第二十話
日々は変わらず過ぎていく。
相変わらず清栄の君はご機嫌斜めのようで、降り続く雨は止む気配がない。
こうも雨が続くなんて珍しいな、とは店の常連客の談。
幸いにも雨は静かにしとしと降っている程度で、水害をもたらすような危険な雨量ではない。
だがこれが更に長引けば、少しずつ災いの気配が忍び寄ってくるだろう。
「…清栄の君が、王太子殿下の婚約を認めておられないのではないか」
そう言い出したのは誰であったか。
その言葉に根拠は何もない。
ただ、喜ばしいことであるはずの王太子殿下の婚約発表に一人の人間が水を差し、その後振り出した雨は止む気配がない。
つまりそれは、清栄の君がその意を、長雨という形で示しているのではないか。
信仰の深いこの国の民が、そう考えるのは自然なことでもある。
そしてそれが民の口から口へと囁かれて伝播していくのに、そう時間はかからなかった。
「…厄介だな」
ブライトはしかめ面で呟いた。
人払いを済ませた自身の執務室で、ブライトはジャンと話をしている。
「人の口に戸は立てられないからな」
「だから厄介だと言っている。…どうしたものかな」
「貴族の間でも話の種になっているらしい。婚約発表の際にお目見えできるはずの“王妃のティアラ”を身につけていなかった、アレはやはりあの娘が次期王妃として認められない人間だからではないのか、と。シャロが友人から聞いた話でも、そう噂が流れているとか」
シャロ、とはジャンの婚約者であるシャーロット・レイス伯爵令嬢の愛称だ。
勤務中、しかも王太子殿下の御前で自身の婚約者を愛称で呼んだり、そもそも敬語もなしに気安く話をしていたりする時点でかなりよろしくない。
が、ここにはブライトとジャンしかいないので、ジャンもいちいち気にしないしブライトも当然それを咎めない。
シスミライトが嵌められた唯一無二の宝である王妃のティアラは、特別な場所に保管されている。
何者もその場所を知らないし、ごく僅かに知っている者であっても王太子と王太子妃の婚約発表、そして婚礼の際にしかその場所を訪れることはない。
そしてその場所の鍵を開錠できるのはただ一人、“ベルティーニ公爵家当主”だけなのだ。
それは建国後、メルサバイト王家とベルティーニ公爵家の間で交わされた盟約だ。
サー・メルサバイトの親友として、側近として。
当時のベルティーニ公爵家当主は、王妃のティアラを代々護っていく大役を仰せつかった。
そして公爵家の当主が、万が一何らかの事情で当主が遂行できないときはその血を受け継ぐ正統な名代が、婚約発表と婚礼の際にティアラを取り出し王家に献上する。
「古い盟約」と呼ばれたそれは、公爵家の中でも当主とその血を引く次代にしか知らされない事実であった。
今回の婚約発表の際に公爵令嬢がティアラを身につけていなかった理由はそこにある。
ベルティーニ公爵家の当主マルクスは既に没している。
そしてその血を引くはずのユリアは、「古い盟約」のことを覚えていなかった。
婚約発表の前日、ブライト、そして国王秘書官の同席のもと、公爵令嬢が国王に謁見した。
王宮での生活に不自由ないかなどの簡単な確認をしたのち、この古い盟約について問われた公爵令嬢は、『存じていない』と答えたのだ。
予期せぬ答えに、国王もブライトも瞠目する。
『公爵より本当に伝え聞いていないのか、それとも伝えられていることをわたくしが記憶と共に失っているのか。それすら今のわたくしには分かりかねます。申し訳ございません』
声を失っている令嬢は筆談でそう書き記したのち、深く頭を下げた。
「ベルティーニの柘榴についても同様か?」
『恐れながら』
国王とブライト、そして国王秘書官は顔を見合わせる。
