第十六話
今日の王都は、一日中お祭り騒ぎだった。
この国の王太子であるブライト殿下の婚約が、王家から正式に発表されたからだ。
王太子はもうすぐ22歳になるが、これまで婚約の話が全く出ていなかった。
現国王と今は亡き王妃の婚約は、国王が10にも満たない年齢の時に既に決まっていたというから、王太子が御歳をその倍まで重ねても婚約の発表がなかったのは異例といえば異例である。
だが、ようやく次期国王の伴侶が決まった。
案の定、今日の大衆居酒屋はどのテーブルもその話で持ち切りだ。
「いやぁめでたい。ついに婚約なさったか」
「相手はどんな人だろうね。やっぱり殿下にふさわしい人じゃなきゃなぁ」
「これで殿下にお子が産まれるまでは死ねんくなったわい」
「なんだいあんた、まるで自分が殿下の爺さまみたいな発言して。不敬だよ」
「うるさい。あれだけ聡明にお育ちになった方だ、次のお世継ぎまで何としても見届けにゃあ」
「はーやだやだ。また大食らいの長生きじじいが増えるさね」
おーいシュー、こっちに飲み物おくれー、という声に、アシュリーは元気よく返すのだった。
アイラは興味津々に、仕事をしながらも馴染みの常連客と会話に興じている。
「婚約の発表があったってことは、お相手のお披露目もあるの?」
「いんや。伯爵以上の貴族には王宮で婚約のお披露目があるって話だけどね。残念だが平民にお相手のお姿を見せてくれるのは婚礼の時だよ」
「なぁんだ、私たちはそれまで待つしかないのね。婚約しても、婚礼は1年後とかなんでしょう?つまんないの」
「まあまあ、それは仕方ないさ。かなり昔には、婚約を結んで大々的にお披露目したはいいが、その後白紙になっちまったこともあったらしいからのう。慎重にならざるを得んのじゃろ」
「ふうん。王族ってやっぱり大変ね」
「高い身分にはそれだけの責務がある、ってのが代々の王様の口癖のようなもんだからな。この国で一番尊い御方には、尊ばれるのと同じだけ最も重い責務があるんだよ」
「その考え方は徐々にお貴族様にも広がっているらしいけどね。だが長らく染みついた人の考え方なんかそうそう変わらんよ。特に昔から贅沢の限りを享受してきたお貴族様は、身分を笠に着てふんぞり返り、平民を人間と思わないようなお人もまだまだいる」
「でも、この国で一番偉い国王陛下がそれを厭うていらっしゃるからね。俺らがじじいになって、生まれる孫が時代を担う頃になったら、また変わるかもしれんな」
「王家が平民を含めて民を愛しておられる限り、俺らは王家に敬愛を尽くすのみだよ」
「王太子殿下も国王陛下によく似て聡明であられるからね。次代も安泰だろうな」
「王妃様も大層お喜びだろう。唯一の御子が、あんなにも立派にお育ちになられた」
「ああ、王妃様が身罷られたときは陛下が憔悴しきっておられたしなあ。王太子殿下はまだ小さかったし、殿下の御身にも何があるか分からない。それでも陛下は次の御子を授かるために側妃を娶ることを頑なに拒んでおいでだったからなあ」
「ま、大事に大事に育ててこられた王太子殿下は既に成人し、やっと婚約が調ったんだから、さぞ安心しておられることだろう」
「いや今日は素晴らしい日だ!王太子殿下の婚約に乾杯!」
「乾杯!」
どこからともなく誰かが大声を上げて音頭を取れば、続く乾杯の声がテーブルを越えて店中に広がる。
そんな調子で何度も杯を乾かしていく客たちに、アシュリー達も笑いながら応えるのであった。
真夜中過ぎ、閉店後。
厨房で仕込みを続けるおやっさんとおかみさんに挨拶をして、居住スペースの三階に上がる。
手早く寝る支度を済ませたアシュリーは、自室の灯りを落とした。
ベッドに潜り込み、掛布団を頭の上まですっぽりと被って、ようやくアシュリーは震える息を吐き出した。
今日の自分はきちんと接客出来ていただろうか。
きちんと笑顔で、いつもの看板娘アシュリーとして振る舞えていただろうか。
それすら分からないほどに、彼女は今日荒れ狂う心を必死に隠していたのだ。
やっと、ひとりになれた。
そう思った瞬間、アシュリーの目から堰を切ったように涙があふれてくる。
この日が来ることは最初から分かっていた。
