第十八話
ぼーっとしていたら、気づけば魔力鑑定機関の別館の前まで来ていた。
私はどこまでも私だな、と思わず苦笑する。
宝石を見て癒されたい──あわよくばライズの顔を見て安心したい──が、泣きはらした目はまだ熱を持っていて腫れぼったい。
そしてもしライズに会ってしまったら、敏い彼はきっとすぐ、この酷い顔に気がつくだろう。
それは嫌だなあとひとりごちて、アシュリーは踵を返そうとした。
が、ふいに呼び止められてつい振り向いてしまう。
「アシュリー嬢?…何かあったのですか」
本館から出てきたジャンと鉢合わせしてしまった。
ジャンはアシュリーの顔に目敏く気づき、心配そうな瞳を向けてくる。
アシュリーは苦笑いをして、ジャンにぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、ジャン様。酷い顔をお見せしてしまってすみません」
「それはお気になさらず。何か心配事でも?良ければお話をお聞きしましょうか」
「いえ、お仕事の邪魔をするわけには…」
「ちょうど休憩時間なので大丈夫ですよ。…その様子だと、話してしまった方が幾分気が楽になるかと思いますが、いかがです?聞き役には最適ですよ、何せ事情を知らないので」
わざとおどけた軽い口調を投げかけてくるジャンの優しさに、アシュリーはこくりと頷いていた。
別館の裏に小さな庭と椅子が数脚あることを、アシュリーは初めて知った。
アシュリーを適当な椅子に座らせて、それからジャンも隣の椅子に腰を下ろす。
「職員や警備の騎士の中でも限られた者しか来ないので、人が通ることはほとんどありませんよ。…まあここから見える位置には警備の騎士が数人立っていますが、話は聞こえないだろう距離なのでご勘弁ください」
それは婚約者を持つ身であるジャンにも、成人前の女性であるアシュリーにも向けられた配慮だ。
それを分かっているアシュリーはただ、ありがとうございます、とだけ口にした。
「失恋しました。…初恋を殺したんです」
前置きもなしにそう呟くと、ジャンは一瞬目を丸くした。
どうやらそういう類の話だとは思っていなかったらしい。
「……あの、私から事情を訊いておきながら何ですが、それは私が聞いてもよろしいのですか?」
「…ジャン様から首を突っ込んできたんだから、最後まで付き合ってください」
口を尖らせると、ジャンは「それはその通りですね」と小さく笑った。
「たぶん、初恋でした。その人にお会いしたのは七歳の時で、ただたくさんお話をして綺麗な花畑を一緒に見て。それだけの時間だったけれど、私にとってはとても楽しい時間だったんです。…とっても綺麗な瞳をした人でした」
「はい」
「でもそれ以降は一度もお会いできないままで…だから私自身、今ではその人のことをはっきりとは覚えていなくて。でも、たった一度しか会っていない人なのに、…それでも好きになっていたんです」
「はい」
「ただ、好きだった。お顔やお声を覚えていられなくても、その気持ちだけは今でも強烈に心に残っているくらい、その人のことが好きでした」
「はい」
「だけど、どうしても…想いを伝えるどころか、もう一度お会いしたいと思うことすらも諦めないといけない事情があって。結局そのまま、私もだんだんその人のことを思い出さなくなって。…そのまま忘れてしまえばよかったのに、今になって急にその人が結婚してしまうことを知って。…それが、どうしても、かなしくて、」
「…はい」
「…好きだった…。好きだったんです、今更こんなに泣きたくなるくらいに」
「はい」
「同じ、だけ、私を想ってほしい、なんて、言わなかった!せめて、せめてもう一度だけでも会って、お慕いしていました、て、伝えられたら、それだけでよかったのに…!」
──どうしてそれすらゆるしてもらえないの。
