第二十二話
ここ一週間ほど、おやっさんとおかみさんは特に忙しい。
客足が目に見えて増えたわけではない。
新しいメニューを増やしているわけでもないし、今は決算の時期でもお役所に申告をする期間でもない。
だが、いつもなら二人揃って仕込みをしているはずの午前中に、どちらかがいないことが増えた。
仕入れ先の調整でもしているのか、何かトラブルがあったのか。
それとなく訊いてみても、「アシュリーが気にすることじゃない」の一点張り。
店を閉めた後もそのまま二人で話し込んでいるのを目にすることが増えたし、朝起きても既にどちらかは出かけているのだ。
そんな姿に、アシュリーは不安を覚えるのだった。
──いつまでも、このままではいられないのかもしれない。
そもそも『アシュリー』には籍がない。
ただの子どもであった頃はそれでも良かったのかもしれないが、これから成人の年を迎えても、アシュリーが就職できるところはないだろう。
籍がないということは、つまり国の民ですらないということ。
不法入国と取られてもおかしくない。
そんな人間を数年に渡って養い働かせていることがお役人の知るところとなれば、それがこの店にとって、おやっさんとおかみさんにとって致命的な瑕疵になりうるかもしれない。
自分の存在が、ふたりの迷惑になり得る──
それはこれまで全く思い至らなかった可能性だ。
だがふたりの善意によって身の安全と衣食住を保障され、“生きること”だけに全身全霊を傾ける必要がなくなってきた今のアシュリーだからこそ、ようやくその可能性に気づいたのだ。
どうすればいいのだろうか。
このままおやっさんとおかみさんの善意に甘え続けるわけにはいかない。
でも義母と義姉がいる限り、アシュリーは『ユリア』に戻れない。
そしてこのままいけば、『ユリア』は王太子妃となり、やがて王妃になるのだ。
王都にいる限り、その姿を嫌でも目にしなければならない。
それでも王都に残りたいとはもはや思えなかった。
だが王都を出たとて、これまで一度も王都の外に出たことがないアシュリーには土地勘も、頼るあてもない。
父は“生きろ”と言った。
だから、父と母のもとに逝くわけにもいかない。
でも、自分一人でどうやって生きていけばいいのか──
堂々巡りだ。
「──リー、アシュリー?聞いてるかい?」
おかみさんに肩を揺すられて、アシュリーははっと意識を戻す。
閉店後の店内で、ぼーっとしてしまっていたようだ。
心配そうに顔を覗き込んでくるおかみさんに、アシュリーは笑顔を返す。
「具合でも悪いの?」
「いや、そういうわけでは……ごめんなさい、何の話だった?」
「明日、朝から出かけるよ。早起きしてもらわなきゃいけないけど、……そんな調子だと起きれるか怪しいね。さっさと上に戻って寝な」
「え?……分かった、おやすみなさい」
「おやすみ、アシュリー」
「おやすみ」
おかみさんとおやっさんの挨拶に送られて、アシュリーは三階に上がる。
朝から出かける。…一体どこに。
考えても考えても、思い当たるところはない。
──ついに家を出されるのかしら。捨てられるのかな。
そんな暗い想像を掻き消すように、アシュリーはベッドに潜り込む。
ふかふかの枕に顔をうずめて、目を閉じた。
翌朝、支度をしたアシュリーが一階に降りると、もう二人は準備を済ませた状態で待っていた。
「おはよう、アシュリー」
「おはよう」
「おはよう。…こんな朝から、どこに行くの?」
「着いたら分かる。ほら、行くよ」
そう言って歩き始める二人の後についていきながら、アシュリーの気持ちは落ち込むばかりであった。
その背中を、久々に顔を出した朝日が見送っている。
柔らかなその光は連日の雨で湿り切った地面を照らし、優しく乾かしていくようだった。
人のいない静かな芽吹きの刻を、黙々と歩き進める三人。
やがてよく見慣れた建物に向かっていることに気づいて、アシュリーは瞠目した。
王立魔力鑑定機関だ。
そして前を行く二人の足は、別館ではなく本館の方へ向かっている。
「え?え?なんで?」
戸惑うアシュリーをよそに、二人は本館の入口──ではなく、本館の裏の方へ進んでいくではないか。
裏には恐らく職員が使用する通用口があって、そこに騎士が立っている。
驚くべきことに、その騎士はおやっさんとおかみさん、そしてアシュリーの姿を認めて軽く一礼し、通用口を開けたのだ。
目を剥いて驚愕するアシュリーに二人は苦笑いして、騎士の後に続いていく。
こんな形で本館に足を踏み入れることになるとは思わなかった。
しかも、ここに来て尚、アシュリーには二人がこの場所にどんな用があるのかさっぱり分からない。
通用口を抜けてすぐのところには応接室と書かれた部屋があり、三人はそこに通される。
