第十七話
窓から差し込む太陽の光は温かく眩しい。
その眩しさに目を眇めて、アシュリーは背を向けるように壁に凭れ、ベッドの上で膝を抱える。
元気に通りを走っていく子どもの声、商品を運ぶ馬車の音、威勢のいい商人たちの声。
平民街に来た当初は、その賑やかな喧騒に大層驚いたものだ。
だが、三年もすればそれが日常になる。
──これが自分の日常になったのだ。
アシュリーは目を閉じて、抱えた膝の上に頭を預けた。
アシュリーには秘密がある。
それは秘密でもなんでもなくて、ごく当たり前の事実だったものだ。
三年前、唐突にそれを奪われるまでは。
アシュリーは、おやっさんとおかみさんの実の子ではない。
十二歳の時、たまたま自分に手を差し伸べてくれたのがその二人だったというだけだ。
泥と煤と、良く見れば血だと分かっただろう黒ずんだものがこびりついたぼろぼろの衣。
歯の根が合わないほどガタガタ震えていたのが、決して寒さからではなかったこと。
それはどう考えても良くない事情を抱えている不審な子どもだっただろうに、二人は何も聞かずにまず彼女の身の安全を優先的に確保し、面倒を見てくれた。
とにかく栄養のあるものを少量ずつ、と、店で出す料理とは別に彼女のためだけの食事を毎日毎食、手を尽くして作ってくれたおやっさん。
毎晩うなされ飛び起きては錯乱状態で泣き喚く彼女をぎゅっと抱きしめて、泣き疲れて眠るまで離さずにそばにいてくれたおかみさん。
二人があれこれと献身的に尽くしてくれたおかげで、ひとりではとても生きていけなかった少女は生きることを許されたのだ。
彼女は、本当はアシュリーという名前ではない。
それは母方の祖母の名前だった。
保護してくれたおかみさんに名前を訊かれて、咄嗟に口をついて出たのがその名前だったというだけだ。
だから今ここにいるアシュリーという名の平民の娘は、実はこの世のどこにも存在しない。
だから学校には行けなかった。
二人は学校に通わせようとしてくれたが、彼女がそれを頑なに拒否したのだ。
入学の手続きをすれば、『アシュリー』という平民の籍が存在しないことが明らかになってしまうから。
では、アシュリーと名を名乗る、今ここにいる『私』は一体誰なのか?
他人事のように、時々考える。
いや、もはや他人事になってしまうほどの時間を、彼女は『アシュリー』として過ごしてきてしまった。
たかが三年、されど三年。
彼女にとって生まれてからの十二年間は、十二歳からの三年間に埋もれてしまいそうなほど、遠いどこかの誰かの記憶であるかのように儚くなってしまっていた。
鈍い痛みがアシュリーの頭を襲う。
アシュリーはぼんやりと、微かな記憶を手繰り寄せた。
彼女は貴族の娘としてこの世に生を受けた。
ユリア・ベルティーニ。それが彼女の名前だった。
父であるマルクス・ベルティーニ公爵と、母であるオデット公爵夫人。
その二人の間に生まれた長女がユリア。
父も母も健やかに生まれてきた我が子を大層慈しんで育てた。
父からは燃えるような紅い瞳を、そして母からは豊かな蜂蜜色の髪を譲り受けた。
顔立ちは精悍な父にも、麗しい美貌を持つ母にも似ているようで、ユリアがよちよちと屋敷を歩き回るようになると、先々で出くわす使用人たちをよく破顔させていたらしい。
使用人たちは皆、主人夫妻と令嬢を心から慕っていた。
母はいつも、左手に大きな石のついた指輪を嵌めていた。
それは結婚する際に父が贈ってくれたファムパルジュ=アマデュロなのだと母が教えてくれた。
その涼やかな紫色を眺めるのがユリアは大好きだった。
そして父が王立魔力鑑定機関の機関長を務めていたことにも起因するのかもしれない。
ユリアは幼少の頃から、宝石やファムパルジュに関する知識を貪欲に吸収していた。
そして、いつか父の元で魔力鑑定機関の職員として働くことも、幼心に夢見ていた。
そんなユリアのたどたどしい夢を、父も母も喜んでくれた。
確かな愛情を一身に受けて、ユリアは身も心も美しく成長していく。
絵に描いたような、幸せな家だった。
だが、ユリアが七歳の時に、母が突然亡くなってしまった。
風邪を拗らせ弱った体に運悪く流行り病が魔の手を伸ばし、母の生涯はあっけなく閉じてしまったのだ。
唐突な死別に、公爵家は火が消えたような静けさと哀しみに襲われた。
