幕間
「かあさま。とうさまは?」
とある屋敷の静かな中庭。
せっせと花摘みに興じていた小さな彼女は、近くの椅子に座る女性を見上げて無邪気に問う。
「とうさまは今日もお仕事よ。ユリア、マリアナ様のことは覚えている?」
「ええっと…」
「マリアナ・バルディ様よ。少し前に、我が家に遊びに来てくださった」
「…あっ、かあさまのおともだち!」
「そう、母様のお友達。よく覚えているわね、偉いわ」
女性は足元に危なっかしく駆け寄ってきた彼女の頭を撫でた。
彼女は「えへへ」と嬉しそうに笑って、女性の足にまとわりつく。
そしてスカートごとぎゅうぎゅうと抱きしめながら、彼女は女性をまた見上げた。
「とうさま、マリアナさまといっしょのおしごと?」
「そうよ。マリアナ様がお仕事を頑張ったから、国王様にお褒めを頂いて、王宮で栄誉を賜るの。とうさまが証人になるのよ」
「…?マリアナさまはすごいのね!だってかあさまのおともだちだもの!」
「ふふ、そうよ。マリアナ様はとてもすごいの。あなたにも、マリアナ様のようなお友達ができるといいわね」
「がんばる…ユリアも、とうさまのおちからになりたいもの…」
人見知りらしい彼女は、眉を下げて口を尖らせた。
その愛くるしい姿に、女性は幸せそうに微笑む。
女性の後ろに控えていた侍女たちも、穏やかな笑みを浮かべていた。
屋敷に繋がる扉から顔を出した老齢の執事が、そんな女性と彼女に優しく声を掛ける。
「奥様、お嬢様。そろそろ風が冷たくなってまいりますから、どうぞ中へ」
「ありがとう。ユリア、戻りましょうか」
「はあい」
女性に手を引かれ、彼女はとことこと器用に歩いていく。
繋いだ女性の左手にある指輪には、大きな紫色の石が嵌められている。
手を繋いだ時に間近で見れるその輝きが、彼女は大好きだった。
「結婚するときに、とうさまから貰ったのよ」
かつて、女性はそう言って慈しむような目をして指輪を撫でた。
「いいなあ。ユリアもほしい」
「ユリアにはまだ早いわね。そうね…あなたが成人する頃には」
「ほんとう!?」
「もしかしたらね。だからユリア、たくさん学んで大きくなるのよ」
「うん!」
そんな会話をしたのはいつだっただろうか。
男性はこちらに背を向け、ただ座っている。
いくらか長じた彼女は、扉の影からそんな背中を黙って見つめていた。
あの女性はいない。冷たく暗いこの部屋で、男性は一人きりで座っていた。
「とうさま…」
呼びかけられた男性は、げっそりとやつれた顔でこちらを振り向く。
彼女の姿を認めると、悲しい顔で笑って、こちらに来て、心細そうな彼女をぎゅっと抱きしめる。
「心配するな。行ってくるよ、ユリア」
そしてすぐに部屋を出ていってしまう。
彼女は知っている。
母を──最愛の妻を亡くしたその人が、食事も睡眠もろくに取れないまま、仕事に行っていることを。
使用人たちが、ぼろぼろの主人を哀しい目で見つめて、それでも主人の意に沿い出来る限りの手を回していることを。
寂しいと、泣きつきたかった。
そばにいてと、我儘を言いたかった。
無理をしないでと、怒りたかった。
お願いだから──とうさままで、わたしを置いていかないでと。
すっかり温かさを失った小さな手をぎゅっと握って、彼女はしゃがみ込む。
侍女が探しに来るまで、彼女は冷たい部屋でずっと父の帰りを待っていた。
彼女は、見上げた父が優しく微笑んでいることに安堵した。
もう滅多に見ることのできなかった笑顔だ。
周りにいた大人たちも、優しい顔でこちらを見ている。
その温もりに後押しされて、彼女はためらいながらも自分に差し出された少年の手を取った。
一面の青い花畑だ。
少年に抱き上げられた彼女は、その幻想的な美しさに言葉を奪われる。
花畑の中で、たくさん話をした。
たくさん話を聞かせてもらった。
眼下に広がる青は、目の前の少年の瞳と同じ色。
宝石みたいにきれいと言うと、少年は照れたように笑う。
少年から内緒話をされた彼女は、その話をいたく気に入った。
「ミラさまっ」
いつの間にかすっかり心を許した彼女は、衒いなく、元気よく名前を呼ぶ。
今だけだよと言う少年に、彼女は機嫌よく何度も頷いた。
アシュリーは夢を見る。
もうひと時の邂逅すらも叶わない、懐かしくもじくじくと痛みを伴う破片を、ずっとかき集めている。
これまでも。……そして、きっとこれからも。