第二十一話
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結局その後、ジャンから報告が上がってくることはなかった。
ブライト自身、その後すぐに通常執務と喫緊の決裁処理などに追われてしまったため、進捗も聞かずに一日を終えることになってしまった。
真夜中近く、ブライトはようやく寝室の灯りを落として広いベッドに潜り込む。
身体は疲れているが、頭はまだ冴え切っている。
すぐに眠りに落ちることは出来なさそうだなと思いつつ、ブライトは目を閉じた。
──あれは約十年前のこと。
王宮の庭園で催された非公式の茶会。
そこには父上の側近であるごくわずかな者とその家族が招待され、肩肘張らないひとときを楽しんでいた。
家族が招待されているとはいえ、出席している未成年者は十三歳の僕と、父の親友でもあるマルクス・ベルティーニ公爵の七歳の令嬢だけだ。
ベルティーニ嬢は半年前に母を亡くしている。
兄弟姉妹もなく、使用人しかいない屋敷で毎日父の帰りを待っているという。
そのため久々に屋敷に戻り顔を見せた父から離れたくないと涙を流し、公爵が仕方なく連れてきたらしい。
公爵の上着の裾をぎゅっと掴んで離さないベルティーニ嬢は、それでも挨拶の際には令嬢らしく見事な立ち振る舞いを見せた。
居合わせた御婦人方はその健気な姿に目頭を押さえ、それから代わる代わる令嬢の相手をする。
僕は父上の側近たちに挨拶をし、それから父上と執務の話をしている彼らの様子をじっと見つめていた。
御婦人方はそのうち、茶菓子を囲んで話に花を咲かせ始める。
ベルティーニ嬢はしばらくそこに混じって話を聞いていたようだが、やがて席を離れると公爵のもとへやって来た。
「どうした、ユリア」
「…とうさまといっしょにいます」
小さく呟いて父の足にしがみつくベルティーニ嬢は、泣きそうな顔をしている。
いつだったか、ベルティーニ家のご令嬢は些か人見知りなのだという話を聞いたような気がして、ああと得心が行った。
このような内輪の茶会であっても、きちんと場を見て会話に混じるのが大事な務め、というのが貴族の令嬢に叩き込まれる基本儀礼のようなものだ。
彼女もそれに則ってしばらく務めを果たしていたようだが、どうやら限界が来て父の元に逃げ込んできたらしい。
公爵は困ったような笑顔を浮かべて、娘の髪を優しく撫でる。
「ふむ。…王子よ、ベルティーニ嬢に温室を案内してはいかがかな」
父上にそう言われて、僕は察した。
恐らく仕事の深い話をするのだろう。子どもとはいえ、僕やベルティーニ嬢が聞いていていい話ではなさそうだ。
「かしこまりました、陛下。温室でよろしいのですか?」
「ああ。きっとベルティーニ嬢も気に入るだろう」
「ではそのように」
僕は席を立って、テーブルを回り込んで公爵の席に向かう。
膝をつき、公爵の足にしがみついているベルティーニ嬢と目線を合わせた。
不安そうに揺れる大きな紅い瞳をまっすぐ見つめ、ゆっくり語りかける。
「ベルティーニ嬢。貴女は花がとてもお好きだとお聞きしました。宮の者が向こうの温室で花を育てているのですが、ご興味はおありですか?」
ベルティーニ嬢は瞬きをひとつし、少しだけ目を輝かせた。
その瞳に肯定を見て取れる。
「それでは、どうかこの私に、貴女をエスコートする栄誉を頂けないでしょうか」
ベルティーニ嬢は父を見上げ、その父が髪を撫で優しく微笑むと、僕が差し出した手にそっと小さな手を重ねて、「たいへんうれしく思います。どうぞよろしくおねがいします」とはにかんでみせた。
そんな彼女は七歳であろうとやはり公爵令嬢であった。