その本音が声になる前に、アシュリーはその言葉を飲み込もうとした。
だが、ジャンはそれをやんわりと止める。
「アシュリー嬢。…私しか聞いておりません。無理に気持ちを抑えなくていいんですよ。貴女の気が済むまで、吐き出せば良いのです。初恋を殺したと言うのなら、最期までそれを弔いましょう。…それがきっと、貴女が前に進むための手向けとなりましょう」
その優しい声音に、ついにアシュリーは顔を覆って泣き出してしまう。
「ぅ…っ…ミラさま…」
好きだった。
叶わないと分かっていても、その気持ちは捨てられなかった。
せめてそれだけでも伝えたかった。
でも、それももう二度と叶わない。
だから、どうか幸せになって。
私の知らない誰かと、寄り添って歩いていって。
その道が穏やかなものであることだけを願ってる。
だから、どうか幸せに。私の、大事な、大事な初恋の人──
風に遊ばれて草花がさわさわと揺れる音だけが辺りを満たしている。
どのくらいそうしていただろうか、でもそれほど時間は経っていない気もする。
ぐす、と最後に鼻を啜って、ようやく落ち着いたアシュリーはハンカチで涙の跡を拭いた。
ジャンは向こうに咲いている花を見ている。
本当に何も口を挟まず、ただ吐き出すだけの場を作ってくれた。
そしてそれは、思った以上にアシュリーの心を軽くした。
「……お見苦しいところをお見せしました」
「おや、生憎私は花を眺めるのに忙しくて。何か見せたいものがありましたか?」
「…ふふ、見せたいものはないです。……ありがとうございます、ジャン様」
「少し気分が軽くなったようですね。良かったです。今日も大展示室に行かれますか?宝石たちがお待ちかねですが」
「完全に宝石で釣れる女扱いじゃないですか」
「いいえ、そんなことは決して」
「ふふっ。…今日は帰ります。さすがにこの顔で宝石の前に立つのは申し訳ないですから」
「宝石を陛下か何かと勘違いしておられませんかね、それは」
「私にとっては似たようなものです」
「言い切りますね」
久しぶりのささやかな応酬を楽しんで、ふとアシュリーは思い立った。
「そういえば…最近ライズ様を見かけませんが、お忙しいのですか?」
アシュリーがライズの顔を最後に見たのは、ガラスペンと便箋を再び手渡してくれたあの日だ。
その前の、また会って話をしようという約束も、結局まだ果たせていない。
アシュリーの仄かな期待に反して、ジャンは一瞬目を見開いてから残念そうな笑顔を浮かべた。
「ライズは…故あって、今は別の長期任務についています。しばらくは、こちらへ顔を出すこともないでしょう」
「…そう、ですか……」
「事前にお知らせできる任務ではなかったようで、ライズも慌ただしく…私にも事後報告でしたよ」
「お仕事ならば仕方ありませんものね。無事に完遂できるといいですね」
「祈ってやってください。アシュリー嬢がそう思ってくださるなら、あいつも一層やる気になるでしょう」
ライズもアシュリーの前からいなくなってしまったのか。
ほんの少し、浮上していた気持ちが沈んだ。
店に戻って開店の準備をしていると、学校帰りのアイラがやってきた。
「お疲れ様です!すぐに支度して準備に入ります」
「学校お疲れ。ゆっくりでいいよ」
おかみさんの声にはあい、と返事をしたアイラは手早く支度を済ませ、アシュリーと同じく準備に取り掛かる。
しばらく黙々と作業をこなし、ひと段落したところでアイラがそういえば、と声を上げた。
「ねぇアシュリー、今週末に王太子殿下の婚約お披露目があるんだって!」
心臓が変に跳ねた。
「うん?それって貴族だけじゃなかった?」
「それが、今回は貴族へのお披露目の後に平民にもお披露目するんだって。芽吹きの刻の広場で」
「そうなの!?」