ただ一人遺された公爵令嬢がそれを覚えていないのなら、王妃のティアラを取り出す手段はもはや残されていない。
そうして謁見は終了し、翌日公爵令嬢はティアラを身につけることなく婚約発表に臨んだのだ。
ベルティーニの柘榴とは、ベルティーニ公爵家に爵位とともに与えられた、膨大な魔力を有する宝石である。
ヴェルハイツ公爵家が呼ぶ“月”がカルネを指していたように、ベルティーニ公爵家に与えられた“柘榴”とは鮮やかな紅色を纏うミレージュのことだ。
公爵が死亡して以降行方の分からないこちらも、公爵令嬢は知らないと答えていた。
古い盟約にしろ、柘榴にしろ、公爵がユリアに何も伝えずにいたとは考えられない。
公爵家の中での話ならいざ知らず、王家にも深くかかわってくるものに対してマルクスが何も手を打っていないとは、彼を良く知る国王には到底思えなかった。
だから、公爵令嬢の言う通り、伝え聞いた記憶を彼女が失っているのだろうと考えられた。
だが、それにしては先の清栄の君の御言葉に引っかかるところがあったのも事実だ。
そこに降って湧いたのが先日の平民の告発である。
民に披露せよ、との清栄の君の言葉に従った、その場であのようなことが起きた。
それからというもの、国王とブライトの疑念はますます色を濃くして心の内に居座ってしまった。
──目の前にいるこの令嬢は、本当は、ユリア・ベルティーニではないのではないか?
「王妃として認められない…あながち的外れでもないのが実に厄介だ」
「だな。そもそもユリア嬢との婚約に対し清栄の君は『異論はない』と仰せなんだろ?それでもこのような事態になるなら…ユリア・ベルティーニその人ではなく、今婚約者として招聘されているあの娘に何かしらの問題があることをそもそも疑わねばならない」
先日、レオナがブライトに対して証言した話はまさにそれだった。
『──殿下、あの女はユリアという名の貴族令嬢ではございません。ナターシャという名の、…私の血縁です』
『何?詳しく申せ』
『亡くなった父と、父の死後すぐに家を出ていった母ペネロペの間に生まれた妹です。ナターシャは私の三つ下、今年十八歳を数えます。血の繋がった姉妹であることすら悍ましい……あの女は…いえ、あの女どもは、家から財を搾るだけ搾り取って父の経営していた商会を潰し、借金を重ねて首の回らなくなった父を自殺に追いやった輩です。そして、私が後処理に追われている間に、ペネロペは自身によく似たナターシャだけを連れてさっさと家を出ていきました。ペネロペは父に似た私を疎ましく思っていて、邪険にされた記憶しかありません。だから、恐らく当時の浮気相手に手引きでも受けたのでしょう。あの女たちは私を、借金と面倒ごとの全てを押し付けた上であっさり捨てました』
『…それは、いつのことだ』
『五年近く前になります、殿下。その後は一切会う機会などありませんでしたが、母親によく似たあの醜悪な顔は一瞬たりとも忘れたことはない。そんな女が他ならぬ王太子殿下の婚約者として紹介されるなど、誰が想像しますか?それを認識した瞬間、私はとても恥ずかしく…あんな女と血が繋がっているのかと思うと吐き気がして……怒りに任せてあの場で殺しにかからなかっただけましだと思っています』
『…』
『ベルティーニ公爵令嬢、ユリア様、でしたか。その女性は本当に存在しているご令嬢ですか?架空の名前を名乗っているのではなく?』
『ベルティーニ公爵家は建国の時より我が王家に仕える古き家柄よ。その今代の娘がユリアという名であることは疑いようもなく事実だ』