やはり外部から訪問する人間をおいそれと中に通すわけにもいかないという理由で、通用口に一番近い部屋が応接室として割り当てられているのだろう。
とはいえさすが王立の機関というべきか、調度品はどれも一級品のようだ。
そして中には職員らしき男性が一人待っていて、どうやらお茶の準備をしてくれるようだ。
アシュリーたちが示されたソファに腰を下ろしたのを確認して、男性がお茶を淹れて三人の前にカップを置いていく。
「こちらで少々お待ちください。すぐに参ります」
騎士はそう告げて、男性とともに部屋を出ていく。
誰が、とは言わなかった。
アシュリーは結局これから誰がここに来て一体何の話をするのか、皆目見当がつかない。
「ねぇおかみさん、おやっさん。…どうして?なんでここに来たの?」
「相手がいらしたら全て説明してくださるから、大人しく待ってろ」
おやっさんにそう言われてしまうと、アシュリーも口を閉じざるを得ない。
五分もたたずして、扉をノックする音が聞こえる。
すぐさま立ち上がって頭を下げた二人に倣って、アシュリーも立ち上がって頭を下げた。
「…ああ、頭を上げてください。どうぞ、楽にして構いませんよ。畏まるような場でもないので」
聞き覚えのあるその声に、まさか、とアシュリーは思わず真っ先に顔を上げてしまった。
「久しいね、アシュリー嬢。…さあ、どうぞ皆さんお掛けください」
目の前に立って微笑んでいるのは、ライズだった。
ライズに会うのは実に二ヶ月ぶりだ。
だが、ライズが現れたことによって、アシュリーの頭はますます混乱する。
ライズが、アシュリー達三人に、一体何の用なのだろうか?
だが不躾にそれを尋ねるわけにもいかず、アシュリーは黙って話が始まるのを待つ。
ライズは後ろに、二人の男性を連れていた。
一人はジャン。そしてもう一人は、三十代であろうか、眼鏡をかけた厳格そうな男性だ。
ライズはその二人にも席に着くよう促し、自らもアシュリー達の正面に腰を下ろす。
「パトラ卿、シエル夫人、それからアシュリー嬢。今日はこちらの都合で早朝からお呼び立てしてしまって申し訳ない」
「とんでもないことでございます」
深く頭を下げる二人に倣って、アシュリーもまた頭を下げる。
「話の前に、こちらの者を紹介しようか。まずこちらがジャン・オーウェン子爵。王国騎士団の一隊を率いる隊長を務めている」
ライズの紹介を受けて、ジャンが軽く礼をする。
「そしてこちらはヨハンソン・ヴェルハイツ公爵令息。弱冠二十六歳にして、この王立魔力鑑定機関の副機関長を務めている」
「…!サリュ様の従兄君であらせられますね」
アシュリーは思わず口を挟んでしまったが、ライズは気にした風もなく「そうだよ」と笑う。
ヨハンソンも穏やかな笑みを浮かべて、アシュリーに礼をした。
「アシュリー嬢、その節は従妹が大変ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、そんな…とんでもない……」
三十代かと思っていたらまだ二十代半ばだった、などと思わず頭に浮かべてしまったこの不敬は、絶対に墓まで持っていこう。
人知れず決意するアシュリーをよそに、ライズがまた口を開く。
「さて、今日この場を設けたのは他でもない、そちらのアシュリー嬢のことだ」
アシュリーはぎょっとした。
ライズの言葉に、ジャンもヨハンソンも、おやっさんとおかみさんも真面目な顔で首肯している。
アシュリーだけがこの状況を何も分かっていない。
あまりの驚きにうまく回らない頭を叱咤して、アシュリーは必死で思考を巡らせる。
何かしでかしてしまったのか、思い当たるとすればそれはまさに自分が考えていた──
「も、申し訳ございません!」
「──えっ」
アシュリーに出来たのは、とにかく立ち上がって先にがばっと頭を下げることだけだった。
おやっさんとおかみさんはぽかんと口を開けているし、ライズとヨハンソンは笑みを浮かべたまま固まっているし、ジャンはアシュリーの突飛な行動をうっすら察したようで静かに肩を震わせている──のだが、頭を下げているアシュリーは当然それらの反応を知る由もない。
「私はこの二人の善意でこれまで生かして頂いた身です、だからこの二人に何ら責任はございません!罰があると言うのなら、それは私のみが受けます!居候していることでこの二人に咎が発生すると言うのならすぐにでも出ていきます、だからどうか──」
「……待て待て、アシュリー嬢。話が飛躍しすぎている」
必死に言い募っていたアシュリーの頭上に、笑いをかみ殺しきれていないジャンの声が乗った。
予想外の言葉に、アシュリーはこちらもぽかんとして顔を上げた。
その顔はどう見てもアシュリーの隣に座る夫婦の表情にそっくりなものだから、ジャンはついに「失礼」と顔を背けてくつくつと笑い始める。