「なんか今回は急に方針変えたらしいね。友達が小耳に挟んだって言ってた」
アイラの友達情報はそれなりに正確だ。
貴族の息女が多く通う学校ともあればさもありなん、といったところだ。
「15時からって言ってた。アシュリーも見に行く?」
「うーん…気が向いたら」
「あれ?あんまり興味ない?一生に一度あるかないかのお披露目だよー、しかも婚約発表のお披露目は100年くらいやってなかったんだっけ?超レアだよ!私その話聞いた瞬間に、学校の友達数人で絶対行こ!!って約束してきたもん」
「野次馬根性?」
「野次馬根性!それに私たちの時代を担う王太子殿下とお妃さまだよ?ちゃんとお顔を見ておきたいじゃん。殿下に相応しくなさそうな御方だったら嫌だしー」
まぁ既に王家から発表されてるんだから相応しくないなんてことは無いんだろうけどさ、と語るアイラは、既に国の一端を担う立派な成人の顔を覗かせている。
国のことを真剣に考えている、そんな彼女がアシュリーは眩しいと思う。
──100年ぶりの婚約お披露目、か…
アシュリーはそっと目を伏せる。
淡い恋心は弔ったばかりだが、好いていた人の行く先を共に歩むことを許された女性のお姿を盗み見ることくらいは許されるだろうか。
見たいような、見たくないような。
複雑な思いを抱えつつ、やはりお披露目の日を指折り数えて待ってしまう自分がいた。
週末。天気は素晴らしい快晴。
王宮の広間には、伯爵以上の貴族たちがずらりと整列していた。
その視線の先には、国王陛下と王太子殿下、そして先日発表された婚約者の姿がある。
「このたび、王太子ブライト・メルサバイトと、ベルティーニ公爵令嬢ユリアの婚約が調った。ユリア嬢、これへ」
国王陛下に名を呼ばれ、広間の参列客へ一礼をした令嬢。
割れんばかりの拍手で未来の王太子妃を出迎えた彼らは、ふと違和感に気づいた。
その違和感はどこからともなく広がって、拍手の中にさざなみのようにざわめきが混じっていく。
かつて、サー・メルサバイトが自ら手に入れた至宝“シスミライト”。
その唯一の宝石の一部を切り出し加工することを清栄の君より許された彼は、切り出した石に自ら加工を施し、これまた自らの手で採掘し加工した銀のティアラに嵌めて、自身の妻へ贈った。
“王の後ろに控える唯一の存在は、王たるその全てを至宝と共に曇りなく見定めること”
“王は、後ろに控える唯一の存在を前に、王たる務めをいついかなる時も思い出すこと”
王と妃とはそうして、互いに一番近しいものでありながら、自身を常に相手の一番遠くに置いて見定めていかなければならない。
目の前の相手が、本当にこの国の民に尽くしているのかを。尽くす存在であれるのかを。
そうありたい、そして後の代においてもそうあってほしい──そのような願いを込めて、サー・メルサバイト自らが全てを手掛けたティアラだった。
そして妻はそれを息子の妻となる娘に贈り、いつしかそのティアラは王妃から次代の王妃へと受け継がれる宝として認知されていった。
王太子の婚約発表、そして婚礼披露の際にしかお目にかかれないその無二の宝を、今まさに王太子へ嫁ぐことを発表された令嬢が身に着けていない。
それは、この令嬢が「次期王妃たるに相応しくない」と判断されたことの表れではないのか。
そして何より不可解なのが、それを令嬢の表情からも、広間の端の方に立ち目頭を押さえて微笑む公爵夫人からも全く察せないことだ。
後妻となって日も浅いうちに当主を亡くした公爵夫人はともかく、令嬢の方はどうしたのだろうか。
事件が起こる以前、それこそ生まれてからこの方、王家の歴史と宝の重要性は教養として教えられているはずであるし、そしてその宝を王太子妃となる自分が身に着けないことの意味も当然理解しているはず。
にもかかわらず令嬢は晴れやかな顔で、堂々とその場に立っている。