ベルティーニ嬢の小さな歩幅に合わせて、手を繋いだままゆっくり歩く。
庭園をもっと奥に進んだ場所にある温室。
そこで育てているのは、王家の花“シスミック”だ。
言うまでもなくシスミライトから名付けられたその花は、宮の先代庭師が偶然交配に成功した品種で、見事な青い色をしている。
自ら温室の扉を開け、彼女を中へ招き入れる。
彼女が扉から一歩中に足を踏み入れると、花々が一斉に柔らかい光を帯びた。
思わず目を見開いた僕に気づかず、ベルティーニ嬢は立ち止まって瞳を輝かせ、その幻想的な光景に見入っている。
仄かな光が花から零れ、ふわりふわりとあたりを揺蕩う。
その様は穏やかな春風に吹かれる綿毛のようにも、ゆったりと舞う雪のようにも見えた。
僕は後ろに控えていた執事と侍女に目配せをする。
執事は一礼し、すぐに踵を返して来た道を戻っていった。
侍女は温室に最後に入って扉を閉め、その横で静かに控えている。
やがて光は溶けて消え、美しい大輪の青がその輪郭を取り戻す。
ベルティーニ嬢はその光の残滓を見届けて、ようやくほうと息をついた。
知らず息を止めるほどに見入っていたらしい。
「きれい…」
「この花はシスミックと言います」
「シスミック…王家につたわる“青の至宝”からなづけられたのですね」
「その通りです、ベルティーニ嬢。よくご存じですね」
褒められたことが嬉しかったのか、彼女はぎこちなくも笑顔で僕を見上げた。
たくさん話したい気持ちを抑えているのか単に気持ちに口がついていかないのか、彼女はたどたどしくも懸命に言葉を紡いでいく。
「ベルティーニのおやしきにも、お花がたくさんさいているのです。シスミックほどりっぱではないですが、いえの庭師がまいにち手をかけておせわしているので、おやしきのお花もきれいでとても好きです」
「それは良いですね。この宮でも様々な花を育てておりますよ。ですが、このシスミックを育てているのは、この温室だけです。宮の外に流通もさせていないのです。本来なら王家と、この宮に仕えるごく一部の者しかこの温室に入ることは許されませんが、ベルティーニ嬢ならきっと喜んでくれるだろうと、今日ベルティーニ嬢をここに案内することを陛下が許可されました」
「そうなのですか?陛下が…しかも王子殿下にごあんないいただけるなんて、こんなに…わたくし、ほんとうによろしかったのでしょうか…」
「もちろん。ただ、温室に入る者は限られていますから、このシスミックについても他の者に話してはなりません。ベルティーニ嬢の御父上にもですよ。ベルティーニ嬢は秘密を守ってくださいますか?」
「は、はい!だれにも、父にも言いません!」
見事な花と、その秘密を共有したことで、彼女の緊張はほぐれてきたようだ。
少しずつ、彼女の表情が柔らかくなる。
少しずつ口数が増え、そして彼女の生来の快活さが見えてくるようでもあった。
十三歳と七歳。
その年の差をものともせず、どんな内容でも打てば響く会話には僕自身驚いた。
公爵からかなりの知識や教養を既に叩き込まれているのだろう、その豊富さに内心舌を巻くほど。
彼女と話しているのは楽しかった。
ご令嬢との会話で、楽しいと思えるのは初めてに等しかった。
普段はどうしても、会話の裏を読んでしまうから。
僕に近づくその思惑を敏感に察知してしまうから。──こればかりは王家に生まれた者の宿命だろうが。
だが、彼女は「王子との会話」ではなく「僕という人間との会話」を純粋に楽しんでいるように思えたのだ。
まだ七歳だから、今はそうでもこの子が成長すれば──と穿った見方ももちろん出来たが、それでも今はこの気楽で穏やかな会話を楽しんでいたいと、そう思った。