そしてライズもヨハンソンも、いかにも笑いを抑え損ねたという顔でアシュリーを見ている。
「え?え?」
「えーと、アシュリー。とりあえず座んなさい。で、あんたはなんで今謝ったの?」
「えっ?私が籍のない人間だということが発覚したから、その処遇に関するお話なのでは……?」
おかみさんに問われて、すとんと座ったアシュリーは訳が分からない顔で答えた。
「なるほど?…半分正解、半分不正解、だ」
「半分…?」
ますます訳が分からない。
「アシュリー嬢は、この場でそちらのご夫婦と私たちとの話があると聞いて、そう思ったわけだね?…つまり、これは貴女の処遇を申し渡す場だと」
「…その通りです」
「それは間違っていない。ただ、そのことでご夫婦に何かしらの罰が与えられることは絶対にないよ。そこは安心してほしい」
「はい」
「さて、順を追って話そうか」
困惑しきっているアシュリーを安心させるように微笑んで、ライズは話し始めた。
「まず、確認からしよう。アシュリー嬢、君はパトラ卿とシエル夫人の子ではないね?」
「…はい。その通りです」
「パトラ卿、シエル夫人。改めて、アシュリー嬢を引き取った経緯について聞かせてほしい」
「この子を──アシュリーを保護したのは三年前です。私共が営む店の前に、この子が蹲っていたのを見つけたのがきっかけでした」
その日、貴族居住地の方から鐘の音がひっきりなしに鳴るのが聞こえていたという。
珍しいなと店の扉から顔を出したおかみさんは、その扉のすぐ横で蹲ったまま、どうやら意識を失っているらしい少女に気づいた。
その少女が纏う衣は泥や煤、そして黒ずんだ何かに塗れ、ところどころ焼け焦げて穴が開いていた。
おかみさんは驚いて、急いでおやっさんにも声を掛け、三階の住居まで抱えて連れていった。
抱えて上がる途中で、少女は目を覚ましたらしい。
焦点の定まらない目で周りを見回して、それから自分を抱えているおかみさんの存在に気づいた。
ぼんやり彷徨っていた瞳がおかみさんを捉えてぱちくりと瞬き、そして次に映したのは、──明らかな恐怖の色。
顔を強張らせてガタガタと震え出した少女に慌てて、おかみさんは急いで部屋に上げソファに座らせる。
『お嬢ちゃん、安心して。ここにあんたを傷つけようとする奴はいない。そうさね、私のことも怖いかもしれんが……私も、このおやじも、誓ってあんたを傷つけない。…言っていることが、分かるかい?』
少女は未だ震えながらも、こくりと頷いた。
どうやら言葉は通じるらしい。
『うん。そしたら…どこか痛いところや、怪我をしているところはあるかい?』
これには首を横に振る。
『そうか。なら良かった…お嬢ちゃん、どこから来たのかとか、分かる?親は?』
ひ、と引き攣れた声が喉奥から漏れたのが分かった。
途端にぼろぼろと涙を零して、ふるふると首を振る少女には、何か事情があるようだ。
『あ、ああ…ごめんよ、つらかったかね。その話は聞かないでおこう。不躾に済まなかったね』
首を振り続ける少女に、おかみさんは困ったように目をやって、それからまるっきり別のことを口にした。
『お嬢ちゃん、服が随分汚れているようだから、綺麗にしようか。そのままでいるのは砂っぽくて気持ち悪いだろう?風呂に入る?』
こくり。
『よし、それじゃあ浴室に行こうね。…そうだ、名前は?』
『……アシュリー』
『アシュリーね。よし、早速体を綺麗にしに行こう』
そうして、二人はこの少女に甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
「…見るからに事情を抱えているこの子を放り出すわけにもいかず。落ち着いて話を聞いてみてもやはり身寄りがないようだったので、そのまま家に住まわせました」
「なるほど。分かりました。…アシュリー嬢、私たちは今理由あって人捜しをしているところでね。その調査の延長線上で、君の籍が存在しないことが発覚した」
「…はい」
「となると、今ここで『アシュリー』という名を名乗っている貴女は誰なのか?という問題になってくる」
「はい…」
「そのことを君は自覚していたからこそ、最初に謝ったのだろう?籍を持たない人間は不法入国の線を疑われるし、そうなるとその者を意図的に匿っていたのではないか、良からぬ企てをしているのではないかとご夫婦に疑いが向けられることも、聡い君は分かっていたはずだ。だから先ほど、何よりもまず謝罪をし、真っ先にご夫婦の処遇に対して嘆願を申し入れたわけだ」
「…恐れながら…その通りです…」
ライズは相変わらず微笑んで、アシュリーを見つめる。
「そのことを責めるために呼んだわけではないんだよ。アシュリー嬢、私たちは調査の結果、どうやら君がその探し人である可能性が高いと、そう結論付けた」
「…は…?」
自分が、ライズたちの探していた人間であると?