『ならば、十中八九お名前を騙っているでしょう。そして裏であの女が──ナターシャの母、ペネロペが糸を引いているでしょうね。計画的に家を捨てられる女どもです。私を捕らえたのち、まず私の籍をお調べになったでしょう。私の籍からあの女どもの痕跡が一切消えていたはずです。そういう悪知恵がよく働く女なのです。どのような経緯で貴族の家に潜り込んだのか知りませんが、きっと公爵のお家でも周到に用意をしていたのだと思います。どこかで成り代わるきっかけがあったのではありませんか?…どうか、母ペネロペと妹ナターシャの身辺、それから公爵のお家に関する今一度の調査を。そして本物のユリア様をお探しください、殿下──』
予想だにしなかったその証言は、しかし妄言と切り捨てるにはあまりに整合性の取れた切迫さを帯びていた。
国王陛下か王太子殿下にしか話せないと言い張り、人払いを済ませた場での証言に持っていかせたレオナの思慮深さに救われたのも事実だ。
この話が事実だろうがレオナの妄言だろうが、実際に彼女の籍が細工されていることは事実である。
それが露見すれば影響は多方面に及び、王家と、王家に連なる役人の信頼を根幹から揺るがしかねない。
牢を出たブライトは、内密に国王陛下に謁見の申請を行った。
そしてレオナの聴取内容を報告し、国王陛下は渋面で報告に耳を傾け、これまた内々にブライトに対して指示を出したのだ。
「ジャンは、本当にあの娘がユリア嬢に成り代わっていると思うか?」
「確信はしていないけどな。そう考えた方がしっくりくるというか、すんなり納得するというか…すべてに辻褄が合う、といったところだ」
「だよな」
「お前自身、どこか引っかかっているんじゃないのか?」
「…そうだな…」
おや、と思うことは幾つもあった。
だが彼女は記憶を失っているから、そんな小さな引っかかりを気にしても仕方ないと思っていた。
それが、ただの違和感でなかったとしたら。
「…きっと、あの日のことも、覚えていないのだろうな」
「あの日?」
「十三歳の頃、その時七歳だったユリア嬢と会ったことがある」
「それは初耳だ」
「会ったのはその一度だけだからな。一緒に温室で栽培している花を見たんだ。そしてたくさん話をして…」
「ほうほう」
「俺の瞳は宝石みたいで綺麗だと。海にも、夜空に瞬く星のようにも見えて綺麗と、そう言ってくれた」
「…うん?」
「話せば話すほど彼女は快活で、たった七歳だったのに聡明だと分かって。ご令嬢とあんなに話が弾んだのは初めてだった。…そんな彼女に、本当に出来心で、もう一つの名前を教えたんだ」
「もう一つの名前?」
「俺を身ごもったことが分かった時、母上が考えた名前だ。腹の子が男なら『ブライト』、女なら──『ミラ』」
その話をブライトが聞いたのは、母が亡くなる数日前だった。
その頃にはベッドから起き上がれなくなっていた母は、心配する侍女に首を振って、ブライトと二人きりになれるよう部屋から下がらせた。
そして、幼いながらに母の死期を悟ってしまった息子の泣きそうな顔に手を寄せて、『母と内緒の話をしましょう』と言ったのだ。
『ははうえと、ないしょの話?』
『ええそうよ。これはね、陛下も──父上も知らないことなの。ブライト、貴方だけに教えてあげるわ』
『なあに?』
『ブライト、私達にも民にも望まれて生まれてきた愛しい我が子。貴方がお腹の中にいるって分かった時に、母はもう貴方の名前を考えていたのよ』
『そうなの?』
『そうよ。男の子ならブライト、女の子ならミラ、と──生まれてきた貴方は男の子だったから、ブライト。でも、ミラという名前にも愛着が沸いちゃってね。だから、貴方にこっそり教えてあげる。母から、もう一つのお名前のプレゼントよ』
『じゃあ、ぼくのもうひとつの名前はミラ?』
『そうね。母はもうその名を呼べなくなるかもしれないけれど──覚えておいてね、ブライト。母は貴方に大事な名前をふたつも考えちゃうくらい、貴方のことが大好きなの』