そして、その時隣に並ぶ女性が自分ではないことも、三年前には既に思い知らされていたことだ。
「……ぅ…っ、ミラさま……」
小さく呟いたのは、あの時教えてもらった内緒の名前。
三年前のあの日、一緒に死んだはずの気持ちが蘇ってくる。
後から後から流れる涙が、冷たい枕を濡らして更に冷やしていく。
たった一度の邂逅は、遠く過ぎ去った十年近くも前の話。
当時七歳だった自分には、もはや朧げな記憶しか残っていない。
だが自身に差し出された手、穏やかな笑顔を向けてくれたこと、二人だけの内緒の名前。
それだけは手放すまいと、必死に思い返してきた。
でも、それも今日でもうおしまい。
これからこの国を率いていく貴方が、どうか幸せであるように。──さよなら。
半端な初恋をやっとの思いで握りつぶしたアシュリーは、半ば意識を失うように眠りについた。
どうしてか、唐突にライズの顔を見たくなった。
時は少し遡り、午前10時を過ぎた頃。
メルサバイト王国王宮には、青の間と呼ばれる一室がある。
清栄の君の化身たる青の至宝が鎮座坐しますその青の間は、普段は国王以外何人の立ち入りも許されない。
しかし例外的に、その場に国王以外の者の入室が許される時がある。
それが、次期国王たる王子の立太子時と、王太子の婚約・婚礼時であった。
国の次代を決める立太子や婚約を民に発表する前に、この青の間で清栄の君へ挨拶をするのが、古くからの習わしである。
今この間にいるのは、国王、王太子、国王秘書官の三名。
ちなみに、婚約者はいずれ王家に入る者ではあるが婚礼をするまではまだ正式な王家の一員ではないという立場に位置付けられるため、その者の入室は王太子妃となる婚礼時まで許されない。
「清栄の君よ。国王ミスラム・メルサバイトの名において、王太子ブライト・メルサバイトと、ベルティーニ公爵令嬢ユリアの婚約を宣言する」
国王の言葉に合わせ、王太子は清栄の君に深く頭を下げる。
青の至宝が仄かに光ったかと思うと、青の間にいる三名の頭を貫くように、突如として声が響いた。
──国の民に披露するがよい。よく見定めよ──
これに大層驚いたのは国王と国王秘書官であった。
現国王が王太子であった前回、同じように先代国王から清栄の君へ婚約を報告したときは、このような御言葉を直々に賜ることはなかったからだ。
国王は息を整えて、再び神に問う。
「我らが敬愛なる清栄の君よ。その御言葉、確かに承った。しかし、その真意は──」
──異論はない。だが、よく見定めよ。汝らの選択を──
それきり、青の至宝はその仄かな光を失い、沈黙を保ってしまう。
国王は些か青ざめた顔で深く礼をすると、同じように青い顔をした秘書官と、困惑している王太子を連れて青の間を辞去した。
国王の執務室にて人払いを済ませ、国王と秘書官、そして王太子は再び向き合う。
「国王陛下。先程の清栄の君の御言葉は──」
「分からん」
にべもない返事に、王太子は目を丸くしてしまった。
「婚約の報告に際して、清栄の君から御言葉を賜ったこと自体が初めてなのだ。記録には残っていないし、もちろん私と王妃の婚約の際にも賜った覚えはない」
「……」
「異論はない、と仰っておりましたゆえ、ベルティーニ公爵令嬢を王太子妃とすることに否はないのでございましょう。しかし、よく見定めよ、とは…」
「ベルティーニ公爵令嬢自身を?それとも、彼女を私の妃とすることによる周囲の人間の動きを?」
「どちらとも取れる。王太子よ、公爵令嬢はしばらくそなたと行動を共にする時間が多くなろう。警戒しろとは言わんが、よく観察せよ」
「かしこまりました」
「国の民に披露せよ、と仰っていたな。……これまで、婚約の時点で平民に披露目をしたことは」
「建国初期の頃は毎回行っていた記録が残っておりますね。人口が増えるにつれ、婚約時は省略され婚礼時のみのお披露目になったようです。最後に婚約の時点で平民に披露したのは──」
資料を捲っていた国王秘書官の手が止まる。
「……100年前です。後に白紙となった令嬢との婚約の際の出来事です」
「なぜ白紙に?」