そして僕は気まぐれに、彼女にもうひとつの名を教えたのだ。
自分にはもうひとつ秘密の名前があるのだと、内緒話を告げた時、彼女はシスミックを見た時よりもいっそう、瞳をきらきらと輝かせた。
母とのやり取りを聞かせたときには涙を見せ、そして母の想いを彼女なりに汲み取ったらしい。
温室にいる間、彼女は僕を「ミラさま」と呼んで、いろんな話をせがんだ。
小さな体を抱き上げると、僕の目線から見る温室の花畑の青一面に彼女は驚いて、それからとびきりの笑顔を見せる。
そして僕の顔をじっと見て、ふふっと笑みを漏らした。
「シスミックのお花は、ミラさまの目のお色といっしょね。とってもきれい」
「ありがとう」
「でも、ミラさまの目はもっときらきらしていて、宝石のようだわ。本でみた海や夜空の色がまざって、それでいて星のようにひかっているの」
「そこまで褒めてもらえて嬉しいよ」
「あー、ミラさま、おせじだとおもっているでしょう。ほんとうなんだからね!」
「分かっているよ。ありがとう、ベルティーニ嬢」
ゆっくりと流れた時間にも、やがて終わりが来る。
そろそろ戻ろうか、と手を差し出せば、その紅い瞳に一瞬だけ明らかな落胆の色が浮かんだのを僕は見逃さなかった。
だがすぐさまその色を消し、微笑んで礼を取るその姿には尊敬の念すら覚える。
再び乗せられた小さな手を優しく握って、温室を出る。
後ろ髪を引かれるように温室の方を振り返るベルティーニ嬢に、僕は声をかけた。
「ベルティーニ嬢、今日は貴女と話が出来てとても楽しかったよ」
「こちらこそ。とてもすてきなお花を見せていただいただけでなく、殿下からたくさんおはなしをうかがえて、とても…とてもたのしかったです」
温室を出た瞬間から呼び方を「殿下」と改める彼女はさすがだった。
にっこり笑った彼女と、また話をしようと約束する。
そしてベルティーニ嬢は来た時とは明らかに違うリラックスした笑顔で、公爵と共にその場にいた大人たちにしっかり挨拶をして王宮を後にしていった。
そしてその一ヶ月後、僕は清栄の君からの祝福を受けて「王子」から「王太子」になる。
次代の国王となるための、厳しい教育と鍛錬の幕開けだった。
勉学、武道、内政、外交、その他政に必要な全てを大量に叩き込まれる毎日は、文字通り吐きそうなほど厳しかった。
だが、学院ではジャンやシャーロット嬢を始めとした何ものにも代えがたい友を得ることが出来た。
自身の手で政を動かしていくことに対しても、計り知れない責任の重さを感じると同時にこれ以上ない充足感を伴った。
何より、自分のいる環境が世界の全てではないことを否が応にも思い知らされる。
王家があり、その周りに貴族がいて、王太子たる自分はその世界で生きている。
だがその外側には何千、何万の平民がいて、王都の外でも多くの民が日々の生活を営んでいるのだ。
その民の生活の全てに、自分は責任を負わねばならない。
そしてそのためには、自身の小さな世界だけに留まる訳にはいかなかった。
だから知識が必要で、多角的な視野が必要で、鍛錬が必要で、有事の際にもすぐに判断を下せる力が必要なのだ。
それらを得るために、そしてそれらを糧として民を導くために、命を懸ける。
生涯を賭してその責を全うする覚悟のある者にこそ、民を束ね民に敬われる地位に就くことが許されるのだから。
僕は一層研鑽に励んだ。
そして、実務の一部を任されるようになったその頃、それは起きたのだ。
三年前。
その年の王都は、珍しく多くの火災に見舞われた年だった。
平民街の一角ではボヤ騒ぎが瞬く間に拡大し、一帯を全焼させる大火災に発展した。