父は最愛の人を喪った痛みに耐えながら、これまで通りの仕事をこなした。
使用人たちは父にあらん限りのサポートを尽くした。
ユリアも使用人たちの愛情に育まれながら、父をサポートするべく貴族としてのマナーやありとあらゆる教養と知識を身につけるために励んだ。
王太子殿下──その頃はまだ王子殿下だった──と出会ったのもちょうどこの頃だった。
はっきりとしたことは覚えていない。
ただ、久々に屋敷に帰ってきた父がすぐにどこかに出かけようとしていることに気づき、珍しく泣いて縋ったユリアを父が連れ出してくれたことは覚えている。
それが王宮での茶会だったのだと気づいたのは随分後になってからだった。
ユリアの我儘を、父も、そして招待された大人たち(その中にはおそらく国王陛下もいたのだろう)も笑って受け入れてくれた。
そしてそこでユリアは王子殿下と一緒にゆったりとした時間を過ごした。
その時に芽生えた想いがこんなにも強烈に残るとは思いもしなかったが。
その後、王子殿下は立太子の儀を行い、正式に王太子殿下となられた。
そしてその後のユリアが王太子殿下に拝謁することはなかった。
時が経ち、ユリアが十一歳を迎えようとする頃。
父が突然後妻を迎えた。
しかもその後妻はもともと平民の出で、裕福な商家に嫁いだものの数年で夫が儚くなり、義実家から出されたのだという。
後妻となったペネロペには娘がおり、ナターシャという名のその娘はユリアより二つ上の十三歳だった。
唐突に義母と義姉を紹介されたユリアも使用人も、まさに青天の霹靂だった。
あんなにも母を愛していた父がなぜ急に後妻を娶り、娘ともども公爵家に迎え入れたのか、その理由をユリアは知らなかった。
なんとなく、詮索してはいけないものだと肌で感じ取っていたから。
だが義母も義姉も公爵家での自身の立ち位置を敏く分かっていたのか、常にユリアを立てて自身は一歩下がったところにいるような女性であった。
使用人にも遠慮がちで、自分の立ち位置を弁え公爵家の人間の領分を犯さない。そんな印象だった。
だからユリアも、使用人たちも安心していた。
それが文字通り命取りになるとも知らずに。
そしてユリアが十二歳になる頃、あの忌まわしい事件が起きたのだ。
突然起きた火災によって父は死んだ。使用人たちも多くが犠牲になった。
義母と義姉の差し金だったことは分かっている。
あの二人は、父のみならずユリアにも手をかけたのだから。
それまでともに暮らした一年間の、奥ゆかしく穏やかな笑顔からは想像もつかない醜悪な笑みを浮かべて、悪魔のような笑い声で。
父とユリアを、そして大事な使用人たちを、容赦なく死の道に放り出したのだから。
──あの日、珍しく義姉さまが「私も一度でいいからユリアのような格好をしてみたい」と仰ったのだ。
いつもなら諫める義母さまも、義姉さまに服を貸してもらえないかと遠慮がちに私に尋ねてきたのだ。
私は特に気にせず了承して、私の部屋のクローゼットを開けて。
義姉さまはその年の子どもにしては小柄だったから、二歳下の私の服にもすんなりと袖を通すことができた。
義姉さまは大喜びで、「お義父さまに見せに行く」と部屋を飛び出してしまった。
義母さまは義姉さまの突然の行動を詫びながらも、私に何度も御礼を言ってくださった。
そして、「せっかくだから自分にも、ナターシャにやるようにあなたの髪を結わせてもらえないか」と提案してきた。
私は喜んで、義母さまに慣れた手つきで髪を結ってもらった。
義母さまは前妻の子であり血のつながりのない私に遠慮してか、触れてくることは一切なかったから、私にも心を許してくれたのだということが嬉しくて、私も父さまに見てもらおうと部屋を出て。
まず父さまがいるだろう書斎に行ったのだけど、書斎にはいなかった。
そこに通りかかった庭師が、「旦那様なら地下の書庫にいらっしゃいますよ」と教えてくれて、私は地下へ向かったのだ。
──そして、それが間違いだった。
すべては仕組まれていた。
義母さまと、義姉さまによって。
あの日のあの時、私に成り代わるための準備が整ってしまったんだ。
私の服を着た小柄な少女が公爵夫人と共に助かり、夫人がその娘を「公爵の娘だ」と言えば、その少女は公爵の実の娘の方だと思われるだろう。