「お披露目の場にいた平民の男が数人、令嬢に詐欺紛いの行動を取られたとその場で糾弾したようですね。当然場は大混乱し、お披露目は即刻中止になった。平民の男たちの証言を一貫して否定していた令嬢でしたが、最終的に家ぐるみでかなりの人数相手に詐欺を働いていたことが明るみになり、それを認めたかどで婚約は白紙。家は取り潰され、令嬢自身は自殺しています」
国王と王太子は微妙な顔をした。
「…平民にも等しく披露することで、その時のように何かがあぶり出されるかもしれないと?」
「…どうでしょう。ベルティーニ公爵家に後ろ暗いところがないことは陛下がよくご存じでございましょう」
「…いや、清栄の君の仰せだ。直に御言葉を賜った以上、それを違えることはない。一週間後の王宮での披露後に、平民への披露を加える」
「承知いたしました。そのように準備を進めさせます」
そして、予定通り婚約が公に発表され、間もなくして公爵令嬢は王宮へ招聘されたのだった。
14時を回った頃、王宮の中庭にて。
王太子ブライトは、目の前で静かにカップを傾ける公爵令嬢を見つめていた。
カップをソーサーに音もなく戻すその姿は、とても六つ年下とは思えない優雅な所作だ。
「…」
令嬢がブライトの視線に気づいて首を傾げる。
「ああ、すまない。──所作が美しくて、つい見とれてしまった」
そう取り繕うと、彼女は淑やかに微笑んだ。
昼前には王家から正式に、自分とこの令嬢の婚約が発表された。
長らく空席だった次期王太子妃の座がようやく埋まる。
それに伴う貴族勢力の動きもしばらくは注視しておかなければならないが、それは父である国王陛下の側近が率先して目を光らせてくれるはずだ。
国王の親友でもあり、側近でもあったマルクス・ベルティーニ公爵の掌中の珠。
名をユリアというこの公爵令嬢が成人を迎える二年後に、婚礼の儀を行うことになっている。
ベルティーニ公爵令嬢は父である公爵の意向もあってあまり表には出てこなかったが、美しく聡明な令嬢だと評判だった。
しかし三年前にとある不幸な事件に巻き込まれて父と義理の姉を亡くし、自身の声と記憶を失ったという。
髪色も抜けるほどの心労を抱え、しばらく床に臥せっていたが、共に遺された公爵夫人──公爵の後妻であり、実の母ではない──の献身的な看護によって、万全ではないが日常生活に支障はないほど回復した。
ベルティーニ公爵家の血を引く人間は、もはやユリア嬢しかいない。
だが当主が亡くなった当時のユリア嬢はまだ十二歳で、家督を継ぐこともまだ考えられなかった。
亡き親友の忘れ形見、その将来を憂えた国王は内々に根回しを重ね、この度ユリア嬢が王太子の婚約者として指名されたのだった。
ブライト自身、ベルティーニ公爵令嬢とは子どもの頃に一度相まみえている。
だから彼女を婚約者に据えることを打診されたとき、ブライトは全く反対しなかった。
だが今、令嬢を改めて目の前にしてみれば、記憶の中の少女とはずいぶん印象が違うことがすぐに分かる。
記憶にある蜂蜜色の髪も、燃えるような紅い瞳も、そこにはない。
そこにあるのはほぼプラチナに近い薄い髪色と、紅色というより緋色のような暗色の瞳だ。
加えて、あの時のような生き生きとしていた笑顔もない。
まさに貴族の令嬢の如くたおやかな笑みを湛えるその顔は、もはや覚えのないものだった。
しかし──最初の出会いからは実に十年近い月日が流れている。
加えて三年前の事件のことが彼女にいまだ暗い影を落としていることは誰の目にも明らかであるため、印象が違うのは当然と言えば当然。
そして思い出は思い出だ。十年近くも経てば、補正も多分に掛かっているだろう。
だが、その理由で違和感に蓋をするわけにはいかない事情がブライトにはできてしまった。
言うまでもなく、清栄の君の忠告だ。
晴れやかな日となるはずの今日が、些か翳りのあるものになってしまった──
だがブライトはそれをおくびにも出さず、再び視線に気づいて目を丸くする目の前の令嬢に曖昧に微笑みかける。
今後は王宮で、自身とこの令嬢、そしてその周りの動きをよく観察しなければならない。
もちろんそれがなくとも、もうこれまでのようにおいそれと王宮を出てふらりと街に下りることも出来ない。
だがこんな時でも思い出すのは、もう相まみえることはないだろうあの娘の笑顔なのだ。