また貴族居住地でも、王宮裏手の倉庫の火災を皮切りに、名だたる要人の私邸が火事になった。
規模こそ大小様々ではあったが、いずれも怪我人なく鎮火したことは不幸中の幸いであった。
しかし、死人を出した火災があった。
公爵邸にて発生した火事により、当主と思われる焼死体が発見された。
火災発生当時、公爵夫人は咄嗟に近くにいた娘を抱えて屋敷から飛び出し無事だった。
燃え盛る屋敷を呆然と見つめていた公爵夫人は、ふと顔を真っ青にする。
連れ子であった自身の娘がどこにも見当たらない。
まさか、中に取り残されてしまったのか。
半狂乱になって屋敷に戻ろうとする夫人を、娘が懸命に引き留めていたという。
全てを炭と灰に帰した焼け跡からは、連れ子の遺体はついに発見できなかった。
小柄だった連れ子は、骨も残さぬほど焼けてしまったのではないか──
当主の遺体は残っていたのに、と不思議に思う者もいた。
だが見るも無残なこの有様では、もはやそれを確かめるすべもない。
その報告を受けた夫人が人目も憚らず泣き崩れ、その肩を遠慮がちに抱く娘の姿だけが人々の記憶に残り、同情と涙を誘った。
言うまでもなく、それがベルティーニ公爵家だ。
当時の僕はその火災に関する処理には携わらなかったので、以降は人から話を聞く程度だったが、生き残った娘はその後過度の心労で倒れ、しばらく目を覚まさなかったという。
一ヶ月後にようやく目を覚ました娘からは、声と記憶が奪われていた。
見事な艶のあった髪は色が抜けて荒れが目立ち、白い顔は更に青白くなって。
娘の哀れな姿に夫人はまたも打ちのめされたが、そのまま死んでしまうのではないかと思われた娘が一命を取り留めたことに安堵し、涙を流して喜んだ。
そして長い時間をかけて療養に集中し、ようやく日常生活に何ら支障のないところまで来た。
…レオナの言う『成り代わるタイミング』があったとすれば、この火災以外にないだろう。
平民街や他の貴族邸で起きた火事との関連性は分からないが、少なくとも公爵邸で起きたあの火災が人為的なものであることは恐らく間違いない。
恐らくそこで、公爵夫人はユリアと偽ったナターシャを連れ出し、ナターシャが逃げ遅れて助からなかった体でユリアを葬ろうとした──いや、彼女視点『葬った』。
公爵とユリアを亡き者とし、残された公爵家をそっくり乗っ取る。
実際これまで全く疑いも何もなかったのだから、見事成功したと言えるのだろう。
…いや、だがそれもまだ可能性の一つというだけの話だ。
レオナの証言が全くの嘘である可能性も、王宮にいるあの令嬢が本物のユリアである可能性も、まだ完全に消えたわけでない。
鍵を握るのは、やはりアシュリーの存在なのだ。
もし、アシュリーがユリアだったら?
彼女がジャンに語ったという『ミラさま』が、真実僕であったとしたら?
勢いよく寝返りを打って、ブライトは浮かんでいた思考を振り払う。
──もし彼女が本当にユリアなら、あの声で、直接『ミラさま』と呼んでほしい、なんて。
それどころではない状況だというのに、まるで思春期のようなこっ恥ずかしいことを考えるものだ。
自分しかいないにもかかわらず羞恥で悶えていたブライトは、頭をふとよぎった声にぴたりと動きを止めた。
『ミラさまっ』
彼女の声で、そう呼ばれる。
その声は、決して想像ではなく。
はっきりと実感を伴って脳裏に響いている。
ブライトはそれまでの羞恥も忘れて、勢いよく身を起こした。
「……待て。あの時、……そうだ、どうして今まで忘れて……」
──僕は二年前、アシュリーに『ミラさま』と声を掛けられたことが確かにあった。




