて、発車時にガタッと揺れる。
里緒が乗り込んだ列車は、そんなディーゼル車だった。
目的の駅についた。
移動中には既に雨が降り始めていたが、今では一段と強くなっていた。
「傘、持って来ればよかったかな?」
自動改札を通り抜け、駅を出てすぐの場所にはタクシーとバスのロータリー。そして、こじんまりとした商店街。
現在、客待ちのタクシーはなかった。
ロータリーは狭く、タクシーやバス、そして迎えの車などがぶつからないか心配になるほどだった。
しばらく待っていると、そこへ一台の紺色の乗用車が来た。
降りて来たのは一人の若い男。背は高いが、痩せてひょろっとした印象がある。車と同様の紺色のスーツを着ていた。
「あ、どうも氷高先生。いやいや、お早いですね」
「悪いね~、稲垣君。わざわざ迎えに来てもらっちゃって」
「アハハハ、いえいえ。何でもありません」
稲垣刑事はしまらない顔で愛想笑いを続けた。稲垣は福岡県警の刑事である。そうは見えないほど、笑い上戸な男であった。平素の顔が笑い顔に見えるのもいつものことだった。
ちなみに、稲垣ら県警の刑事たちが事件解決に行き詰ると、里緒に操作の協力を依頼することもある。もちろん、県警が挙げた容疑者を、里緒が刑事裁判で無実を晴らし、代わりに真犯人を見つけてくることもある。実際には、警察は弁護士に捜査の依頼をすることはない。だが、示し合わせたわけでもないのに、里緒と県警は協力関係にあるのだった。
二人は車に乗り込むと、駅を離れた。
里緒は稲垣の車……いわゆる覆面パトカー……の中で、事件について軽く聞いてみた。
「今度の事件は、稲垣君が担当なの?」
「いえ、別の刑事です」
「容疑者って、どんな感じの子なの?」
「見た目で判断できなかったんですよ」
稲垣の顔から笑みが消えた。
窓ガラスをたたく雨の音が強くなってきた。車の冷房を付けるにはまだ時期は早かった。しかし、雨のせいで少し蒸す感じであった。
里緒の心に、何か引っかかるものがあった。
しかしすぐに気のせいだと思い直し、稲垣に問い直す。
「でも、レイプされそうになって、反撃したんでしょ? そうしなければやられていたんだから、正当防衛にはならない?」
「ちょっと待ってください」
信号が赤だったため、車は止まった。
稲垣は里緒に顔を向けた。今までの愛想のよさは消えていた。
「氷高先生、聞いていないんですか?」
「何を?」
「彼女は確かに、六人の男に襲われました。でも、容疑者は、殺したんですよ? 六人のうち、五人まで」
里緒は絶句した。驚いて何も言えなくなってしまった。
そんな話は聞いていない!
それでは、過剰防衛による立派な殺人事件……。
信号が青に変わり、車は発進した。里緒は椅子に体重をかけ、窓の外に視線を向けた。
「どういう人なの?」
「名前はHといって……」
稲垣の話が中断された。無線機が鳴った。
「こちら稲垣」
無線機の向こう側からは中年男性らしき声が聞こえてきた。というより、彼があまりに慌てていたので声がこちらに投げつけられてくる、といった感じだった。
『稲垣刑事! 至急、至急戻ってください!』
「どうした?」
『脱走です! H容疑者は所轄の警官数名を殺傷! 現在、警官隊を動員し、身柄確保に向かっています!』
「すぐに向かう! 氷高先生、足元にサイレンがあるので、鳴らして下さい」
里緒は稲垣に指示されたとおりに足元を探る。覆面パトカーがいざというときに使う簡易型のパトカー用サイレンがシートの下にあった。
無線から、巡回中のパトカーに警戒強化を呼びかけ、検問設営の指示が流れた。
里緒はサイレンを鳴らすと、窓から車の屋根に乗せた。
開放した窓から、外から大粒の雨が降りこんできた。遠くで雷の鳴る音も聞こえた気がした。覆面パトカーは車両を次々と追い越し、疾走する。
稲垣の顔からは笑顔が消えていた。