『ははうえ、僕もははうえのことだいすきだよ』
『ありがとう、私のかわいい息子。いつか貴方が愛する人を見つけたら──その名前を教えてあげるのもいいかもしれないわね。秘密のお話、秘密の名前。それってとっても、わくわくするでしょう?』
そう言って優しく微笑む母の顔を、ブライトは今でもはっきりと覚えている。
「本当に、その話をしたのは偶然だったんだ。ただ、内緒話をしたら彼女はもっと楽しくなるだろうと思って、それを教えた。彼女は幼心に母上の気持ちを汲み取ったのか、『王妃さまの分までわたくしがミラさまとお呼びします』なんて涙目で言って。…それから、公爵のもとに戻るまで、彼女はずっと俺をミラさまと、そう呼んでいたんだ」
「ふーん…うん?」
「だが、…ここにいる彼女はきっと、俺のことを『ミラさま』とは呼ばないだろうな」
「……」
「それに、もしあの令嬢がユリア嬢本人でなかったとして、本物のユリア嬢を手掛かりもなしにどうやって探せと?王都に限定したって、髪色と瞳の色が同じ女性が何人いると思ってる。国内全域にまで範囲を広げれば尚更だぞ。それに考えたくないが、既にこの世にいない可能性すらある。雲を掴むような話だ」
「……」
「しかもそれらを、令嬢と夫人に悟られないように、かつ大事にもならぬよう最小限の人数で、なるべく早く裏を取れなどと、陛下も無茶を仰る………ジャン?聞いてるのか?」
「うるさい。今思い出してるんだ、ちょっと待て」
「はぁ?」
急に黙りこくってあらぬ方を見上げたかと思うと、こちらに一瞥もくれず挙句言うに事欠いて「うるさい」と投げて寄越す無二の側近を、ブライトは半眼で睨めつける。
やや時間を置いて、ジャンは信じられないといった顔でブライトの顔を見返した。
「おいライズ。俺、最近その話聞いたことあるわ」
「はぁ?」
「はぁ?じゃねぇ。七歳の時に一度だけ出会った人と、一緒に花畑を見て、話をして。声も顔も忘れたけど、瞳の綺麗な人だったことは覚えていて、しかもその人のことを『ミラさま』と呼ぶ、そんな話をする女性につい最近会った」
「…は?どこで」
「王立魔力鑑定機関別館。アシュリー嬢だよ、ライズ」
ブライトは突然出てきた名前に驚く。
だが、彼女はあり得ない。だって。
しかし、ジャンは首を振ってブライトに告げた。
「確かに髪も瞳の色も違う。だが、示し合わせることすら出来ない二人が同じことを喋るなんて、そしてその二人の話に整合性が取れているなんて、普通のことじゃない。それに、彼女の立ち居振る舞いはまるで貴族だと、以前お前がそう言ってたじゃないか。……行方の知れないユリア嬢は、アシュリー嬢なんじゃないのか…?」
「…彼女の籍を調べろ。あの店の夫婦の籍もだ。すぐに!」
飛び出していくジャンに声もかけず、ブライトはただ茫然と座っている。
あの日、文具店で便箋に目を留めていた彼女の後ろ姿を思い出す。
あの時彼女が手に取っていたのは、青い花の描かれた便箋。
幼いブライトが、ベルティーニ公爵令嬢と一緒に見た花も、青い花だった。
彼女がそれを覚えていて、だからその便箋を見ていたのだとしたら。
それより前、初めて彼女に会った時。
『とっても綺麗な瞳をお持ちなんですね!透き通った青が髪や肌の色にもよくお似合いです』
『それにきらきら輝いてて、まるで陽の光を浴びて煌めく海と、星の瞬く夜空を溶かし込んだ宝石みたい…』
ずいずいと身を寄せて瞳を覗き込んできた彼女が発した言葉を、自分は昔ベルティーニ公爵令嬢に言われたものに重ねていたではないか。
カチカチと、足りていないものが綺麗に嵌まっていく感覚で満たされる。
だが、どこかでそれにブレーキを掛ける自分もいる。
「──いっそ、違っていてくれ…」
そうでないと、期待してしまうから。