「そこで、ここ一週間ほどご夫婦にも少しばかり話を聞かせてもらっていてね。そして今日、貴女をここに呼んだ」
隣の二人を見やると、おやっさんもおかみさんも重々しく頷いた。
ここのところ必ずどちらかが出かけていたのは、ライズに会っていたからだったのだ。
ライズはおもむろに立ち上がると、アシュリーの前で膝を折る。
「ライズ様?」
「アシュリー嬢、僕の目を見てほしい。……どう思う?」
「どう、って……」
「答えてほしい」
ライズの突拍子もない行動と質問にアシュリーは目を白黒させるが、ライズの目は真剣そのものだ。
ジャンやヨハンソンも、おやっさんとおかみさんも、こちらを見つめている。
「…その……、ライズ様に初めてお会いした時にお伝えした通りです。とても、綺麗な瞳で……凪いだ海と、夜空を溶かし込んだ色が…そして、水面が陽の光を浴びて煌めくようにも、無数の星が瞬くようにも見えて…とても、素敵です」
端正な顔に見つめられると、否が応でも顔の熱が上がる。
しどろもどろになりながらもそう返すと、ライズはふいに微笑んで、羽織っていた上着の懐から何かを取り出した。
「……!」
アシュリーは目を見開く。
その手にあったのは、一輪の青い花だ。
大きな花弁を見事に綻ばせた大輪が、遠い記憶の中に埋もれていた姿を一気に蘇らせる。
「…、どうして…?」
どうしてシスミックがここに、と声に出しそうだったのを何とか押し留める。
シスミックは門外不出の花だ。
こんなところで軽々しく口にすることは出来ない。
訳の分からぬ状況にあっても、その慎みは持っていた。
だが、どうしてライズがこの花を持っているのか。
その葛藤や疑問すらも見抜いているかのように、ライズは一層柔らかい笑みを向けた。
「アシュリー嬢、これを受け取って」
すい、と差し出されたそれを、アシュリーは咄嗟に受け取ってしまう。
受け取る瞬間、僅かにライズとアシュリーの指先が触れ合う。
そしてライズが手を離したその時、花がぽう、と光を帯びた。
青い輪郭をうっすら象った美しい光が、花弁の先から粒となって零れていく。
零れ落ちた粒はふわりと舞い上がって、花の周りを漂う。
アシュリーの手の上で広げられる幻想的な光景に、おやっさんとおかみさんはただ瞠目し、ジャンとヨハンソンはまるでそれを予期していたかのような顔で見つめていた。
やがて光は溶けて消え、咲き誇った青色だけが残される。
アシュリーはそれをつぶさに見届けながら、うっすらとしか残っていなかった記憶が鮮明に修復されていく感覚を覚える。
「……あの、ライズ様…」
「やはり、君だったんだね。アシュリー嬢──いや、ユリア嬢」
問いを遮るようにそう呟かれて、アシュリーは今度こそ言葉を失った。
目の前で跪いていた紺色の髪の青年が、瞬きひとつで容貌を変える。
アイスブルーの髪、傷を知らない白い肌、そして先ほどと何も変わらぬ青い瞳。
この国の民の誰もが存じ、敬愛してやまないその青年が、立ち上がって恭しく一礼をする。
そして、今日一番の笑みを浮かべて、朗らかに名乗った。
「メルサバイト王国王太子、ブライト・メルサバイトだ。ユリア・ベルティーニ公爵令嬢、僕の唯一の君。僕は君を探していたんだ」




