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第十九話



──義姉(ねえ)さま。



声にならない声が、喉元で掻き消えた。

アシュリーは王太子殿下に寄り添う令嬢の姿を凝視する。

令嬢は王太子殿下を見上げて微笑む。

そして王太子殿下も、傍らの令嬢を見つめて一層柔らかく微笑むのだ。

その目を見れば、王太子殿下が令嬢に対して既に親愛の情を持っていることはすぐに分かる。

そしてそれはすぐに男女の愛に変わっていくだろう。

それほどに、王太子殿下は令嬢を大事にしているように見えた。

その様子を見た観衆は、一層大きな拍手を贈る。


その傍らで、アシュリーはおよそ信じがたい目の前の光景に言葉を失くしていた。

一体自分は何を見せられているのか。

自分を陥れた義姉が、自分の名を騙って、何も知らない自分の初恋の相手と結ばれる──

それは地獄のような事実だった。




義姉さま、貴方は──

私から父さまも家も名前も奪っておいて、あの方まで奪っていくの?

ユリアは私なのに。

ユリア・ベルティーニが王太子殿下の妃となること、それが決められた事実ならば、そこに立つのは私であるはずなのに。

どうして義姉さまが何食わぬ顔でそこに立っているの?



アシュリーは胸の前で組んだ手をきつく握りしめる。

父や使用人の死を嘆いて、亡き母に縋って。

眠りに落ちれば家が燃え悲鳴が上がるあの日を毎日夢に見て、もはや手出しすら出来ないあのふたりへのどうしようもない憎しみを抱えて。

そんな途方もない暗闇を彷徨って、彼女はようやくユリアであることを諦めてアシュリーとして生きていくことを受け入れたのだ。

その時の彼女は既に、義母と義姉に対してどうしてやる気力も持てなかった。

自分にはそもそもどうしようもなかったし、それよりも自分が生きていくだけで精いっぱいだったから。

だから、もう目の前に現れさえしなければ、やっと安定してきたこの生活を脅かしさえしなければ、やがてそのまま忘れられるとすら思っていたのに。

生きろと言った父の遺言を果たすためだけに生きていけると思ったのに。



歓声を浴びる二人から目を逸らすように、本館に寄せられていた馬車に目をやって、アシュリーは更に打ちのめされる。

馬車の窓から見えるあの女性は、義母だ。

侍女も誰も同乗していないのか、はしたなく頬杖をついたその手に指輪が光っている。

義母が嵌めている指輪。



見間違えるはずがない。あれは、母さまの指輪。


母さまがその指輪を外して過ごすところなど見たことがなかった。

それほどに、母さまは父さまに貰ったその指輪を大事にしていた。

そして母さまの願いだったのか、それは母さまの棺には入れられず、父さまの手元で殊の外大切にされていたはずだったのに。

だから、父さまの命と一緒に燃え尽きたはずだったのに。

…きっとあの火事に乗じて父さまから奪ったに違いない。

あの女は──ああも堂々と、平気で身につけられるのか。

その指輪が父と母にとって──そしてユリアにとって、どれほどの想いを込めて大事にしてきたものなのか、あの女に分かろうはずもない。

ファムパルジュ=アマデュロのあの凛とした紫色は、薄く翳っているように見えた。



逆鱗に触れるどころか、ざりざりと無遠慮に撫で回されているような嫌悪感が体中を駆け巡っていく。

父と母の愛を、そして公爵家の尊厳を卑しく汚い足で踏みにじられた。

激しい感情に揺さぶられ、アシュリーは怒りのあまり立ち眩みを起こしそうになる。


──憎い。

父さまと使用人の皆の命も、母さまの指輪も、家も名前も。

そしてそれだけでは飽き足らず、王太子殿下も。恐らく、王家も。

私から持てる全てを奪って、素知らぬ顔であの場に収まろうとしているあの二人が。


短く切り揃えた爪がそれでも手の甲に食い込むほど、組んだ手に力を込めていたアシュリーの耳を、知った声がつんざいたのはその時だった。





「なんであんたがそこにいるの!?」



怒りのあまり自分が上げた声かと思って、アシュリーは咄嗟に口を押さえる。

だがその声は自分が発したものではないらしい。

憤慨したようなその怒声は、拍手の中にあって一層よく響き渡った。



「あんたが王太子妃なんてあり得ない!わざわざ貴族令嬢の名を騙って、どういうつもりよ、()()()()()!」



その場の誰もが拍手を止め、一斉に声の出所に顔を向ける。

だから、誰も気づかなかった。

国王陛下と王太子殿下が、響いた言葉を理解して同時に顔を強張らせたことを。

そして婚約者たる令嬢が、一瞬呆けたような顔をした後、目を怒らせて彼女を見やったことを。



アシュリーも、一瞬それまでの怒りを全て忘れるほど驚いた。


そこにいたのはレオナだった。

周囲の様々な目を、そして周囲にいた人たちに一歩引かれたことによってぽっかりと出来た空間を気にも留めず、腹の底から声を上げている。

彼女は怒気に満ちた視線で、壇上の令嬢を射抜いていた。


なぜレオナがこんなにも怒っているのか──

いや、それよりももっと気になること。

この場でアシュリーだけが、ユリアと紹介されたあの令嬢が偽物(ナターシャ)であることを知っている。

だがレオナが、令嬢に向かってはっきりと「ナターシャ」と呼んだ。

それは誰も知りえないはずの事実を、レオナが知っていることに他ならない。


なぜレオナが義姉(ナターシャ)のことを知っている?