父さまは私を社交の場に連れていくことはほぼなかったから、ユリア・ベルティーニの素顔を知るものなんていないに等しい。
夫人とともに助かった少女がユリアかどうかなんて、周囲の人間に分かるはずもない。
だから、義姉さまが私の名を騙ったところで誰にも気づかれるはずがなかった。
それに私と義姉さまは血のつながっていない姉妹でありながら、髪と目の色が似ていた。
私は蜂蜜色の髪、義姉さまはそれが少し褪せたプラチナのような髪色。
私は紅色の瞳、義姉さまはわずかに暗い緋色。
火事のショックで声が出ず、火事以前のことを思い出せず、ストレスから髪の色まで抜けてしまったのだなどと嘯けば──現にあの火災以降、私の髪は義姉さまのものにそっくりになるほど色が抜けている──、後々ユリアを知っている者と鉢合わせても、容姿もさることながらユリアが知っているであろう事象をその少女が知らない齟齬をうまく誤魔化すことだって容易だ。
私だって思いつくような誤魔化し方を、周到に用意を進めてきた彼女たちが思いつかないはずはない。
そしてそれを覆すことができるほどに、ユリア・ベルティーニを知っている者はほとんどいない。
もう、私を“ユリア・ベルティーニ”その人であると証明するものは何一つないのだ。
初めから仕組まれた火事だった。
出火場所、私達父娘を閉じ込めておく場所、そこに火が回るまでにかかる時間。
助からなかった当主と連れ子、助かった夫人と当主の娘。
夫人が実の娘を助けたという“事実”が広まれば、血を分けた自分の娘を助けることができなかったことに同情を集めることもできるし、そうまでして家の血筋を保った夫人の鑑として立場を守ることもできる。
後妻であることに対する余計な疑念も払拭できるだろう。
そうして、当主と実の娘を過去に葬り、家と名前を乗っ取った。
そういう筋書きだったのだ。
私と父さまは退場することが決まっていた哀れな舞台役者。
そして義母さまと義姉さまはまず舞台の中心でスポットライトを浴び、可哀想な遺族を演出した後、早々に舞台を降りてその舞台の顛末と評判を好き勝手に吹聴する聴衆に紛れ込んだのだ──
アシュリーは重く澱んだ心の内を吐き出すように溜息をつく。
だが義母と義姉の唯一の誤算は、自分が生き残っていることだろう。
ユリアは息絶える寸前の父によって、辛くも魔の手から逃された。
その後のことはほとんど覚えていない。
気がついたら平民街の大衆居酒屋の前で、おやっさんとおかみさんに助け起こされていた。
それに、後から鏡を見れば、なぜか髪の色も長さも、そして瞳の色も変わってしまっていた。
顔立ちはそのままだが、髪と瞳の色が違うだけでがらりと印象が変わる。
ぱっと見ただけでは、ユリア自身もこれが自分だと分からなかった。
だが、これであの日の父の遺言を果たすことが出来る。
十二歳のユリアはそうして、『アシュリー』として生き延びることを選んだのだ。
「“生きろ”。時が来るまで。そうすればそれがお前を導く」
そう言い残して、よく分からない薄っぺらくて小さな革袋を一つ彼女の手に握らせて。
あの日父は縋る彼女を無理やり突き放した。
炎の中から。
アシュリーには、父の言ったその『時』がいつ来るのか分からない。
今となっては、あの聡明な父が何故あんな猛毒を公爵家に引き込んだのか、その真実を知ることも叶わない。
だが、建国の時より続くベルティーニ公爵家の血を引くたった一人の子孫として、たとえ今後一切日の目を浴びずに過ごすことになろうとも、生き残った自分は生きなければならなかった。
貴族の娘が平民として生きるのは大変だった。
きっとおやっさんもおかみさんも、正体までは分からなくともアシュリーの出自が貴族であったことは薄々察していただろう。
それほどまでに、平民として暮らすには当時のアシュリーに出来ないことがあまりに多すぎた。
だが、おやっさんもおかみさんも根気よく、時に厳しく生活のすべを教えてくれた。
全てはアシュリーのためだ。
決して見返りを求めない、二人の深い愛情のおかげで、アシュリーは安全な三年間を過ごすことが出来たのだ。
それでも、こうして襲い来る喪失の痛みに立ち向かうことはまだ出来ない。
「…父さま…母さま………、ミラさま…」
アシュリーはぽつりと呟いて、再び涙を落とした。




