脱走 2-2
Hの指先は警察官の首から動くことなく、そのままその位置に食い込む。警察官の手がHの手を外そうとしてくるが、Hは意に介さず、指先に力を入れる。
「何をしているの!」
今井が立ち上がりつつ叫ぶ。
「あなた、今自分が何をしているか、わかっているの?」
Hは答えなかった。
「やめなさい! それ以上罪を重ねるのはやめなさい!」
「ン……?」
「あなたにだって、大切な人はいるでしょう? その人が誰かに殺されたら、どうするの? あなたはどう思うの?」
Hは何も言わず首を振った。
「人を殺すというのは、どういうことだと思っているの? 殺された人の命は、二度と戻ってこないのよ! あなたは」
「だったら、どうだというんです」
「あなたは、今回」
今井がそう言った時、Hの拳は警察官の鼻面に当たった。
殴り倒され、起き上がろうとしている警察官に今井が手を差し伸べていた。Hはその隙を逃さなかった。
Hは警察官を踏みつけ、素早く今井の手をつかむ。
「ぐ……」
足元でうめく警察官の、その頭に足を強く踏み下ろす。
刑事の腕をねじりあげる。
Hより体が大きく、それなりに護身術も使えるであろうその刑事は、痛みで顔をゆがめ、歯を食いしばる。口の中は血で真っ赤だ。
Hは薄笑いを浮かべ、目を細めて刑事にささやく。
「刑事さん、いい人みたいだから、命ばかりは助けてあげる」
下の人は……、とHは踏みつけている警察官を見下ろした。
助けてもいいけど、もう警察では働けないかな、いや、一気に楽にしてあげてもいいかな。どうでもいいですし、こんな人。
Hは不意に腕を引っ張られ、体勢を崩した。
油断した。
腕をねじりあげていた今井が息を吹き返した。
今井は一瞬で脱出。
Hは何が起こったのか、わからなかった。
目が合った。胸の奥が熱くなった。
そしてむくむくと怒りが湧き起こった。怒りの感情はHの体を駆け巡った。
気合と共に警察官の頭を踏みつける。
警察官の首から鈍い音が聞こえ、同時にHは重心を下げた格好で、転倒を踏みとどまる。眉間にシワ、釣り上った目、狂気が宿った小さな瞳。
刑事は身を引いた。
「なんですか、今の態度は……? ああ? 私をなめていると」
このとき、Hの脳裏にこれまでのことが浮かんでは消えていった。
学校では、自分は目立たない存在だった。
先生から出席を飛ばされたことも一度や二度ではなかった。
このままではいけないと何かの委員に立候補してみたが、誰も手を上げてはくれなかった。
文化祭で演劇をやることになり、自分がなんらかの役になったこともある。
しかし、翌日新たに配役を決めなおすことになり、あっさりその役から降ろされてしまった。
「まったく、どいつもこいつも……」
さっきしまった手錠を取り出す。今井が後ろに下がると、その分Hもにじり寄った。ここは取調室で、かなり狭い。刑事が逃げようとしても、限界があった。
やがて、今井刑事は追い詰められた。
「馬鹿にしやがってぇぇ!」
手錠を握り、臨時のメリケンサックにした。
その上で刑事を殴る。今井の顔に食い込むのはHの拳ではなく、手錠の輪の部分。今井は口から血を飛ばし、後ろの壁に背をぶつける。
そして、Hは足を高く振り上げ、今井の顔に蹴りを入れた。
ああ、そうだ。私は運動会のときとか、足が遅いからって、ただの徒競走に入れられたんだっけ。で、そのとき足の速い奴は、いや運動の出来る奴はいつもクラスで人気があって、友達も多かった気がする。奴らは頭悪くて、性格もよくないのに。
「かぁっ!」
足を振り回し、フォロースルーに入る。しかし、振り回したばかりの足を胸元にひきつけ、今井の顔に向けて突き出す。
今井の頭が壁とHの足に挟まれたようになった。今井は動かない。足を下ろすと、今井の頭が壁から離れ、床に伏した。
Hはさっき落とした銃と財布を拾い、さらに書記だった警察官の銃と警棒、そして財布を抜き取った。
今井刑事の銃も同じ型だった。
そういえば、日本の警察に支給されている銃はニューナンブという名前だと思い出した。
だとすれば当然、弾丸は同じ。
Hは口端を吊り上げ、片方のニューナンブから弾丸を全て抜いた。