一目見ただけで見抜けるほど、レオナは義姉と関係があったのか?親しかったのか?




「金がなくなった瞬間家族も家も捨てたくせに、今度は貴族様に名前まで借りて取り入ったってわけ!?あんたみたいな心根腐った卑しい女が敬愛なる王家に入り込むなんて到底許されないわよ!恥を知れ!厚かましい!」



レオナは鬼のような形相で叫び続けている。

だが、あっという間に飛んできた騎士に囲まれ、組み伏せられて後ろ手に縛られてしまった。


先程の祝福の空気から一転して一気に騒がしくなった広場を見て、警備の騎士たちは即座に中止の判断を下したらしい。

他の騎士たちに先導され、その場を後にした令嬢に続こうとする国王陛下と王太子殿下の後姿に向かって、レオナは尚も必死に顔を上げて叫ぶ。

「陛下!殿下!その女を王家に入れてはなりません!その女は令嬢の名を騙る偽物です!」

「いいから黙れ!話はあとでゆっくり聞いてやる!」

レオナは猿轡を噛まされ、引きずられるようにして馬車へ乗せられる。

扉を閉められる最後まで、レオナの目には明確な怒気がギラリと煌めいていた。



こうして、久方ぶりの王太子殿下の婚約お披露目は、なんとも後味の悪い形で中止となったのだった。





その夜。

居酒屋に顔を出した常連客達の酒の肴は、やはりと言うべきか、昼間のお披露目のことであった。

「いやまさか、あんな大声で水を差す愚か者がいるなんて思わなかったよ」

「捕まったの、レオナだろ?せっかくの殿下の慶事が、あいつのせいで台無しだ」

「レオナがあんなことを言い出すなんてな」

「言っていることの意味があまりよく分からなかったな。どういうことだろう」

「さぁな。どちらにせよ不敬だろ」

「処刑されるんじゃないか?公衆の面前で貴族にあんな物言いをしたんだし。王太子殿下は慈悲深くいらっしゃるから話くらいは聞いてくださるかもしれんが、とても助命は聞き入れられんだろうよ」

「レオナの家族は大丈夫なのか?一族連座になってもおかしくないだろ」

「いや、レオナに家族はいないって聞いたことあるぞ。なんでも親父さんが死んだ上に、母親と妹が出ていったんだか消えたんだかしたんだと。レオナはそれからたった一人で親父さんの借金を返していく羽目になったとか」

「まあ…俺らがどうこう言ってもどうしようもねぇよ。生きるも死ぬも殿下の御心一つだ」


お披露目の場が散々なものになってしまったことに憤慨する者、レオナの発言の真意を測ろうとする者。

反応は様々だった。

アイラはレオナが捕らえられたことにショックを受けているのか、言葉少なに仕事をこなしている。



アシュリーは気持ちの整理をつけられずにいた。

今日一日で、あまりに多くのことを知り過ぎたのだ。

王太子の婚約者、義母と義姉、母の指輪、そしてレオナの言葉…


あまりのやるせなさと怒りで、冷静に考えられない。

おかげで注文を取り違えたり、洗ったばかりのカトラリーを床にばら撒いたりと、珍しく散々にやらかしてしまったアシュリーは、おやっさんに一つ拳骨を貰ってから仕事を上がって休むよう指示されたのだった。






お披露目から一週間が経った。

レオナはまだ、店に顔を出さない。



どうやら清栄の君はここのところ、かなりご機嫌麗しくないらしい。

ゆうに一週間は太陽や星の姿を見ることもなく、昼も夜も分厚い雲が空を覆い尽くしている。

やがてぽつ、ぽつりと落ちてきた雨粒。

軒先に出している看板を中に入れたおやっさんは、こりゃ長雨になりそうだな、とぼやいた。






しとしとと降る雨は、拭き上げられた窓をあっという間に隅まで濡らしていく。

王宮の一室では、王太子ブライトと秘書官の一人、そしてジャンが、膝を突き合わせていた。


「…先日捕らえた女の様子は?」

「抵抗は全くございません。企みを持っている様子もなく、本人の発言は登録されている籍とも一致しており、他国の間者という訳でもなさそうです。しかし取り調べに対しては、『詳しい事情は国王陛下か王太子殿下にしか話せない。それが叶わぬなら、直ちに不敬と捉え殺してくれて構わない』と、証言を頑なに突っぱねておりまして…」