この発表を心から待ちわびていたように。輝かんばかりの幸せをふりまくように。
参列客の訝しげな視線に気づいていないのか意図的に無視しているのか──もし全てを分かっていてあのような表情でいるのならば、その豪胆さはいっそ称賛に値するほどだ。
だが、あの令嬢は事件後、心労のあまり声や記憶を失ってしまったとも聞く。
しかし公爵夫人や王太子殿下が常に心を砕いており、気力は回復しているというのが王宮に出入りしている者の評だ。
更に王太子殿下は、過去の記憶を無理に思い出させるよりも、これから共に作っていく記憶を大事に留め置いてほしいとお考えらしい。
少なくとも王太子殿下の妻として、あの令嬢は王宮に温かく迎え入れられているようだ。
ティアラの件は些か不可解ではあるが、それを他ならぬ王家が良しとしてこの場を設けているのだから、余計な口を挟むべきではない。
参列客は小さな疑念を、振舞われた果実酒と一緒に喉奥へ流し込んだ。
芽吹きの刻の広場には、大勢の人が詰めかけている。
広場に面する魔力鑑定機関の本館二階にあるバルコニーから、王太子殿下と未来の王太子妃殿下が御顔を見せるのだ。
婚礼お披露目ではなく、その前段階の婚約お披露目は実に100年振りの開催とあり、人出はかなり多い。
近くの教育機関に通う学生たちもこぞって足を運び、歴史的瞬間に立ち会うことを喜んでいるようだ。
王国騎士団の騎士も警備にあたっており、広場全体が多少の物々しさとそれを上回る熱気に満ちている。
アシュリーは人が固まっておらず、かつバルコニーがよく見える場所を無事に確保できた。
バルコニーもさることながら、ちょうど本館の前に停まっている馬車も良く見える。
そしてバルコニーに近いというわけではないので、すし詰め状態で押し合いへし合い殿下を見上げる形にならないのが救いだった。
やがて広場の時計が15時を指すと、バルコニーに国王陛下と王太子殿下が姿を見せた。
広場に詰めかけた観衆は歓声と拍手を捧げ、国王陛下も王太子殿下も片手を上げてそれに応える。
──ミラさま。
アシュリーは知らず両手を胸の前で組んで、息を忘れるように王太子殿下を見つめる。
少し遠いがそれでもはっきりと分かる、アイスブルーの髪と青の瞳。
アシュリーの記憶にあった朧げな少年の姿が、美しく成長した姿になって今目の前に立っている実感を伴ってアシュリーの胸を躍らせる。
紺色の礼服に身を包んだ王太子殿下は柔らかい笑みで、観衆に手を振っていた。
「ミラさま……!」
ほとんど口の中だけで呟いた言葉は、それでも涙が出そうなほど。
ああ、元気な御姿を見れただけで充分。
これで、貴方の幸せを本当に願うことができます、ミラさま──
広場を揺るがす大歓声と拍手は鳴りやまない。
アシュリーが王太子殿下を見つめている間に、国王陛下がもう一度片手を上げた。
それに合わせて瞬時に音が消える。
国王陛下は一つ頷いて、口を開いた。
「──我らが愛する民よ。改めて、ここに王太子ブライトの婚約を発表する」
威厳のある声が広場に響き渡る。
集まった民は固唾を飲んで、その瞬間を待っていた。
「紹介しよう」
国王陛下のその言葉とともに、ひとりの令嬢がバルコニーに姿を見せる。
その姿を認めて、アシュリーの瞳はひび割れた。
ほとんどプラチナに近いと言っても差し支えない、薄く透き通った蜂蜜色の髪。
腰まで美しく伸びた真っ直ぐな髪がさらりと揺れる。
白い肌によく映えるような、少し暗めの緋色の瞳。
よく見知った顔が、──忘れもしないその顔が。
美しく微笑んで王太子殿下の隣に収まる。
まるで初めから、その場所が彼女のものであったかのように。
「やがて王太子を支える妃となるは、ベルティーニ公爵が令嬢、ユリア」
大歓声も、拍手も、アシュリーの耳には届かない。




