脱走 2-5
「だから、慌てるなよ。こんなことで俺を殺したっていいことないだろ? それより、逃げ出していい暮らししたほうがいいだろ?」
Hは我に返り、眼前の男を見据える。
「大体、あんなことで人を殺していいと思ってんの? みんなやってることだろ。俺が訴えたら、お前はやられている場面を、裁判所でみんなに言うことに……」
「うるさいわっ、ぼけがぁぁぁぁーっ!」
最後まで言わせなかった。
喉がつぶれんばかりの怒声を飛ばし、固く握った拳を大友の口に叩き込む。
先ほど護身術、逮捕術を習得しているはずの刑事を殴りつけたのと同じ打撃。
当然、素人の大友に避けられるはずもなかった。手にかすかな痛みが残るのと同時に、大友が後ろの壁まで吹き飛んだ。
大友はコンクリートの壁に背中を打ちつけ、両手で出血した鼻と口を押さえた。
Hは右手を見た。指の甲に歯が付着していた。
今までの強気な様子はすっかり無くなり、大友はHを見て、震え上がった。Hは歯を指から取り去り、一歩踏み込む。大友は首を小刻みに横に振る。何か言っていたのかもしれないが、Hの耳には何も聞こえなかった。
大友の顔に再び一撃。大友の頭が壁にぶつかり、バウンドする。今度は髪をつかみ、振り上げた膝にあわせる。大友の口から血と歯が飛び散る。
「馬鹿にして、馬鹿にしやがって……。どいつも、こいつも!」
さらにHは大友の額に手を当て、後頭部を壁に何度もぶつけ、次に頬を壁にこすりつけた。そんなときでも大友は抵抗した。
大友の手が顔に当たった。
そのお返しとばかりにHは大友の股間を蹴り上げ、床に倒す。
「このレイプ魔が! なんでお前みたいな、腰巾着の蛆虫野郎に説教さんかされなきゃいけないんだ! 私は絶対に許さないから! しね、しね! この、ごみ虫が! くそ野郎が!」
大友の顔をHは何度も踏みつける。前歯を全部なくした大友は両腕で頭を庇うことしかできなかった。大友は時々チラチラと自分を見ているが、奴に今の自分はどう見えているだろうか。
目は血走り、声は野太くなって罵詈雑言を吐き散らし、女のものとは思えないほど強い力で暴力をふるう、文字通り鬼のような存在に見えているだろうか。
それ以上に、Hには許せなかった。自分の中から怒りが沸きあがり、それが体を支配する。
昨夜、彼らの仲間五人を殺したときのように、止められそうになかった。
大友の顔が膨れ上がり、口や鼻の周りにべったりと血が付着している。腫れ上がったまぶたの下から細い目が覗き、涙を浮かべている。
「ごむぇ、ゆるひて……」
「謝ればすむと、思ってんのか!」
Hは大友の首をつかみ、同時にベルトに手をかけた。
大友が驚いていると、Hが彼の体を頭上まで持ち上げた。気合と共に大友の体を机にぶつける。机は派手な音を立て、吹き飛んだ。
Hは床に倒れた大友を足で踏みつけながら、静かに言った。
「そうだ、私に殺されない方法を思いついた。やってみる?」
膨れ上がったまぶたを一生懸命持ち上げ、大友が涙のたまった目でHを見つめた。
しかし、またも返事はない。
「ここから出て、どこか高いビルの屋上に昇って、そこから飛び降りなさい」
大友の表情が固まった。一方、Hは冷たい瞳で彼を見つめ、不気味な笑みを浮かべた。
「いくら私でも、死んだ人は殺せないからね」
哄笑が再び取調室に響く。その中で大友は動かなかった。
Hは先ほど殺した田中刑事と警察官のポケットを探り、財布と弾丸をとった。そして、田中刑事の警察手帳を手にした。
Hが大友を振り返り、つぶやく。
「私は、いつでもあなたを殺せるからね」
この時、弁護士氷高里緒がディーゼル車に乗って、警察署の最寄の駅に到着しようとしている時刻だった。