「…事情は私か陛下にしか話せないほど重要で、それが出来ないなら情報を抱えたまま死ぬことも厭わぬ、か……そこまで言うからには、それなりの何かを知っているのだろう。私が行こう。この後で構わない」

「では三十分後の面会を、牢番の方へ申しつけておきます」

そう言ってジャンが退出する。

それを見送って、秘書官はブライトに向き直る。


「ただ、…ベルティーニ公爵夫人が些か執拗にあの女への面会を求めておりまして」

「なんだと?何故」

「ユリア嬢に対し、公衆の面前で冤罪を被せようとしたことを問い質したいそうですが…」

「…ならぬ。夫人に面会を許可することは一切ない。それよりもユリア嬢に心を砕けと伝えよ」

「かしこまりました」

「…少し席を外してくれないか。一人で考えたい」

「ではそのように。またこちらへお迎えに上がります」

「頼む」



そうして秘書官も退出し一人になると、ブライトは些か行儀悪く足を投げ出し、背もたれに寄りかかった。



テーブルの上には、秘書官らが調べた女の身元や取り調べの様子が纏められた資料が乗っている。

手慰みにそれをぱらぱらと捲って、ブライトは思考に耽る。




女の名はレオナ。二十一歳の平民。

そこそこ堅実に続いていた商会の当主の娘だったが、その商会は五年ほど前に潰れている。

その際に多額の借金を抱えた当主である父が自殺、時を同じくして母と妹が蒸発。

残されたこのレオナは、借金を返すために数多の辛酸を舐め、ようやく借金を返し終わったのが半年ほど前…


「…その働きぶりはなりふり構わないが、一度恩を受けた者に対しては誠実。商会の縁の者は最初こそレオナと関わることを嫌ったが、やがて彼女に同情的になり、水面下で色々と手助けをしていた、と…」

当時十代半ばであった少女が、わずか五年足らずで借金を全て返し終わったというのは、そういった周りの者たちの動きもあったからなのだろう。


「しかし、本人に問題はないが、この者の血縁に関する籍はおかしいな」

指先でとん、と書類を叩く。

レオナと父の籍から、母と妹の籍が完全に消去されている。

籍を処理する際に必ず残るはずの名前も、いつ籍を抜いたのかも、全く分からない状況になっているのだ。

つまり、レオナの母も妹も、籍の上ではそもそも『存在しない』ことになっている。

当然それに気づいた秘書官らは詳しく精査したが、当時これを処理した文官は既に鬼籍に入っているらしい。

その文官が自ら籍の改造と処理を謀ったのか、誰かに指示されたのか。

それすらも分からないほど、綺麗さっぱり手掛かりが消えている。

「…残るは本人の証言のみ、か」


「王太子殿下、そろそろお時間でございます」

「分かった」

扉の向こうから掛けられた声に、ブライトは立ち上がった。





王宮の裏手に、小さな塔がひっそりと建っている。

その地下には石造りの牢があり、レオナはそこに入れられていた。

通常思い浮かべる、囚人が横並びに檻に入れられるような牢とはどうも違うようで、ここは個室のようだった。

故に、ここにレオナ以外の者は収監されていない。


捕らえられてここに入ってから、一週間は経っただろうか。

レオナは、ここで何をするでもなく、騎士団の尋問に答えることもなく、かと言ってすぐに処刑される様子でもなさそうだと、ただ日にちの感覚が薄らいでいくほどの時を無為に過ごしていた。


今日もぼんやりと壁を見つめていると、にわかに牢の外が騒がしくなる。

次いで目の前に現れたのは、レオナが事情を話すに足る相手。



「王太子殿下…」

レオナはすぐに床に跪き、深く頭を下げる。


ブライトは感情の読めない声でレオナに話しかける。

「面を上げよ。私は其方の話を聞きに来た」

レオナはゆっくりと顔を上げて、ブライトを見上げた。

「…王太子殿下の晴れの日にあのような形で水を差した事、誠に申し訳ございません」

「詫びる気持ちがあるのなら、私の問いに正直に答えることだ」

「殿下の命とあらばなんなりと。釈明の機会なく、すぐさま首をはねられる覚悟でおりましたので。…ですが、王太子殿下のみにしか事情を申し上げるつもりはございません。どうか他の皆さまには退出して頂けないでしょうか」

「…私の秘書官一名と、騎士一名の同席。それ以外の者は退出させよう。譲歩できるのはそこまでだ」

「ありがたき幸せ」

ブライトは渋い顔をする牢番の騎士たちに命令を下した。

騎士たちが出ていき、階段へ続く扉を閉める。

残ったのはブライトを案内してきた秘書官と、騎士──ジャンの三名。




ブライトは用意された椅子に座り、鉄柵の向こうに跪くレオナを真っ直ぐ見据える。

レオナはその視線を真っ向から受け止めた。

──何かを覚悟している者の目だ。

ブライトは片眉を上げ、視線でレオナを促す。

そこでレオナが紡いだ言葉は、彼に衝撃をもたらすものであった。



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